二律背反


掲示板「大風呂敷」で、吉さんと村田晴彦が書いたことを受けて、塾長が「二律背反」について書いた記事です。



「頭でわかっている」のはやっぱりわかっていない 投稿者:村田晴彦 投稿日:2009年12月18日(金)15時22分26秒

(略)
根石さんと空手の先生が、歩きながら、語学における
型の話をしているのを、後ろから歩きながら、静かに
聞いていました。

そして、根石さんが「語学においては『二律背反』は
いたるところに出てくる」と言うのを聞いていて、
はっと思いました。

「個々の音」と「連続性」の「二律背反」。
「イメージ」と「連続性」の「二律背反」。

「二律背反」の間では「身体」が引き裂かれる。
そもそも「身体」がなければ「二律背反」もない。

私は、とても大事なことを忘れていました。
語学をすると「身体」に何が起こるか。
どういうことをすると「身体」に言葉が根付いて
いくのか。
それを頭で考えていたんです。頭で考えてなんと
かなるとどこかで思っていたんだす。
それじゃだめなんです。
自分の「身体」にひきつけて考えなければ。
(略)



村田さんへ 自分オリジナルの線の話とか、、  投稿者:吉 投稿日:2009年12月20日(日)09時51分19秒

(略)
> 「語学においては『二律背反』は いたるところに出てくる」

たとえば、こんな一言も デカイ文章だと思ったりするのです。
字面は短文でも、僕には歯ごたえがあって噛みにくいものです。

自分が今まで生きて経験したことをフル動員して、
「なんとな~~く、こんなことを言っているのだろう」と、
想像することぐらいしか(読み手の僕には)できません。

ぼくは根石さんの「半分の年数しか生きてない若造」ですから、
まず「経験値」が根石さんとくらべて断然少ないのですね。

指導経験だって少ないし、家を自作した経験もない、読んだ本の数も絶対に負けますから、
根石さんの頭の中で想起されるイメージと、僕の中で想起されるイメージの量も質も
ケタ外れに違うわけです。
(ちなみに僕は、「語学においての二律背反」の具体的な実例が1個くらいしか思い起こせないですよ。)
(略)



吉さん 投稿者:村田晴彦 投稿日:2009年12月21日(月)04時31分41秒

>> 「語学においては『二律背反』は いたるところに出てくる」

>たとえば、こんな一言も デカイ文章だと思ったりするのです。
>字面は短文でも、僕には歯ごたえがあって噛みにくいものです。

頭の中で考えていると、「語学においては『二律背反』はいたるところに出てくる」
という文章が簡単なことに思えてしまうのですね。わかった気になってしまう。
吉さんの言われるように、本当はすぐに理解なんかできないはずなんですよね。
私は根石さんの話を聞きながら、わかったような気がしたんですが、やっぱり
まだ本当には理解できていないのかもしれないとも思います。
根石さんが生徒の英語の練習を見ながら、テキストを作り、長年考えてきたこと
が「若造」に、にわかに理解できるわけないんです。
理解できたと思うのは思い上がりで、それはほんとに表面をなぞっただけにすぎ
ない。
そして、頭で考えるのではなく、自分の身体を通して考えないと、わからない。
(略)


二律背反 投稿者:根石吉久 投稿日:2009年12月21日(月)14時44分22秒

1.音に気をとられれば、意味(イメージ)が伴わなくなる。意味(イメージ)に気をとられれば、音がおろそかになる。音と意味の二律背反。

2.音をつなげようとすると、個々の音がおろそかになる。個々の音をきちんと扱うと音の連続性が壊れやすくなる。個々の音と音の連続性の二律背反。

3.意識にイメージが動くスピードに従えば、音の連続性は壊れる。音の連続性を優先すれば、そのスピードでは意識にイメージが動かなくなる。意識のスピードと音の連続性がもたらすスピードの二律背反。

4.文字でイメージを動かそうとすると、音でイメージが動かなくなる。音だけでイメージを動かそうとすると、文字でイメージが動きにくくなる。音とイメージ、文字とイメージの二律背反。

5.語学で、どこまでやっても言葉に当事者性は備わらない。生活言語では、いきなり当事者性が必要。仮の言語(語学の言語)と実際の言語(生活言語)との二律背反。

6.総じて、練習の量をかせごうとすると質が悪くなる。質をよくしていくと、量がかせげなくなる。量と質の二律背反。これは、語学に限らずどこにでもある。


 まだあるかもしれません。まだ名付け得ていないものがあると思います。

 1に関して。
 音だけを扱う課程(「回転読み」に至る過程)と、音にイメージを合体させる課程(「切断読み」の過程)を分けてよいという策を提示。練習の前後関係を提示。

 2に関して。
 個々の音を大事にして言い続けることで、自然に連続性が生じるのを待つ。連続性が生じたら、わずかにアクセルを踏む。アクセルを踏んでも音(個々の音と文としての連続性を共に含む)が壊れない状態を維持する。いくらアクセルを踏んでも音が壊れない状態に持ち込む(がんがん踏む)。完成形は「回転読み」となる。両立しがたいものを両立させる過程そのものを提示。

 3に関して。
 「切断読み」を提示。先に「回転読み」で、個々の音と文全体の音を両立させておき、「切断読み」に入る。この前後関係は非常に大事。「回転読み」を完成させることで、音の全体が意識に伏在するようになる。その段階で、連続性を「わざと壊す」。音の連続性が意識に伏在することによって、壊された連続性を、「普通の速度」に「戻すこと」(連続性の回復)が成り立つ。「戻る」過程では、「音に気をつかわず、イメージに専念すること」と、「イメージの動きに従って徐々にスピードを戻すこと」が可能になる。つまり、「イメージの動きそのものの速度をあげる」ことが可能になる。イメージを独在させる(日本語から脱皮させる)にも、夾雑物を含むイメージを純化する(イデア化する)のにも必要な過程。

4.「言いながら書きながら思う」という練習方法を提示。音と文字とイメージを一体化する。音だけを扱う過程(「回転読み」完成まで)とイメージを扱う過程(「言いながら書きながら思う」→「電圧装置」)は分離していてよい。最後に統合(「切断読み」→「連続読み」)する。文としてイメージを統合するときに、単語や句や節を単位とする部品の質が問題になる。「言いながら書きながら思う」では、部品を扱う。初めから、「言いながら」であり、「書きながら」であるから、音とイメージ、文字とイメージの関係を練習に含む。「言いながら書きながら思う」の奥の院は、「思う」にある。「言いながら書きながら思う」が同時に成り立たない場合は、「言いながら思う」、「書きながら思う」の二つに分解することも可能だが、最後は「言いながら書きながら思う」が全部成立するようにする。これが、「当初、存在しなかったイメージを存在させる」ことになる。「回転読み」と同じく、「切断読み」から「連続読み」の過程をたどるときの基底を成す。

5.「磁場論」に直結する。語学論となる。

6.語学以前(以後?)だが、語学にも働いている二律背反。


連続読み 投稿者:根石吉久 投稿日:2009年12月21日(月)15時04分35秒

先ほどの記事に、これまで使っていない「連続読み」という語が使ってあります。
これは、「切断読み」の後半部分に相当すると考えてもいいし、「切断読み」から「連続読み」に移行すると考えてもいいが、いずれにせよ、「切断読み」と「連続読み」の間に継ぎ目はありません。「切断読み」そのものと「連続読み」そのものが、連続します。

音だけを扱う過程で、「回転読み」の直前、「アクセルを踏みながら一定の安定した速度を維持する」ことと、「連続読み」は、外から見れば酷似しますが、実際はまったくの別物です。
「連続読み」は、あくまでもイメージの動きの速度に従った「連続性」であり、イメージなしでいいとする「アクセルを踏みながらの一定の安定した速度」とは「もの」自体が違います。