ニャンニャン裏通り・出前版(5)
松岡祥男
猫 根石さんに、初めて会ったのは1992年の元旦だったよな。
松 うん。せいさんが実家に里帰りしていて、根石さんも一緒に来ていた。それで訪ねてくれたんだ。たしか上町五丁目の電停まで家の人に車で
送ってもらって、おれがそこまで迎えに行った。土産に酒を貰ったよ。根石さんは結構緊張していたな。
猫 それはそうさ、訪ねる方は緊張するものだ。おまえのことだ、そのとき、何を話したか、なにも覚えていないだろう。
松 覚えてない。それから交流が始まったんだけど、おれ、根石さんの自作の家が完成したら、長野へ行くって約束してるんだけど、その約束をいまだ
に果していない。ぐずぐずしているうちに、どんどん時間が過ぎて、あまり身軽に動けない感じになってきたんで、ヤバイなと思ってるよ。
猫 嘘つきの証拠だ。わしはこの間、川村さんちで、ネットのグーグルの俯瞰映像を見せてもらったから、鋳物師屋の根石家の位置とその周辺の感じは
分かった。千曲川が流れていて、それで出来たとおぼしき平野があり、その後方に山があって、だいたいその平野の中間あたりだな。武田信玄と上杉謙信の合戦
の繰り返された川中島に近いんじゃないか。おまえ、実際に会うまえに、根石さんのことを知ったのはいつだ。
松 それは岡山の加藤健次さんが『防虫ダンス』という雑誌を始めて、それに何か書いてくれって言ってきたんだよ。そのとき、おれは関心の中心が詩
にあって、詩の時評みたいなのをやってみたいと思っていた。だから、引き受けたんだ。まあ、全国で出されている詩の同人誌を一応見てみたいってのもあった
し、自分で書いている奴って、一般的に他人の書いたものってあまり読まない傾向があるだろう、とくにおれみたいな学校が嫌いで、本を読むのも得意じゃない
ものはね。それに加えて、ややもすると、地元にひきこもり、視野が狭窄してしまいがちだからね。世間は広いと判っていても、おれみたいなこだわるタイプ
は、どうしてもじぶんのやってきたこと、つまり左翼的な思考と視野の枠に収まってしまう。その殻を破りたいっていうこともあって、加藤さんの誘いに乗った
んだ。
猫 おまえ、加藤さんに頭があがらないだろう。世話になっておきながら、礼のひとつもしていない。
松 うん、加藤さんは凄かった。いろんな詩人に原稿依頼し、集まった原稿を自分で全部ワープロ入力して、ゲラ出しして、校閲してもらっていた。経
済的にも労力的にもたいへんだったにちがいないよ。詩の時評は何回やったかな、じぶんのところに送られてきたものと、それから加藤さんところに送られてき
たものをみて、やったんだ。加藤さんがまとめて送ってくれたからね。その中に根石さんが発行していた『月刊へるにあ』って雑誌があって、それが面白かった
んで、時評で言及したのが最初だとおもう。それに対して根石さんが雑誌で言い返してきた。それからだね。
猫 おまえの話は大雑把だからな。『防虫ダンス』は1987年4月創刊、季刊で、おまえが「詩時評」を始めたのは、第3号(1987年10月発
行)からだ。それで第8号(1989年2月)で終刊している。おまえの連載は6回だな。
松 『防虫ダンス』の時評の発言に対して、鈴木志郎康と佐々木幹郎から抗議の手紙が届いたことは覚えているよ。鈴木志郎康の抗議は、鈴木が新日本
文学会が運営していた「詩の教室」の講師をやっていることに触れたのに対して、鈴木は自分は「新日本文学会の会員ではない」と言ってきた。佐々木幹郎の
は、元・革命的共産主義同盟全国委員会(いわゆる中核派)の大阪の反戦高協の活動家らしい一種の脅しだったような気がするが、もう覚えていないね。おれ、
詩人ってやつは、〈余計な親切〉がお好きなんだと思ったよ。
猫 「有名詩人」からの抗議は名誉なことだ。その手紙は蔵ってあるか。
松 どこかへ放り込んであるはずだ。でも、掘り出す気はないね。もう全部時効だよ、加藤さんへの不義理ってこと以外はね。おれは基本的に、同人誌
に発表されたものとはいえ〈公表された発言〉に対して、〈私信〉の形での抗議は認めないね。それぞれ発言の場があるはずだから、間違いを正したり、気にい
らなければ、公然と叩けばいいんだ。まあ、自分はメジャーだから、おれのようなマイナーの駆け出しを相手にしたら沽券に関わると思ったのかもしれないが、
そうだったら黙っていればいい、泡沫とみなしてね。私闘や死闘じゃないんだから。北川透の場合もそうだ。若月克昌が『同行衆通信』に「菊屋まつり」の批判
を書いた。そしたら、北川透は「私信」の形で抗議文を送ってきた。どこにも寄稿と書かれてなかったから、勝手に掲載するわけにはいかない。それで、当人
(若月)へ転送するほかなかった。ところが、北川透は私の反論を〈黙殺〉したと言って、自分の主宰する『あんかるわ』誌上で、おれと若月の批判を書いた。
当然、おれはこれに反論した。そしたら、北川透は口を噤んだ。
猫 そりゃな、日頃つきあいのあるものとか、知らない人でも、おまえの言っていることは、ここが間違いだとか、ここが変だとか、電話や手紙なんか
で言ってきてくれると、うれしいし、それに助かる。この場合は、それとは明らかに違うからな。
松 それで終わりならいいが、続きがあって、『吉本隆明資料集』に「菊屋まつり」の「フリートーク」を収録した時、北川透は「無断転載」だと言っ
て、今度は各方面へ、おれを中傷する文章を送付したんだ。これは若月の一件への意趣返しだ。絶好の仕返しのチャンスと思ったんだろうね。もちろん、これに
も必要最小限度は反撃した。北川透はまた黙んまりだ。しかし、これは〈時効〉というわけにはいかない。なぜなら、これはおれ一人のことではなく、他へ迷惑
が及ぶ可能性があるからだ。おれは北川透が自らの〈非)を認めるまで、対峙の姿勢を放棄することはない。北川透は大学教授になり、「鮎川信夫賞」や「中原
中也賞」の選考委員をつとめる「偉い詩人」のつもりなんだろうが、おれから言わせれば、卑怯でケチな野郎さ。その点、根石さんは爽やかだったな。
猫 それで、おまえは根石さんのファンになったというわけだ。
松 うん。根石さんには『みだらターザン』(1982年4月刊行)という、わりと端正な詩集もある。
みだらターザン
ターザン風邪ひいて下品下品咳した
タカコちゃんトコロテン食べながら馬走らせた
ターザンちゃんあたいを攫ってどこかそこらで皮剥いで!
さんざんわめいてころころころげて馬ふんづけた
馬怪我してわんわん泣いた馬すわりこんだあぐらかいた
ターザン下品下品咳した
タカコちゃん別の角度から馬責めた
馬にゃあにゃあ笑った
タカコちゃんたちまち禿げあがり尻から卵産んだ
ターザン舐めたターザン舐めたぴちぴち音した
タカコちゃん血の毛なくなったターザン舐めた
タカコちゃん血の毛なくなった馬の毛ふえた
馬ぴよぴよ喋った
ギッタラバッタラして馬ぴよぴよ喋った
きもちよい亜熱帯高気圧のごむまりごむまり
おっとここらは毒の多い
ターザン馬の尻に棒入れた
馬ぴょんぴょん跳ねた踊った輝いた死んだ
タカコちゃんにっこり
しなしなした
したのほうもした
ああいタカコちゃんわるい娘わるい生娘下品下品
積乱雲砕けて牛猪突した頭さげてぺこぺこ走りくる
ターザン高く飛びあがりマントひらりとさせた近代
またまたまたタカコちゃんは好きな道をえらぶ
牛に正面衝突をのぞみかたく抱きついた
牛死んだ
タカコちゃん牛の皮剥いた白い脂が流れた
どきどきターザンを見て
あたいにもしてというのだ
全十三篇で、これが表題作だ。この詩集は豆本だから小さい。それで紛れ込んでしまうといけないんで、本棚の定位置に置いてあったんだ。だけど、おれ、意
味もなく本棚いじるの、好きなんだ。図書館の勤務だとか本屋の店員なら、けっこう性に合ってるような気がする。だけど、本棚をつついたときに、どこへ置い
たか、判らなくなった。探しても見つからない。どうしようと思って、何ヶ月もして妻に聞いたら、「あなたは、カセット・テープ類と一緒に二階へもって行っ
たわ」と言われた。それで簡単に見つかった。
猫 まあ、リスが木の実を蔵い込んで忘れるみたいなもんだな。それに、何か思いついても、三歩歩けば忘れるクチだからな。だいたい、整理能力が欠
如してるよ。資料や手紙をそこらへんに突っ込んでおいて、必要なものがあると、やみくもに混ぜくりかえすから、余計に煩雑になって、収拾がつかなくなる。
そんなんじゃ、おまえが『吉本隆明資料集』を出してるの、集めた著作や対談や談話などの収拾がつかないんで、まとめているだけじゃないかと思われかねない
ぜ。わしは『みだらターザン』のなかでは、「町をぬけて」という詩がいちばん好きだな。
町をぬけて
町には女が歩いていて
私はそれが気がかりだった
女にはいろいろがついているので裸体ではなく
はだしではなく
犯されて死んで片足だけみつかった
そのもとの体に似ていて
まだ犯されてはいなくて死んではいなくて
私は下を向いて歩いていて
夏の太陽だから首を撃ってきて
影は私の影だがくっきりと重くて
歩いてくる女の影がそれに重なるときに
何かが死んでゆくのだった
やっと目をあげると
町はぐるぐるとめまいしていて
いつでもそこにあるのだった
みずすまし
みずすまし
狂うみずすましの影が水底で正円を描き
町はぐるぐるとめまいしていて
町には女が歩いていて
私はそれが心配だった
ふくらはぎやももはむきだしで
むきだしの脚に即してさかのぼれば
そこには私が思う穴が閉じていると思えば
それもやはりむきだしで
心配だった
町をぬけると
女のいない草っぱらに
太陽がひとつしたたり
私の莫大な影が
うすら青い手と脚をつかんで
背後にひどく伸びていった
松 いい詩だね。こういうのが、ほんとの抒情詩だ。根石さんは1951年7月生まれで、おれは同じ年の12月だ。
猫 「私は下を向いて歩いていて/夏の太陽だから首を撃ってきて/影は私の影だがくっきりと重くて」というところがじぶんと似てるなと思ったぜ。
根石さんは、この詩のように鬱屈を抱えていて、一見慮外者にみえても、ほんとうは真摯で不器用なんだ。フロイトに言わせれば、子どもはみんな変態性欲の傾
向を普遍的に孕んでいるから、それがエロス的に解放されていれば、わりと顔をあげて女性と接することができるんじゃないか。むかしは『罪と罰』のラスコー
リニコフみたいに、孤独に暗く心を閉ざして、世界への敵意を抱いているのがカッコイイと思っていたが、どうも歳をとると、柔和な人のうちに偉大さは宿るん
じゃないかと思うようになったな。日常的なことでいえば、いまは職場で女の肩や尻を触ったりしたら、それこそセクハラだって大騒ぎになるんだろうが、ひと
むかし前はそんなの日常の挨拶がわりみたいなところがあったからな。でも、そんなこと、出来ないものは出来っこない。高校の時、好きな女の子がいて、つき
あっていたんだが、触れることなんかできなかった。ところが、同じクラスの男が手相を見てやるなんて言って、彼女の手を取った。わしは「この野郎!」と
思った。しかし、そういうことは、出来ない者からすると、その隔絶って絶対的だからな。夏目漱石の小説の三四郎にしても、『行人』の一郎や二郎にしても、
そんな感じがするな。作者の漱石自体がきっとそうなんだ。『三四郎』の冒頭で汽車で一緒になった女と同宿することになり、なにごともなく別れるだろう。そ
のとき、女が「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」って言うだろう、あれだ。
松 詩の業界は死に瀕している。その象徴が思潮社が始めた「鮎川信夫賞」だ。詩集部門が谷川俊太郎、詩論部門が瀬尾育生と稲川方人、特別賞が粟津
則雄。この顔ぶれだ。出版社も選考委員も受賞者も、これでみっともないと思わないのかな。お仲間の盥回し、自社宣伝の猿芝居。こんなものになんの意義もな
いよ。賞をやるんだったら、無名の新鋭にやればいいんだ。本人の励みになるし、詩の世界への新風にもなるかもしれないからね。鮎川信夫が墓の下で怒ってる
ぜ。
猫 村上春樹の『1Q84』の第3巻(BOOK3)が出たな。
松 読んだよ。いよいよアホらしいことになったよ。別に青豆が「引き金にあてた指に力を入れた」しかし、力を入れただけで拳銃の引き金を引いたわ
けじゃなかった、というダマシに腹をたてているわけじゃないさ。この程度のごまかしやはぐらかしに怒っていた日には、白土三平のマンガなんかつきあえっこ
ないからね。ただ、この第3巻目で、こけおどしの通俗小説だということが完全に実証された。そして、村上春樹は、なんのことはない筒井康隆みたいな、エン
ターテイメントにすぎないということになったんだ。
猫 『1Q84』は、もう一冊出るかもしれないぜ。なにしろ1から3で、4月から12月までだからな。1月から3月までのやつが。「BOOK0」
ということで、電子書籍にしたりして。
松 そんなことは知ったことか。勝手にすればいい。
猫 ただ、怒ってるだけじゃ話にならないぜ。ちゃんとその理由を言わないとな。
松 どこを取り上げても同じことさ。ある作家が第3巻の全部がエピローグだと言っていたけど、その通りだと思う。でも、おれとしてはそれでは済ま
ない。第一に、この小説に出てくる「さきがけ」という宗教団体は、誰がどう読んでもオウム真理教だ。それで村上春樹は、地下鉄サリン事件の被害者のインタ
ビューした『アンダーグラウンド』というノンフィクション作品という建て前の本も出している。その村上春樹が「さきがけ」の山梨の教団施設に大きな焼却炉
があり、そこで内部粛清者や外部から拉致した者を焼却し、灰にしてきたと書いている。そういう殺人と死体遺棄は自明の前提として、この作品のなかで語られ
ているんだ。
牛河は山梨の山奥に「さきがけ」本部を訪れたことが二度あり、そのときに裏手の雑木林
の中に設置された特大の焼却炉も目にしていた。ゴミや廃棄物を焼くためのものだが、かなりの高温で処理するため、人間の死体を放り込んでもあとには骨ひと
つ残らない。何人かの死体が実際にそこに放り込まれたことを彼は知っていた。
(村上春樹『1Q84』(BOOK3)第1章)
おれはそんなことを聞いたことはない。ふつうなら、誰かがオウム真理教をモデルにしてストーリーを作り、その中にこれと同じような展開があったとして
も、所詮フィクション(作り話)で済むかもしれない。しかし、村上春樹の場合は、いきがかり上そうはいかない。村上春樹は、作家としてサリン事件の被害者
にインタビューし、オウム真理教の幹部の取材もやり、事件に大きくコミットし、それを重要な対象としながら、その組織や宗教性と真向かうことなく、問題の
核心を回避したうえで、風聞や根拠のない推測をさもに〈既成事実〉であるがごとく、作品のうえで扱い、読者に流布しているといえる。そうやって、村上春樹
はオウム真理教と地下鉄サリン事件を〈ミステリー〉に仕立てあげたんだ。でも、あれは〈ミステリー〉じゃない。
猫 警察が警察庁長官狙撃事件の犯人を逮捕することができず、時効が成立した際に、法を無視して、犯人を特定することはできなかったが、オ
ウム真理教の犯行に間違いないという異例のコメントは発表した。これはどう考えたって、特定団体にたいする予断と偏見に基づく〈不当な擦りつけ〉であり、
〈名誉毀損〉だ。だいたい、狙撃された国松長官は、じぶんたちのトップだ。その犯人を逮捕できないことは、組織の面目丸つぶれであり、国家公務員としての
職務遂行能力が問われるはずだ。それなのに国家の組織が、こんなことを〈公然〉と言っている。オウム真理教の後身であるアレフが抗議するのは当然だ。こん
な〈無法〉の越権が許されるはずがない。それだったら、時効が成立しようが、長官を撃った奴をどうあろうとも特定してみせる、それがわしらの意地だと言う
か。それとも、無能を恥入って小さくなるのが、ほんとうだろう。村上春樹が作品上でやっていることも、それと〈同列〉だ。
松 そうだね。高知市の前市長松尾徹人は、オウム真理教の信者の高知市への転入は認めないという市の条例を議会へ提案し、全会一致で採択された。
この「市条例」は、「思想と信仰の自由」や「居住権」を保証した「日本国憲法」に反するものであり、「基本的人権」を侵害する明らかな〈憲法違反〉だ。と
ころが、オウム真理教ということで、誰一人反対するものはなかった。保守派から「破防法」反対の共産党まで、みんな賛成したんだ。おれは頭にきた。しか
し、こんなことに、すぐ声を挙げる立場にないし、実際、行動を起こすのは億劫だ。仮にそれを押し切って、異を唱えたとしても、このファッショ決議がくつが
えることはないだろう。そのうえ、オウム真理教の信者や擁護者とみなされる。それも厄介なことだ。おれは、オウム真理教の出家主義に反対だし、やったこと
も否定する。麻原彰晃の考えにも共鳴しない。そうであっても、この条例が不当なものであることは明白だ。まあ、こんな条例は所詮、運用上は空文にすぎない
面もある。なぜなら、転入者の一人一人を「オウム真理教」の信者であるかないか、その都度〈査証〉しなければならないからだ。そんなことを「市役所」がや
るとは思えないし、それをやれば、今度はその場面で〈問題化〉するはずだ。そういうふうに、おれは自己了解をつけたけれど、ちっとも、すっきりしたわけ
じゃない。
猫 あれは官僚あがりの松尾の、反オウムの社会時流に迎合した思いつきだ。だってよ、高知でオウム真理教をめぐってトラブルがあったわけではない
からな。
松 村上春樹は、イスラエルくんだりまで行って文学賞を受賞した際に、じぶんは「作家」だと公言した。そうだったら、作品が作家の主戦場のはず
だ。そこでの格闘を放棄したら、作家としておしまいじゃないのか。これは単なる失敗作や駄作ということではないよ。村上春樹の作家性の崩壊だ。少なくとも
『風の歌を聴け』から始まり、自ら築きあげてきた作家の〈本質性〉をなし崩しにしたようなもんだ。第3巻では「青豆」「天吾」の章に加えて、「牛河」の章
が導入されている。これによって、本人は「第三人称」的視点にしたなんて言っているみたいだが、より作品の〈通俗化〉が進行したのさ。だいたい、大売れの
国際的「大作家」と自他ともに認めているんだろうが、そのため担当編集者すら作品の〈欠陥〉について、適切なアドバイスもできないようになっているような
気がするよ。たとえば「牛河」の章で、天吾の住むビルの一階の一室を牛河が借りて、天吾の動向を探っていて、牛河にも空に月が二つ浮んでいるのが見えだし
たせいで、その月を見ているうちに、反対に青豆に尾行され、牛河の行動と居場所が青豆に知れるところとなる。そして、青豆の連絡によって、タマルが牛河の
部屋に侵入し、牛河を殺害する。ところが、この第25章は牛河が〈主格〉だから、当然牛河にとって、タマルは未知の存在だ。それで、最初は「男」というふ
うに記述しているのに、その章の途中で「男」と記述していたのが「タマル」というふうにすりかわっている。むろん、その場面で「男」が名乗るところも、牛
河が「男」を「タマル」と認識するところもない。
(第25章の書き出し)
「それほど簡単には死なない」と男の声が背後で言った。まるで牛河の気持ちを読み取ったみたいに。「意識をいったん落としただけだ。あとほんの少しという
ところまでは行ったが」
聞き覚えのない声だった。
(「男」が「タマル」に変わるところ)
「リーダー殺害の一件はおたくが仕組んだのか?」と牛河は言った。
男はそれには答えなかった。しかしその無言の回答が決して否定的なものではないことを、牛河は理解した。
「私をどうするつもりだ?」と牛河は言った。
「どうしたものかな。実をいうとまだ決めてないんだ。これからゆっくり考える。すべてはあんたの出方次第だ」とタマルは言った。
(村上春樹『1Q84』(BOOK3)第25章)
こんな初歩的な混乱が放置されているんだ。
猫 それこそ通俗化の象徴的なあらわれだな。〈作者〉も〈語り手〉も〈登場人物〉も任意に入れ替わるという。
松 おれはこの作品に本気で立ち向かおうと思い、言ってきた。しかし、こうなると、全部徒労のような気がした。たとえば、天吾の母親が父親ではな
いかもしれない男とセックスをしている場面が、天吾の幼少期の記憶として残っており、それがトラウマのように天吾の心に疑念の影を落としていることになっ
ている。しかし、子が〈父〉と〈母〉の声を聞き分けられるようになるのは、三木成夫などの究明によれば、胎児の時期だということになっている。そこからす
れば、この天吾のこだわり方、つまり作者の認識と設定はおかしいことになる。だけど、そんな上等な文句をつけるレベルにないということだ。好きだった作家
がずっこけてしまったという失望ももちろんあるが、それ以上に、これは日本の社会の惨状を映す鏡のような気がしてきたよ。それは出版業界、文壇のなあなあ
の構図だけじゃなくてね。おれにはもともと無縁の事柄で、心配する必要のないことだけど、「偉くなる」ってことは、実は怖ろしいことなんだと思ったね。
猫 まあ、こんな作品を否定できないようでは、日本の文芸に未来はないな。知ったことじゃないが。
松 青豆が首都高速道路の非常階段を下りることから、「1Q84」の世界が開け、青豆と天吾が手に手を取って、非常階段を昇り、その世界から出て
ゆく。めでたし、めでたしの「純愛ストーリー」って具合にしているが、二人の愛が血ぬられたものであるように、この作品はペテン的な作為に充ちている。そ
れはオウム真理教のことだけじゃない。柳屋敷の老婦人が、嫁いだ娘がその夫の性的暴力によって無惨な扱いをうけたことを憎むことは当然だ。そのうえで、そ
の娘の夫に報復することもありうる。また同じように性的暴力を行使している存在を憎悪することも一般に可能だ。だけど、個人的な愛憎を拡大できるのはそこ
までじゃないのか。それを社会性へ発展させると、そこに〈間接性〉が入ってくることは避け難いことだ。つまり社会運動や保護活動という拡散した形式になる
ことは必然だといっていい。しかし、作品の中で老婦人や青豆がやったことは違う。それなのに、老婦人は老いによって、憎しみが薄れるとともに、虚しさが侵
入するようになり、手を引くようになってゆく。こんな富と力に依存した〈特権的横暴〉が許容されるはずがないんだ。それはこの世界は欲望や利害などに基づ
いて、戦争やテロや陰謀や暴力が現実を支配していて、その人類が営々と築いてきた〈歴史の全体性〉から誰も逃れることはできないとしても、その打ち消しや
克服がわれわれの方位であり、希望するところじゃないのか。オウム真理教の極悪非道の所業を断罪するというのなら、その真実を捉えなければならないはず
だ。それと同様に、老婦人も青豆も無傷でいいはずがない。まして、村上春樹は『アンダーグラウンド』という「正義」という名のもとのボランティア活動に手
を染めてるんだ。こんなもので、その消去になるはずがない。
猫 まあ、そうムキになるな。小説の読み方を間違えているって言われるぜ。『ノルウェイの森』よりも、その原型である「螢」のほうがいいに
決まっているが、そうであっても、別に悪い作品じゃない。抒情的なメロディや、ワタナベと直子が散歩するシーンのなんでもないような雰囲気や、全体的な
トーンが、作品を支えているんだ。
松 おれも『1Q84』なんかより、その『ノルウェイの森』や短篇、旅行記『遠い太鼓』のほうが好きだ。しかし、村上春樹本人はたぶん
『1Q84』が最も良い作品と思っている。むかしの村上は、「螢」の中だったとおもうけど、いつも本を読んでいるから、他人から物書きになるつもりなんだ
と見られていた、でも、じぶんはそんなものになりたいとは思っていないし、なににもなりたくなかった、と作中で書いていた。そんな初心みたいなものから、
遠く隔たってしまったのさ。いまではきっと自分はノーベル文学賞に値する作家だと思ってるんじゃないか。まあ、『1Q84』より木村紺の『からん』
(1〜4)の方がずっと面白いからね。『1Q84』なんて読み返すことはないような気がするけど、『からん』は二度読んだよ。
大石萌「のォ 百 今日ォーはなんや 仰ォー山修学旅行生居るのォ やったらくそ 制
服 目ェつきよるわい」
吉見百「受験生の子ォらやんか 今日 私立の合格発表やさかい うちの学校も…… って萌 あんたまた昼間からお酒なん飲んでからに」
大石萌「ええけ百! 世の中にはな! ノンアルコールビールゆうのんがあるんじゃ」
吉見百「スーパードライのノンアルコールなんあるかいな 見つかってもしらんえ? いや さぶ 見てる方が凍えるわ 風邪やらひいてもしらんしね」
大石萌「うお! ごっつい尿意来たで!」
(木村紺『からん』)
高校3年の柔道部主将が、昼間からビールかっくらってる図だ。不良もいいところなのに、明るい。これが落ちこぼれの野郎どもだったら、窓ガラスを叩き
割ったり、先公を殴ったりするところだが、そんな愚行はしない。望月女学院の柔道部の面々は、学校ではじゅうぶん反抗的で異端なのだが、単細胞じゃない
ね。だいいち登場人物はきちんと描きわけられていて、活き活きしてる。その点『1Q84』は、青豆も天吾も歪んでいるし、ふりえりを除く登場人物も暗く陰
湿だ。その世界も擬制的だ。第3巻で、生彩を放っているのは、天吾の父親が入院している病院の看護婦たちだけだ。
猫 しかし、こんな話は虚しいな。いまさら村上春樹を批判したって、なんにもならないぜ。おかげで、わしらの話も二番煎じだ。
松 おれもそう思うよ。でも、それはある面、仕方ないよ。こんな話は、話題の対象の善し悪しに左右されるところもあるからね。いいものについて言
うと、話はひとりでに弾み、盛りあがるけど、つまらない事を話題にすると、浮かない感じになり、しだいに萎んでゆくさ。しかし、この躓き方はどこかで日本
社会の壊れ方と通じているかもしれない。
ヨドバシカメラの下請けの配送業者さんがやってきて、冷蔵庫も洗濯機も階段の幅がど
うだ、カウンターがどうのこうので入らないと言っている。成田さんがすかさず「手伝ってやるよ、カウンターを越えて運べばいいんだろ、男五人いたら簡単
だ」とかっこよく言う。しかし先方は「お客さんに手伝ってもらうことはできない、だから、カウンターの手前に置くから、自分でやれ、こっちの人手は貸せな
い」などと言っている。
自分がせっかく運んできた冷蔵庫が、目の前で人手が足りないことによって、お客さんが落っことしたりして、たとえば壊れても、仕方ない、そうなったら責
任は客にあるから問題が起きない、というわけだ。
ヨドバシの人に「あほじゃないか?」と文句を言ったら、「こちらではなんとも、業者さんの会社の責任でして」などと言っている。いやな世の中だね〜、分
業にしちゃってるから責任のたらいまわし、まあ、それにつけこむ客もいるからってか。
そして増員なら今から手配するから三時間待てとか言っている。意味なく炎天下の三時間、外においてある冷蔵庫と洗濯機。男手が意味なく五人、その場でぶら
ぶらしている。
ほんとにばかみたいな世の中になっちまった…。
(よしもとばなな『大人の水ぼうそう』「8月4日」)
それで結局、冷蔵庫はカウンターの前まで運ばれて、そこから旦那と友人二人が入れるが、配送の者はそれをじっと見てるだけ。この酸鼻な光景がすべてを物
語っている。これが、現在の〈高度管理社会〉の実際なのだ。
猫 わしは、怠惰で小心で非力の役立たずだが、そんなわしでも、こんなことぐらいは、どうすればいいか自主的な判断がつくし、すぐ実行でき
るとおもう。そして、場合によっては責任を取るくらいの気概は持ってるぜ。この調子でいくと、たぶん路上に人が倒れていても、警察官じゃないから助け起こ
す義務はない、だから素通りしてもいいと思うんだろうな。
松 まあ、凄いことになってるね。だいたい、こどもは〈遊び〉が仕事だろう。ところが、近年は馬鹿のひとつ覚えのように寄って集って「勉強だ、勉
強だ」といい、夏休みも補習登校で、休みは盆時期くらいになっているらしい。それで一生懸命勉強させて、せっせとこんな世の中を作っているんだ。人類の歴
史を考えたって、文字を発明するまで恐ろしいような時間を過ごしている。また教育なんて制度化されるまでに、親が伝え教えたり、生活の中で学び、人類は
やって来ているんだ。学校での勉強なんかよりも、遊びの中にずっと大切なことがあることは自明だったのが、すっかり逆転してしまったんだ。テストの点数な
んかに一憂一喜しているなんて、人間のスケールが小さくなったことの証明さ。
猫 まあ、唯脳主義のご時勢だからな。頭がいいことが偉いことだと思ってる。『現代思想』や『道の手帖』などに登場する、大学の研究者の谷川雁論
や吉本隆明論を読むと、「ほんとにばかみたいな世の中になっちまった……」とおもうものな、異論や批判以前に。中には「言語労働者」と称するド阿呆までい
る始末だ。
松 おれはたとえば、深夜にひとり徘徊していて、人も車も通ってないのに、横断歩道の赤信号で立ちどまって、信号が青に変わるのを待つとしても、
それはそいつだけのことで、交通法規に呪われた愚か者なんて言う気はないし、好きにすればいいことさ。また、学校の試験で少女が試験問題を前に、一問一問
順番に解いてゆく。ところが難問があって、解けずにつかえてしまう。ふつうなら当然、その問題は飛ばして、次の問題にとりかかるはずだ。ところが、その少
女は、その問題を飛ばすことができないで、とうとう泣き出してしまう。これは彼女の資質の悲劇を語っていて、本人的には困ったことだけど、べつに悪いこと
とは言えない。だけど、冷蔵庫と洗濯機を運んできて、それをどうしたらいいかも判断がつかないのは、〈愚劣〉以外のなにものでもない。この場合、会社の規
則や作業上のマニュアルを遵守しながら、実際上は業務と責任放棄の図だ。村上春樹の場合は、作家としてオウム真理教事件を〈主題〉として引き寄せながら、
作品上で「さきがけ」というふうに変換して、その対象を恣意的に操作している。それで両方とも〈空虚〉と〈虚偽〉が支配しているんだ。だから、後戻りはき
かないとしても、思ったことは言っておくべきだとおもうよ。
猫 わしは、おまえと違って村上春樹がどうなろうと知ったことじゃないが、あとの方は困るぜ。会社の言いなり、トラブル恐怖症、責任回避。そ
りゃ、会社に勤めていると、そこの就業ルールと社風に従って、職務人間とならないと仕方がない面は確実にある。だけど、それでも自己判断の余地はあるし、
応用や機転を必要とする場面はいつでも控えているぜ。与えられたノルマであっても、それをやっている最中はその規定を越えるのが、労働(人間の対象的行
為)の本質だぜ。ところで、おまえ、まだ話を続けるつもりなのか?
松 ああ、おれは毎回、四百字詰原稿用紙に換算して五〇枚分を一応の目標にしているんだ。乗ろうが乗るまいが、言いたいことがあろうがなかろう
が、やるからにはそうしたいと思ってる。
猫 いま、どの辺だ?
松 ええっと、四〇枚くらいのところだね。
猫 そうすると、もう一頑張りだな。NHKの大河ドラマ『龍馬伝』のことだが、あれはストーリーは粗っぽいが、ハンドカメラを駆使して、迫力ある
ドラマに仕立てている。結構おもしろいな。
松 不満もあるけど、とにかく見てるよ。まあ、第一に坂本龍馬と岩崎弥太郎とは、長崎にいた時代に交流があっただけで、あのドラマみたいに若い頃
から地元でつきあいがあったわけじゃない。
猫 ガキの頃から、「郷土の英雄」ってことで、耳タコで、嫌になり、坂本龍馬のことなんか、ほとんど知らないぜ。
松 この井口町って、ご当地って感じなんだ。歩いて3分くらいの丘の上には、坂本家の墓があるからね。龍馬の父・坂本八平直足、母・幸、兄・権平
直方、二姉・栄、三姉・乙女とかが眠っている。
龍馬の兄である坂本権平は、文化十一(一八一四)年生まれである。嘉永四(一八五
一)年に、父・八平が病弱を理由に家督を譲りたいと藩庁へ願い出て、父の跡目を継いだ。権平は龍馬より二十一歳も年長であり、当時まだ十七歳の龍馬にとっ
て、兄は父親的存在であった。
文久三(一八六三)年一月に、権平は臨時御用で京都へ行き、同年十月まで滞在する。このころ龍馬は、勝海舟塾に参加して神戸海軍操練所をつくるために働
いていた。同年に、海舟の尽力により脱藩罪を赦免されて京都へ赴き、兄と面会することができた。
さらに、慶応三(一八六七)年に長崎で海援隊を組織した折、権平の養子となった坂本清次郎(権平の娘・春猪の夫)が、脱藩して参加した。龍馬は、坂本家に
災いが及ぶことを恐れて、藩の重役・後藤象二郎に相談し、「兄さんの家ニハきずハ付まいと申事なり、安心仕候」と、乙女姉さんに手紙で連絡している。
(広谷喜十郎「高知市歴史散歩」309話)
それで、武市瑞山(半平太)率いる土佐勤皇党の結成の遠因となった、上士と下士の刃傷事件、いわゆる「井口事件」が門前で起こった「井口村・永福寺」
は、歩いて1分とかからない。つまり、おれんとこから、江の口川へ出て、ちょっと西へ行くと永福寺があり、そこから山手の坂を登ると坂本家の墓があり、そ
の坂を越えて少し行った、今のJRの福井踏切の手前に、土佐勤皇党のナンバー2だった平井収二郎の生家跡の碑がある。まあ、坂本家跡、つまり龍馬の生誕地
だって自転車で2、3分だ。
猫 そんなことをいうなら、坂の方へ行かずにちょっと歩くと、自由民権運動の植木枝盛生誕地の碑もあるぜ。
松 この『龍馬伝』は、ハンドカメラを使って、臨場感あるアップ映像を作り、視野を狭窄することで集中度を高めているんだが、それはそのまま、こ
のドラマを〈演劇〉的にしている。極端な場合は〈密室劇〉だ。つまり、時代背景も、出てくる風景も、街並みも、みんな舞台の書割なんだ。その典型が、岩崎
弥太郎は高知県東部の安芸生まれで、そこで暮している。龍馬は高知のお城下だ。かなり離れている。ところが、このドラマでは、まるで近隣に住んでいて、
しょっちゅう行き来があったみたいに作っている。これはこのドラマの〈特質〉からきているんだ。まあ、龍馬の初恋の人に設定された平井加尾(収二郎の妹)
が、安芸の弥太郎の塾に通って行くなんて、出来っこない。往復で日が暮れるよ。ドラマなんだから、史実や地域性に忠実じゃないなんて、野暮なことは言いた
くないが、それにしても遣り過ぎと思うところはいっぱいあるね。龍馬のことを知らないおれが見ても。
猫 観光客を呼ぶには好都合なんで、みんな、ヨイショだからな。
松 ドラマでいいと思ったのは、行き違いばかりだった龍馬と加尾の二人が、京都で想いが成就して、束の間の同棲みたいになったところへ、土佐勤皇
党の鉄砲玉になっている岡田以蔵が訪ねて来て、三人で酒を飲んで、まるで〈人生の休日〉を楽しむみたいな場面があった。あれはよかったな。それから、坂本
家の食事シーンも悪くないね。その反対に、岩崎家の場面はひどすぎる。あんな極貧であるはずがない。百姓の小作人じゃないんだから。
猫 大河ドラマのお蔭で、岡田以蔵の命日には、初めて墓前祭が催されたからな。人斬り以蔵ってことで、斬首刑だし、その墓も竹薮の中に見捨てられ
たようにあったのが、俄然脚光を浴びた。その模様をテレビで見てたら、岡山から駆けつけた女の子などもいて、以蔵を演じている役者(佐藤健)の追っかけを
やるところを、勘違いして、馳せ参じてるという感じだったな。愉快なことだけど。
松 後藤象二郎は、藩主の山内家の掛川時代からの家老の家柄だ。それが吉田東洋が龍馬に目をかけるのを妬んで、弥太郎を使って龍馬に毒を盛ろうと
するわけがないよ。後藤家は土佐藩の重鎮だ。下士の龍馬とは藩における地位が隔絶している、にもかかわらず、このドラマの脚本は、人物の距離を短絡させ、
極端に都合よく〈誇張〉しているんだ。おれは権平に同情的だね。簡単にいえば、龍馬はやりたいことをやったことになるけど、それを地元で引き受けるのは大
変だったはずだ。家を守り、一族郎党を庇いながら、支援したんだろうからね。いわば、縁の下の力持ちだ。
猫 岩崎弥太郎が安芸の出で、三菱財閥の創始者だといっても、弥太郎は地元なんか顧みることはなかった。その証拠に、高知には三菱銀行の支店すら
無いぜ。
松 あと、テレビではNHKの朝ドラの『ゲゲゲの女房』を見てるよ。これはおれにとって馴染の世界だ。水木しげるのマンガは読んでいるし。水木し
げるのマンガといえば、『ゲゲゲの鬼太郎』ってことになるんだろうけど、おれは貸本時代の戦記ものの「白い旗」は重要だとおもう。また三洋社版の『鬼太郎
夜話』がいいな。あの頃のやつでは、鬼太郎はほとんど活躍しない。ねずみ男とかニセ鬼太郎の方が魅力的だった。短篇では、メジャーになる前の『忍法秘話』
や『ガロ』に画いたものがいい。「空のサイフ」とか「剣豪とぼたもち」みたいな社会諷刺ものが。
猫 世の中は変わるとしても、まさか、ゴミ箱漁り、金や食い物をめぐって、ねずみ男とあさましい争いをやっていた鬼太郎が、こんな世間の「ヒー
ロー」になるとは、さすがに想像しなかったぜ。手塚治虫は、「鬼太郎」シリーズを「ナンバー1病」の対抗意識から事情も知らずに、「盗作」呼ばわりした。
水木しげるは、それをマンガで諷刺しただけで、取り合わなかったぜ。
松 ドラマの中で、会ったことのある青林堂の長井勝一さんや高野慎三さんや、一時水木しげるの手伝いをやっていたつげ義春さんが、どう描かれるか
という興味もあるし、会ったことはなくても、マンガや本で既知になっている人物も多いからね。アシスタント時代の池上遼一とか、東考社の桜井昌一とか。ま
あ、そんなことより、それぞれの家族の設定や描き方、また時代の雰囲気や流れみたいなものがよく出ていて、見ていて飽きない。水木しげるは、戦争の南方戦
線で片腕無くしていて、不自由なはずなんだけど、傷痍兵であることも身体の障害も振り回すことはない。そんな素振りはマンガの中でも、その他のところでも
見せないからね。その根本には、本人の資質ということもあるだろうが、「白い旗」にみられるような戦争体験の自己消化の仕方にあるような気がするね。
猫 ドラマの中では、両家の親のやりとりがおもしろいな。布美枝の親である飯田家の大杉漣と古手川裕子の夫婦、茂の親である村井家の風間杜夫と竹
下景子の夫婦。ところで、鳩山退陣、菅内閣誕生、参議院選挙の民主党の敗北などについて、何か言うことあるか。
松 鳩山由紀夫はよくやったとおもう。それは沖縄の普天間基地移設問題の見通しと読みが甘くて、それが退陣の引き金になったんだけど、でも、なん
とかしようとしたし、どうにもならないことを正直に表明していた。その意味では、国民にちゃんと顔を向けていたとおもう。
猫 沖縄の基地問題は結局、自民党時代の日米合意へ逆戻りしてしまった。期待を持たせただけで、なんにも出来なかった。だから、地元が怒るのは当
然だ。そして、民主党政権を批判し、抗議や撤去運動をつづけるべきで、政府の事情なんか斟酌する必要は少しもない。それが〈大衆という立場〉だ。
松 それに原則的に異論はないんだけど、でも、アメリカの極東戦略や日米安保条約を考えると、日米安保条約廃棄、米軍基地即時全面撤去なんていっ
たら、それこそアメリカの第七艦隊が押し寄せてくるかもしれないよ。共産党や社民党や新左翼の連中みたいに口先だけなら、誰にでも言える。でも、実質そこ
にもっていくことは、とても困難なことだ。
第2次世界大戦に負けた日本が、勝った米国との間で結んだのが日米安全保障(安保)
条約です。最初の安保条約は1952年、米国による日本占領が終わった時に始まり、六〇年に改定されました。今年6月23日で、改定された条約の効果が生
じて五〇年となりました。
安保条約の中心は、米国が日本やその周りの地域を守る代わりに、日本は米国に対して基地を提供するということです。
日本は戦争の反省から憲法で戦力を持たないと決めたため、米国に防衛をたよることになりました。一方、米国は日本に多くの米軍基地を確保して、アジアや
世界ににらみをきかせられるようになったのです。
(「日米安保条約五〇年」『高知新聞』2010 年6月24日から)
まず、この政治構図を打破するしかないんだ。だから、鳩山は東アジア共同体の構築と言っていたんだとおもう。
猫 しかしな、わしが実家に帰っていて、畑の間の山道を歩いていたら、突然、猛烈な爆音で山が轟くような感じがして、びっくりしたことがあ
る。機影はどこにも見えない。いったい、何事かと思ったら、米軍の予行演習の戦闘機が、水不足になった時にいつも話題にのぼる嶺北の早明浦ダムを標的に見
立てて、攻撃訓練をやっている爆音だ。岩国基地を飛び立ち、低空飛行で吉野川水系を遡っているんだろうが、もの凄い。たった一機が裏山を飛行しているだけ
で、こんな有様だ。だから、沖縄の基地被害は、較べものにならないとおもうぜ。なにしろ、日本にある米軍基地の7割以上が沖縄に集中しているんだからな。
高知県はこの飛行訓練に対して、再三中止するよう申し入れしているが、米軍はもとより、政府も取り合いはしない。これが実状だ。
松 うん。
猫 菅直人についてはどうだ。
松 あの男は、鳩山政権の時は、国会で居眠りをこいていて、なんにもしないで、自分の出番を待っていたんだ。それで、鳩山政権の座礁についても、
なんら痛切に感じてはいな
い。寝ぼけたまま首相の座についたものだから、国家財政の立て直しなどといい、消費税を上げるなど、選挙前に口走った。それが選挙結果に出た。だいたい、
市民運動あがりということは、要するに、成り上がり〈政治官僚〉ってことだろ。だから、8月6日の広島の平和祈念の催しで、「核の抑止力は必要だ」と公言
したんだ。なにが「抑止力」だ。アメリカやロシアや中国などが核兵器を保有していることが、〈脅威〉であり、その軍事的〈抑圧〉が、一面では抑止力にもな
るというだけのことだ。つまり、それらの国家は〈世界覇権〉と〈権力支配〉のために核兵器を保有していることは歴然としている。それが政治的現実だ。核兵
器を持たないものは、はじめからそんなものを使用することはないし、その抑止力も必要としない。だから、持たないものは、その政治的支配力を突き崩すため
にも、核兵器の廃絶を志向するしかない。ところが、菅はそんなことも分からず、自分の発言に対する批判や反発への言訳を重ねたあげくに、〈核物質〉そのも
のが悪だと言い出す始末だ。つまり、どうしようもない社会市民主義の誤謬の権化ということさ。
猫 そうだな。そんなことより、切実なことはいっぱいある。
こうこつ
あけがたまでせきこんでると からだはこうこつとして
ほとんどくのじになります はげしくせきこんだあと
からだはほてってなぜかけいれんさえしています
わたしはきえています
たそがれ ふたたびねつびょうがおそってくると から
だはもうねっとりして とろけて きえています あつ
くもないしいたくもないし しんや からだはほうえつ
して かこのまぼろしにあえぎます
もえるむね
これはむねではありません しゅようです うみにただ
れてぐちゃぐちゃです はいとけむりのつまったはいざ
ら さいげつのへどろがもられたおちゃわん でもまだ
くすぶっています あちらこちら ちらちらもえていま
す
しんでからてがみします
からだがないから わたしはえいえんです かんおけの
やみのなかで わたしはむげんのまぼろしをしゃぶり
あきることをしりません わたしはきっとありもしない
ゆめをみています じゅんすいになったわたしからおま
えに いまてがみをしたためているのです
(山下徹『祈禱詩篇』「闘病記 抄」から)
山下徹が何の病気か、これがほんとうのことなのか、知らないけれど、それでも、山下徹の〈詩〉のリアリティは、ひしひし迫ってくる。それが詩の力だ。歳
をとると、〈これはわたしではありません死の影です〉というようなことばかりが、増えてくる。それでも、みんな、頑張っているんだと、わしはおもう。
(2010・8・12)
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