語学論の生い立ちについて

根石吉久




 何かが座礁している感じがずっとある。何かがでなく、何もかもがなのかもしれない。
 インターネット上に掲示板「大風呂敷」を設置して、十年ほど語学論と称していろいろ書いた。この間、生活エッセイのようなものはほとんど書かなかった。 詩はもうとうにやめたと思っていた。なるべくブンガクっぽいことはやらないようにしていたのだと言ってもいい。
 今も、詩はもうとうにやめたもののままだし、生活エッセイのようなものを書く気になってもネット上のブログのようなものになるだろう。書くことは、ネッ ト上にというのがほぼ基本になった。
 詩を読むことにも熱心さはなくなった。面白い詩にほとんど出会わないというのも理由ではあるだろう。熱心に探さないから、面白い詩に出会うことがないの だと言っても同じことだ。
 拡散してしまったのだという方がいいのかもしれない。座礁している感じというのは、なにもかも拡散してしまったことの感じかもしれない。それは、自業自 得というものなのかもしれない。
 家を自作し、畑を作り、薪ストーブ用の薪を集め、薪割りをするなど、体を動かして汗をかくことは継続してきた。そうすると、もうまるで異質なものが自分 の中にただ混在するようになった。異質なものが鋭く対立するというのではなく、ただ単に混在するようになったのだ。異質なものが異質なままに混在し、その 状態が放置されている。

 それでも、とぎれとぎれになお持続してみようと思うものの一つに語学論がある。なぜ語学論なのか。

 大学を出て、無職のまま田舎に帰り、市営住宅に入って、毎日ひなたぼっこをしていたら、友達が家庭教師の口を持ってきてくれた。やれると思ったのは英語 だけだったので、英語の家庭教師をやった。生徒がやたらにいい点をとるというので、回る家が増え、回りきれなくなり塾を開いた。ここまではほぼ「自然発生 的」だった。
 点をとらせるのは楽なことだ。しかし、生徒の中に作りかけた語学の力を生き延びさせるのはまったく困難なことだ。ほとんどが死ぬ。

 私を家庭教師として雇う人たちは、家庭教師が作るものを「語学力」というふうにはとらえなかった。「英語の点」というふうにしかとらえないのだ。
 学校は「語学力」なんか作っていない。だけど、「英語の点」ははじき出す。家庭教師としての仕事は、「英語の点」というものと「語学力」というものを両 立させることだと自分で決めたことがあった。そうでなければ面白くない。これは本来両立していていいはずのものだが、日本の学校(制度)の中では両立して いない。両立させるためには、構想力のようなものが必要である。
 点だけとらせるのは楽なことだが、「そのことを通じて」、その後に語学力として生き延びることのできるものを作ること。これはやってみると大変な仕事 だった。

 点さえとってくれば、ほとんどすべての親は満足なのだ。高校入試に受かったり大学入試に受かったりすれば満足なのだ。その意識は子供にもあり、大学に受 かってしまえば、英語の練習などやめてしまう場合が多かった。受験用の塾の英語なら、そう扱ってもらっていい。受験用の塾の英語は、学校が「英語力」とし ているものをなぞっているだけだから、滅びても大したことはない。もともとそれは芽を出さないと決まっている「英語力」だからだ。実はあらかじめ死んでい るものだから、中断してもしなくても同じだ。

 なぜあらかじめ死んでいるのか。日本人がやる英語を「英語の点」というものを軸に考えてしまえば、イメージと音の間に絶縁体があることを放置してしま う。それに関して、学校はまったくの無策だ。
 素読舎で作った語学力の元になるものを放置するな。それはとんでもなくもったいないのだ。イメージと音の間の絶縁体を、通電する質に変えてある。そのこ と一つを言うためにでも、語学論が必要だった。

 イメージと音というときの「音」は、単語の発音のことではない。あるいは個々の「音」(音素)のことではない。文まるごとの「音」のことである。だか ら、イントネーションも音と音のぶつかりあいの処理もすべて含んでいる。この分野がまったく手つかずのままだと言っていい。この部分が手つかずのままだか ら、日本人は「組み立てる」必要のないところで文を組み立ててしまう。「組み立てる」ことを否定する方法がなければならない。つまりは、文を丸飲みする方 法がなければならない。丸飲みしてから、それを壊し、組み立てるというのが順序であるべきだ。
 語学には絶対的な順序というものがある。丸飲みしてから壊し組み立てるという基本を外さなければ、少しくらい発音が悪かろうが、語学力は生き延びること ができるが、この基本を外してしまうと、何かを最初から全部やりなおさなければならないことになる。私の現在の生徒が、小中高の生徒より社会人が多いのは そのことを意味している。

 あの人たちのあれが文学というものであるなら、俺がやっているのは文学なんかじゃないというようなことを松岡祥男さんが言ったことがある。あんなものが 文学なもんか。俺がやっているのが文学だと、松岡さんはそういう言葉で書いたのではないが、私はそう読んだ。それ以外の読み方はできない。譲れない一線と いうものはある。そういう関係は、私の場合は、学校の英語や受験用の塾の英語との間に避けようもなく生じた。それが避けようもなかったということが、語学 論が必要だと言い出したことの根なのである。

 掲示板「大風呂敷」に書いた量は少ないものではない。しかし、きれぎれであり、まるで整理はされていない。書いたものは「過去ログ」として保存されてい るので、読み返せば読み返すことができる。それを読み返して、書いた当時のことを思い出し、現在からコメントを付けるような作業をしてみようかと考えたこ ともあったが、いつも何かおっくうで新しく書いてしまえばいいと思ってしまう。
 それにしても、語学論というものは、決まりきったことを書くようなことなので、内心の消耗はけっこう激しいものがある。(そんなことはどうでもいいか ら、始めてしまえばいい。)

 言葉を使うとき、イメージと音、あるいは、イメージと文字はくっついていると思っている人が多い。現象的には、確かにイメージと音(文字)はくっついて いるように見える。だけど、それはある一定量の体力(気力)がある場合に、人の意識に自然に起こるだけのことではないのか。それは体力(気力)が自然に くっつけているだけで、イメージそのもの、音そのもの、文字そのものからすれば、実はくっついてはいないのではないか。だが、普通、「イメージそのものか らすれば」などというふうには考えない。普通は意識に感じられるものを自然だとするのだから、それは人の日常的な「意識にとってのもの」であり、「そのも のにとってのもの」ではない。
 本を読むとき、ただ字だけ見ているだけでヨミススメてしまうことがある。だいぶヨミススメてから、何も読んでいなかったことに気づくことがある。これ は、字をたどっていただけで、その間、イメージは動かなかったということである。イメージが動いたとしても、ヨミススメているものとは「直接しないイメー ジ」が動いていたことである。字の上を視線がただ滑っていただけだという状態である。
 人の話を聞いているときにも、そういう状態になることがある。確かに相手が話し続けていることはわかっているのだが、確かに耳は音を聞いているのだが、 (つまり、意識が「声」を「音」にしてしまっているのだが、)相手が何のことをしゃべっていたのであるか、すっぽり抜け落ちていて、「ええと、すみませ ん、もう一度言ってもらえませんか」などと、まるでエーカイワのフレーズのような日本語を言うことがある。そこでは、言葉は単なる音になってしまってい て、私の中にイメージの動きを作ることがないのだ。イメージが欠落してしまうのだ。
 これは私に特に発現する病気のような現象なのだろうか。私には、イメージと音、イメージと文字が分離しやすい傾向がある。これが一種の病気だというなら 病気でもいい。しかし、この病状がはっきりさせてくれることが一つある。それは、イメージと音、あるいはイメージと文字はくっついているように見えるだけ で、体力がなかったり、あまり疲れていたりすると、あるいはあまりにもどうでもいい話であると、それらは簡単に分離するということだ。イメージと音が元々 は分離しているから、仮にくっついているだけだから、そういうことが起こるのではないかと疑うことができるということである。
 イメージと音、イメージと文字は一体化している「ように見える」だけで、もともとは一体ではないのだろうと考えたのである。くっついているように見える ものが、簡単に離れるのはもともとはくっついていないからだろう。体力や気力、あるいは話への興味という接着剤が弱い場合、イメージと音、イメージと文字 は離れてしまう。少なくとも私にはそれが起こる。
 例えば、本を読むとき、うまく読めているときというのは、一度(ならず何度も)どこかでくっついた(くっつけた)イメージと文字の一体が再生産されてい るときなのである。微細に見れば、意識が過去にくっつけたものを、現在の読書において「くっつけ直している」のである。そのようにして、さまざまな文脈 で、イメージと語の一体化は強化され、語のイメージは純化されていくのだろう。あるいはイメージが抽象レベルを高めていくのだろう。人の話がうまく自分の 中に入ってくるというのも、私の意識が音にイメージをくっつけ直して、音を声に変え、そのことで変位した(昇華されたあるいは降位した)イメージを取り出 すようなことなのである。そういう過程があまりにも自動的に、かつ瞬間的に生じるので、イメージと音(イメージと文字)があらかじめくっついている「よう に見える」のだ。

 生活言語においてすら、このことが起こる。生活言語において「すら」というときの、「すら」が大事なのだ。まして、語学においては、というのが、私の語 学論の基底にあるものである。

 生活言語において、イメージと音、イメージと文字がくっついている「ように見える」のが、なぜそんなにも「普通」であり「自然」なのか。
 生活言語には、強制力が働いているからである。その強制力は外から来ることもあれば、内から来ることもある。本を読んでいる場合は、生身の相手を相手に しているのではないからひとまず脇に置いて、人の話を音だけとして受け取り続け、声や話として受け取っていない状態を考えてみればわかりやすい。これは相 手に対して非常に失礼なことなのである。そういうことをしていることがわかれば、相手は非常に気を悪くする。だから、私は自分で自分に対して、音をイメー ジとくっつけて声に変換することを強制することがある。そこに働いているのは、「〜してはならない」「〜しなければならない」という強制力である。この場 を生きなければならないという強制力である。
 ほんとうにつまらない話だと思っていても、相手に気を悪くさせては「ならない」から、それは単なる音ではなく人の声だと自分に「強制する」。無理にでも 音をイメージに変換させて声にする。そこでは、意識的に意識を励起状態に仕立てる作業が「強制される」。

 最初に世界から切り離されていること。それは生活言語の領域で「病気」として発現する。しかし、語学という領域では、それは最初から当たり前のことであ る。生活言語では「病気」であるものが、語学では病気でもなんでもないのだということ。それは十代の終わりにいた私にはひとつの救済であったのかもしれな い。語学は「世界から切り離されている」ということ。

 語学論の一部で、「磁場の磁力」ということを言い続けたことがあるが、「磁場の磁力」とは、強制力と言い換えることもできるだろう。そこで強制されてい るのは、当事者というものである。生活言語では、つまり言語磁場の磁力の内では、誰も当事者性というものをまぬかれる者はいない。
 どんな馬鹿話でも、その馬鹿話の当事者はいるし、どんな嘘を言うのでも、その嘘を言う当事者がいる。
 確かに病者として認定されるまでは、あるいは確かに病者として隔離されるまでは、誰も当事者性はまぬかれない。その強制力が「磁場の磁力」だ。

 という、このような話は、私が英語フリークと呼んでいる人々には本当に通じないのである。「磁場の磁力だけがもたらすものが絶対的にある」と私が言っ て、ただそのひとつをめぐって、半年も一年もとんちんかんな「磁場」という語の使用が掲示板上に踊るようなことがあった。「磁場」というのは、物理学かな んかの用語を語学論に借用しているので、比喩として使っているのには違いないが、それにしてもそれはそんなに難しい比喩ではない。掲示板上で「馬の骨」と いう名前で書いている人は詩人で、どこの誰だかバラしても本人は怒らないと思うのでバラすが、足立和夫さんである。足立さんは、「なんでわからないのかね え。不思議だねえ。」とあきれて言ったことがある。「わからないんだよ。フリークってのはそういうもんだよ」と私は言ったことがある。掲示板「大風呂敷」 のサブタイトルは、「反英語フリーク」となっている。(タイトルもサブタイトルも、英語でおまんまを食っていく場合にはあんまりいいものではない。)

 私において、イメージと語(音あるいは文字)が分離しやすいということについては、「そりゃ、お前だけのことだ。単なる病気だよ」と言われるなら、「そ うかもしれない」と言うとして、その時に私は、「では、語学ではどうなんだ?」と言いたくなるのである。
 語学では、イメージと語(音あるいは文字)は「あらかじめ」分離している。あらかじめ分離していることは誰の目にもはっきりしている。だけど「見れども 見えず」というか、だれもそのことを見ようとしないのである。「あらかじめ」分離していることこそが、語学という方法を組み立てるときの基底になるものな のだが。

 語学においては、イメージと音は分離している。分離しやすいのではなく、初めから分離している。いや、分離しているどころの話ではなく、イメージが「存 在しない」!

 「りんご、アップル」とか「アップル、りんご」と言い続けているまったくの初心者を想定してみればいい。これは、林檎は apple だと知った初心者が、「林檎」という日本語がもたらすイメージを apple という音に「くっつけ」ている場面である。
 いや、まだイメージとも言えないかもしれない。まったくの初心者は、apple という英「単語」を林檎という日本語「単語」とくっつけているのかもしれない。それは肯定されるべきことだが、放置しておいてはいけないことがらである が、その話は別にすることにする。
 初心者は、apple は林檎だと「知ったから」、くっつけようとしているわけで、それを知るまでは、apple という見慣れない綴り、あるいは apple という耳慣れない音があっただけである。当初、文字あるいは音だけがあり、(イメージどころか、)それに対応する日本語の単語すら存在しなかったのだ。こ の条件が語学の条件である。どんな上級者にも、「知らない単語」というものはあるから、この条件は初心者から上級者まで誰にでもあてはまる。つまり、語学 では誰でも、くっついていないものを「くっつける」のだ。

 磁場の磁力(強制力)の接着力をあてにせず、自分で。
 ネイティヴ言語でなら、「場の力」がすることを、語学では単独の意識だけがする。
 いったんは世界から切れて。

 語学とは世界から切れて、「くっつける」ことだ。手持ちの材料からイメージを発生させ、独在させ、「くっつける」ことだ。だから、語学論は「くっつけ 方」を言うことだ。ちまたでは、「くっつけ方」がでたらめなのだ。というか、「くっつけ方」を云々することをなぜか誰もしないのだ。(素読舎では、これを 「言いながら書きながら思う」と言っている。)

 語学の場面では、音とイメージが一体化していないということは、病気でもなんでもない。初心者にはあてはまるが上級者にはあてはまらないというようなも のでもない。語学をやる者はどんな人もこの条件を生きることを避けられない。だからそのことは語学において普遍的なことがらである。

 ネイティヴ言語とか生活言語に働いているのは当事者性であり、その強制力だ。強制力は多くの場合、「場の状況」から来る「場の力」である。つきつめれ ば、ネイティヴ言語や生活言語の「磁場の磁力」というものは、当事者であることを強制する強制力である。さらに、言葉の地平では、語とイメージが「あらか じめくっついていること」を強制する強制力である。誰もこの強制力をまぬかれない。それがネイティヴ言語や生活言語の普遍性である。

 それが、語学における言語と生活言語がまったく違うところなのだ。語学をやっていながら、ここが区別できていない人はやたらに多い。

 ネイティヴ言語や生活言語においては、当事者性が強力な接着剤として働くから、イメージと語(音あるいは文字)が一体のものとして見えるのだ。あるいは 実質的には、一体のものとして扱ってさしつかえないほどに接着させられているのだ。一体である(ように見える)ことが「普通」であり、「自然」であるの は、いつかどこかで、意識が場の状況を媒介にして(強制力に従って?)イメージと語を接着したからである。意識が、場の状況を媒介にして、語と一体化させ るべきイメージを誕生させたからである。このとき、それをやっているのは「意識」なのか、「場の状況」なのか。

 生活言語、あるいはネイティヴ言語におけるイメージの誕生。これは、場の状況が意識に「させた」ことだとも言える。状況が意識に「させた」のであれば、 意識は状況にイメージを誕生「させられた」のである。
 しかし、生き生きとした赤ん坊の「意識」というものを見ると、意識が活発に「している」ことがある。「場の状況」を繰り込んで、「している」ものがい る。鶏と卵の関係なのか。謎だ。

 語学の場面には、当事者であることを強制する強制力などというものはない。語学の場面にあるのは、自分が「当事者ではない」文ばかりである。すべては仮 のものである。音も練習用の音であり、当事者が発する声とは本質が違う。文字も練習用の文字であり、読書するものが読む言葉とは本質が違う。そもそも、イ メージが存在しないから、「アップル、林檎」でわかる通り、イメージは「林檎」という日本語の単語からの借り物である。音も仮のもの、文字も仮のもの、さ らに借り物のイメージも仮のものである。それらを「くっつけて」最終的に apple そのもののイメージが「まともな音」や「まともな綴り」とくっついて一体化するかどうか。そこに語学の成否がある。うまくできたかどうかは、生活言語の場 面で使ってみればわかる。あるいは読書してみればわかる。音や文字としてではなく、apple なら apple という「語(全体)」として使ってみればわかる。「声」にしてみれば、あるいは「言葉」にしてみればわかる。

 語学は生活言語の領域で検証されるのか。そうだ。しかし、語学という領域はその検証以前の領域のことだ。つまり、すべてが仮のものである領域のことだ。 ここでの当事者性は、生活言語における当事者性とはまったく違う。語学における当事者とは、「くっつける」ことの当事者に過ぎない。もし、くっつけるべき イメージが存在しないなら、それを「存在させる」当事者だ。

 存在しないものを存在させる当事者?
 それはつまり、「仮に思う」ことの当事者である。

 二歳、三歳くらいの幼児(の生活言語)に起こっていることはどんなことなのか。幼児は語学をやっているのではないし、文字を相手にすることはないから、 イメージと音の関係だけを考えればいい。
 場の状況(お母さんの笑顔も怒った顔もそれぞれの状況を作る)の中に響く音は音ではなく、「声」であり、「表情」であり、「気持ち」であり、「こころ」 だ。赤ん坊ほどに、「声」や「表情」に敏感な人間はいない。それらが赤ん坊にとっての全世界を構成するからだ。
 イメージと音の関係だけを考えればいいと言ったそばから、そんなことは不可能なことだとわかる。言語学者にとっては可能なことだが、赤ん坊にはとんでも ないことなのである。赤ん坊には言語の「音」などというものは存在しない。言語学者が「音」だととらえるもののことごとくが、赤ん坊には「声」なのであ る。だから、そこにあるものを「音」だとすることですでに間違ってしまう。

 「声」を「音」に変えられるほど、生活言語(ネイティヴ言語)において残酷なことはない。「声」は生きているが、「音」は死んでいる。「声」の生きられ る場所が生活言語(ネイティヴ言語)という場所である。
 「声」を「声」でなくしてしまいがちな私の状態は、つまり、「声」を「音」にしてしまいがちな私の状態は、私の幼児期と関係があるのだろうか。私は、生 活言語では、「声」を「音」にし、さらにイメージを喪失しがちな人間なのである。

 語学では、最初にあるのが「音」であり「声」ではない。
 語学において、「音」と「イメージ」が分離している、あるいは、当初「イメージ」が存在しないというということは、そこに「死」があるということであ る。語学は「死」に関わることなのだ。「音」は死体であり、「文字」は死体である。当初、語学の対象としての言語は、総体として、あらかじめびっしりと死 んでいる。

 語学の対象は「言葉の死体」である。あるいは、人々の個々の命があってもなくても存在する言語である。個々の命の一つである私がその「死体」を処理す る。だから、語学とは「逆葬式」なのだと人に言ったことがあったが、気持ち悪がられただけだった。
 「逆葬式」。死体をいじり生き返らせること。それが語学だ。語学をやる者は、「逆葬式」を執り行う者なのである。神主でも僧侶でも牧師でもないが、当初 から「死」に関わる者なのである。言葉の「死体」を処理する者であり、イタコとかミコなんかと一番近いのではないか。イタコとかミコは「死んだ者の声」を 「生き返らせる」。「生き返らせる」ことにおいて一番近いのではないか。

 そこを見ないで、「生きた英語」だの「生き生きとした表現」だのと言っている者ばかりがうようよしている。
 「生きた英語」が欲しければ、「逆葬式」をくぐれ。その後で、「死んだ者の声」をたよりに、「磁場」でそれを手に入れればいい。「生きた英語」は文字通 りのもので、生きている。それは「逆葬式」なんか不要のままに生きている。そして、それは「磁場」にしかない。

 「逆葬式」を執り行え。なるべく日本にいるうちに。長くそう言ってきた。

 「死んだ者の声」を無数に生き返らせるのが語学である。単語のひとつひとつが、「死んだ者の声」を蔵している。
 日本で普通に得られる「生きた英語」は英語で読書する形以外にはない。つまり、書き言葉の形しかない。そして、英語フリークが欲しがっている「生きた英 語」というのは書き言葉の形のものではない。生きた人間の口から出てくるしゃべり言葉の形のものだ。その場合でも、「逆葬式」で死体をまっとうに処理する ことが必要なのだと私は言い続けてきたのだった。なぜなら、それは死体だから。しゃべり言葉も語学では死体なのだ。CDから聞こえる複製音声を扱うではな いか。それは文字のように死んでいる。

 日本語という酸性雨をかぶりながら「逆葬式」をやるべきなのである。それをやらないで、「磁場」でしか手に入らないものを指をくわえて見る者たち。「生 きた英語」だとかいう空念仏を唱える者たち。それをさして私は「英語フリーク」と言ってきたのだった。
 日本にいてやれることは語学だけだ。つまり、「逆葬式」だけだ。それが、「磁場の磁力だけがもたらすものが絶対的にある」「日本にないものを日本で求め てもしょうがない」ということなのだ。可能なのは語学だけだ。

 語学は「磁場」をあてにしない。人々は「磁場」をあてにする。あてにしたっていいのだ。いいも悪いもなく、飛行機を降りればそこは「磁場」だ。しかし、 そこから始まるのは「語学」ではない。その場を切り抜けることであり、要求を通すことであり、通せないことであり、要求に従ったり従わなかったりすること であり、生活であり、仕事であり、遊びだ。その他さまざまであるが、それら一切は「語学」ではない。「語学」は、それら一切以外のものだ。だから、「磁 場」にいて「語学」をする場合は、「自分の部屋」とか「図書館の一室」とかいうものが必要になり、「一人になること」が必要になる。日本にいて日本人が文 学をやるときに、「部屋」とか「一室」とか「一人になること」が必要になるのと変わりはない。
 アメリカで英語を勉強する。大いに結構である。「自分の部屋」で、あるいは「図書館の一室」で、「一人になって」やればいい。わざわざ「磁場から切れ て」打ち込めばいい。(あるいは「つっかえ棒」が必要ならば、スカイプで日本の根石につないで、レッスンを受ければいい。)
 ところが日本の英語フリークたちがアコガレているのは、「自分の部屋」で、あるいは「図書館の一室」で、「一人になって」得るものではない。そうして得 るものは、日本にいても得ることができるが、フリークたちがアコガレるのはそうしたものではない。だから、フリークたちは、英会話学校というおかしなとこ ろに行くのだ。
 フリークがあこがれるのは、自分の部屋の外で、図書館の一室の外で、一人ではなく他の人と交流して得るものである。「一人」で獲得したものが、二人、あ るいは三人以上の人々の場で「合金となる」のだということにはまったく無自覚なまま、だから、一人になってやらなければならないことをやらないまま、金を ふんだくられ、ふんだくられても蛙のつらに小便のまま、いつまでたっても元の木阿弥のままである。英会話学校に通って英語が話せるようになった人に会った ことはない。無知が栄えたためしがないとはこのことである。欠けているのは「語学論」だ。

 日本に生まれた赤ん坊が日本語を獲得していくのでも、「他の人と交流して」獲得していくのでは「ない」。他の人と交流もするのだが、実はイメージとこそ 交流する。イメージと交流することが、人と交流することの通路を作っていく。
 「人」をしか見ないで、「イメージ」を見ない人たち。英語フリークの人たち。その生態の周辺について書いたものを少し抜粋して、フリークの話はひとまず 切り上げ、次号から「くっつける」ことの話に戻ろうと思う。

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素読舎ホームページから(一部削除、訂正)

英会話学校はハイエナだ

 学校では、そのままにしておいたら使えない英語になってしまう音にOKを出す。一人一人の子供に「通じる音の音づくり」をやっていたら、中間テストも期 末テストもできなくなるのは目に見えている。だから、通じるようにならない音にOKを出し続けるのだ。そもそも「音づくり」をやれる教員がほとんどいな い。

 学校がやっていることは語学には毒でしかない。語学という独自の領域を他から分離させて確定することさえできれば、この領域では生活言語から見てどれほ ど倒錯的なことも倒錯ではない。逆に、語学という意識の場を本当に確定してからでないと、実は語学は非常に危ないものなのだ。そんな危険に対しても、学校 は無知のままだ。 小学生に「生の英語」をやらせようというのは、学校の無知をさらしている。
 学校は英語をまともに語学として扱うことができていないのだ。だから往生できない英語ばかりが、さまようのだ。

 語学という領域で必要なことは、「からっぽ」を大きく肯定すること。小学生や中学生の段階では、意味と音が大きく「ずれる」ことを肯定すること。最後 に、意味と音を一致させようとしたときに、ごつごつした、不自由なしゃべり心地が生じることを全面的に肯定することだ。これらが、基本的な認識として多く の人に共有されるまでは、日本の英語は往生できずにさまよい続けるしかないだろう。
 机の上では、なめらかに速く、実際に使うときは、ごつごつと不自由に。これがきわめて自然な日本育ちの英語なのだが、それを自然な性質だと言う人がほと んどいない。

 ごつごつした英語をおとしめ、ぺらぺら英語をあがめるのは、卑屈な植民地根性でしかない。

 語学の言語と生活の言語を地続きだと思っているのは、途方もない迷信である。語学の言語と生活の言語はまるで別のものであり、語学の言語に熟達すること で、生活の場面で英語をしゃべるようになる人は、途中で語学から生活の地平に向けて大きく飛躍するのだ。語学の言語と生活の言語は決して地続きではなく、 その間には大きな断層がある。ジャンプするのでなければ越えられない断層がある。(断層に落ちてしまう人もいる。帰国子女に神経症が多く発症することの研 究を筑波大学がやっているそうである。)

 アジア諸国に英語でしゃべっている国がいっぱいあるのに、日本人は英語でしゃべれないと世界から馬鹿にされて、何をへこたれているのであろう。アジア諸 国で、英語が使われている現象は、ヨーロッパの貴族どもの都合(やくざどもの都合)によって、ハードな植民地化が行われた結果以外のものではない。それは まがいもなく悲惨な言語状況なのに、欧米寄りのものの見方しかできない日本人は、それをまるで「いいこと」であるかのように語る。無知が発する腐臭という ものがあるのだ。

 英語をやるのであれば、日本人がやるべきことは、日本語と英語を両方とも持つことだろう。その場合、日本人がしゃべる英語はごつごつした、無骨な、なめ らかでない、不自由な英語で「あるべき」なのだということが、それで当然なのだということが、わからない人にはわからない。アメリカ人のようにぺらぺらと しゃべる英語が日本でも上等なのだと信仰している。馬鹿は死ななきゃなおらないということは本当のことなのだ。日本で英語をぺらぺらやる人の近くに近寄っ てよく見てみるといい。その人の言語感覚が大変鈍いのがわかるはずだ。いや、わからない人にはわからない。

 英語が作る磁場がない場所で作られる英語は、直に土から生えている植物ではない。日本で作られる英語力というものは、どこまでいっても鉢植えの植物なの だ。土から切り離された植物。根を張る範囲を鉢に限られた植物。絶えず水をやり世話をしていなければ枯れてしまう植物、それが日本の英語なのだ。

 英語が作る磁場があるということは、親や友達が英語をしゃべっているから、語学などやらなくても、ネイティブな言語として言語の構造が自然に体に食い込 む場所であるということだ。「当事者」の体にはそういうことが起こる。そこで起こることが日本で起こるわけがない。

 うろおぼえだが、脳の生理のことを鵜田さんという人のホームページで読んだことがある。夏の終わりごろから鳴く虫の鳴き声、つまり「虫の音」を、日本人 の場合は、言語を担当する脳が聞いているのだそうだ。これは、虫の鳴き声を、「音」として聞いているのではなく、「声」として聞いているということであ る。虫の鳴き声を、ある種の言語として聞くというのは、アジアの人々の自然への親和性を語っている。
 これに対して、西洋の文化的シンタックス、言語的シンタックスで育った人たちは、虫の声を、あくまで客体化された「音」として聞いており、言語脳では聞 いていないということだ。虫の声は単なる音や雑音として聞こえるらしい。だから、虫の声をうるさいものとして聞くということになる。

 言語のシンタックスは文化的シンタックスを規定し、文化的シンタックスは人間の生理にまで食い込むのだ。人々は言葉の構造の違いが、文化全体を規定する ほどの要因になり、人間の生理の働きまでも別のものにするものだとは思っていない。たかが言葉の違いだと思っている。

 まるで異質なシンタックスから成る英語と日本語が、相互に鉄に対する酸として働くのは当然だ。

 政治的な暴力(言語政策)によって、英語を強制されるような事態になるなら、日本人は英語をしゃべるようになるだろう。それは、日本語を引き裂いた後、 あるいは日本語を引き裂きつつ、それをやることになるだろう。あるいは、日本語を引き「裂かれ」つつ・・・。

 日本はヨーロッパのハードな植民地になることはまぬがれたが、アメリカのソフトな植民地だ。文化的な植民地という泥に沈んでいくことに無自覚な国だ。 能、歌舞伎、禅、生け花、そんなものが文化的植民地化を食い止める力になるとは思えない。防波堤は、言語のシンタックスだけではないか。

 元はイギリス語であり、それがアメリカ方言としてのアメリカ語になった英語を、世界語としてさらにもう一度対象化することが日本の英語に課せられている のだと考えている人は少なくて、アメリカ人が英語を話すようにぺらぺらとしゃべることが上等だと考えている人が多い。日本のごつごつした英語を劣ったもの のように感じる植民地根性がある。ごつごつしているものは劣ったものではない。

 英語を世界語とするとは、日本人が日本で作った英語によって、標準化された英語に変形を加えることを意味する。どの国のどの人も、自分のネイティヴな言 語によって英語に変形を加えていいのだ。それが英語が世界語になるということなのだ。変形後の各種英語を摺り合わせ、標準英語を媒介にして、世界語を作っ ていけばいい。
 卑屈な根性によって、ごつごつした英語の価値をかえりみないこと、そして「本物のアメリカ英語」のぺらぺらをあがめていることが、これまでの日本の英語 (フリーク)のもっとも駄目なところなのだ。

 私は机の上の練習では(語学という場所では)、アメリカ語やイギリス語を媒介にする。とことん媒介にしようと思うし、なめらかさも作る。しかし、実際に 使う場面では、その机の上のなめらかさでしゃべることを内心がはっきり拒絶するのを感じている。生活言語のスキルとしてそのようななめらかさを拒絶するの で「できない」。ぶっきらぼうで、不器用でごつごつしたしゃべりになる。異質な二つの文化的シンタックスの「間にある」言語が、私にとっての英語なので、 それがごつごつしたものになるのは当たり前だと思っている。それがなめらかな英語になるときは、私の世界英語がアメリカ語に食われた時だ。それはごめんこ うむると思っている。標準を媒介にするのは、こちらが主体としてやることだ。それはしゃべり言葉のぺらぺらとは何の関係もない。食われてたまるかと思って いる。

 日本人が全員習う教科である英語が、言語としていつまでたっても植民地語になれないでいることは面白い現象だ。日本語は英語の骨を溶かしてしまい、世界 ででかいつらができるはずの英語は、日本ではほとんど育つことがない。

 これはとても面白い現象なのだ。これは単に学校の無能力のせいだけではない。これは日本語の酸の強さの証なのだ。

 日本語は英語という鉄にとって強力な酸であり、英語は日本語という鉄にとって強力な酸だ。この関係には絶対的なものがある。アメリカに渡って日本語を使 わないで四、五年たって帰ってきた昔の塾生がいたが、半年ほどの間、日本語がしゃべれなかった。日本語の骨が英語によって溶かされていたのだ。英語に囲ま れれば、日本語で育った人の日本語の骨も溶かされる。逆に、日本語に囲まれた英語は、中途半端な練習では骨さえできてこない。ぶよぶよした肉のつぎはぎし かできない。

 日本語が鉄であるならば、英語は酸であり、英語が鉄であるならば、日本語が酸である。お互いにお互いのシンタックスを溶かす。

 日本語そのものが英語に対して against の位置を譲らないことにきちんと注目すべきなのに、その観点はいまだ弱いままだ。言語の構造を虚心に見れば、英語と日本語の間には、はっきりと against の関係を形成する根本的な違いがある。あくまで言語的な観点から成立する関係であるが、その関係は絶対的なのだ。

 日本の学校の英語が役立たずだということは、いまや世界的に有名であり、それだから、言語に対する認識を欠いていても、日本に行けば英語を教えるだけで いい金になるというふざけた言いぐさがアメリカやカナダあたりで囁かれる。私は、アメリカでそれが囁かれる現場にいたことがある。あんなもの(英会話学校 の教師)は誰だってできると囁かれていた。何しろ、英語をしゃべりさえすればいいのだ、と。日本の英会話学校に通うお馬鹿さんたちのことを思い浮かべ、な んで私が屈辱を噛みしめなくてはならないかがわからないままに、屈辱を噛みしめていたことがある。

 英会話学校で英語を教えている連中は、アメリカやカナダに帰れば、ただのあんちゃんやねえちゃんにすぎない。アメリカやカナダに育ったのだから、英語は 根っからの言語だが、彼らのほとんどが言語に対する認識などは持ち合わせていない。単に語学的な技法の点においても、日本人の口をどう動かせば英語の音が 作れるのか、あるいは英語という言語に備わっている構造を日本人はどうすれば身体化するのか、そんな認識は何も持っていない。英会話学校の教師のほとんど 全員が、そんな認識は持っていない。日本では英語をしゃべる人間だというだけで金がかせげる。そんな囁きによって、日本に来る英語ネイティブのあんちゃん やねえちゃんたち。彼らを正確に呼ぶならば、ハイエナである。税金を使ってAETというハイエナを呼んでいる馬鹿な役所もある。

 日本の学校の英語が「死体」であるから、ハイエナが群がるのだ。
 因果関係ははっきりしている。
 この事態の根本の責任は、英語に対する日本語の抵抗素を勘定に入れて語学の方法論を作れなかった文部省とその御用学者たちにある。英語と日本語が、相互 に against な関係をはらむ言語同士だという認識を踏まえない語学の方法は、植民地根性やむやみな英語に対する反発みたいなものしか生み出さない。

 日本の英語教育産業に動く金は世界一の規模だということだが、この根本には、文部省やその御用学者の語学に対する認識力の貧困がある。

 学校英語のあらかたが死ぬので、学校英語の犠牲者を食い物にして、今日もハイエナ(外人)が群がる。

 英会話学校に通えば、死んだ英語が生き返るというのなら文句はない。ところが実際は、英会話学校に通っても、ガイジンの個人指導を受けても、死んだ英語 は死んだままだ。ただ金をふんだくられて終わるのが、日本の英会話学校に通うオヒトヨシ達だ。

 日本では英語はやるべきことをやらなければ絶対に身に付かない。そして、その「やるべきこと」が学校で点がとれるとか、高校入試や大学入試に合格するこ ととはまるで別の場所にあることに多くの人が気づかない。その眼目が「音づくり」であり、語や語法の「イメージ化」であり、それを煮詰める「イデア化」で あることを、学校はまるで提示できていない。現時点では、生徒が自分で気がつく以外にない。

 何度でも言うしかないだろう。「エーカイワ、風邪じゃないからウツラナイ」

 英語学校なら世界中にある。
 英会話学校なんていう馬鹿なものは日本にしかない。

 私は日本人は英語をやらなくていいと言っているのではない。
 それどころか、あんな甘っちょろいことをやっていてどうなるものかと思っている者だ。
 どんどんやって、ごつごつした、不自由な英語をおかまいなしにしゃべるのがいいと思っている。日本の英語に、雑であること、無骨であることの価値が回復 されなければならない。

 不自由で不自然だということこそが、日本の英語のアイデンティティなのだ。

 本場アメリカの英語の正しい語法はこうだと教えを垂れる類のおためごかし本ばかりが氾濫している。日本で使う英語なんだから、本場アメリカの英語をその まま使うのはおかしなことだという認識がない。言語は言語の磁場を作り、それはその社会や文化とシームレスに連続している。本場アメリカの英語は、本場ア メリカの英語として参照し媒介にすべきだが、それをそのままに日本でしゃべることはとてつもなくおかしなことなのだ。それなのにそれが上等なことであるか のような幻想が蔓延している。

 根本的に異質な文化の「間で」使われる英語が、ごつごつしていなかったり、無骨なものでなかったりしたら、それこそが、おかしな事態なのだ。

 ごつごつしていること、不自由であること、それでもなお自分を開くために英語をしゃべること。それだけのことではないか。

 アメリカで英語をしゃべる能力を獲得したというだけの日本人がなんで上等そうな利口そうな顔ができるのか。この人たちの英語が、「アメリカで」獲得した 言語能力であるという一点において、本当には日本だけに住んで英語を獲得することの労苦を知らない。その労苦を知らない者が利口そうな顔ができる場所、そ れが日本の戦後という時空だ。
 この利口そうな顔の成立を支えているのが、実際は学校英語の死体が発する死臭なのだ。

 学校英語が死体であることと、言語というものがもともと死体なのだということはどう関係するのだろうか。

 この国には英語をまともに語学として対象化する視線が欠けている。この視線が獲得されるまでは、植民地根性の英語フリークの跋扈はやまないだろう。

 この国では語学という独自のフィールドがまだ確定されていない。

 しかし、まあ、なんで語学のことになると、私の叙述は声高になるのだろう。まるで悲鳴みたいに。


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