ニャンニャン裏通り・出前版(3)
松岡祥男
松 ある人に、吉本隆明の詩「緑の聖餐」で、『聖家族』第三号(昭和二四年五月発行)に発表された「初出形」と、その後『吉本隆明詩集』
(書肆ユリイカ版昭和三三年一月刊行・その後思潮社版)に収録された「詩集版」とがあるが、先入見なしに読んで、どちらがいいか聞かせてほしいと言われた
んだ。
猫 おまえは久しく詩は書いていないし、もともと詩について、つまみ食いぐらいで、ちっとも研鑚を積んでいないだろ。駆け出しが途中棄権し
たみたいなもんだ。そんなんで判断つくのかよ。
松 おれもそう思ったよ。
緑の聖餐
よるべない緑の氾濫の底に
身を横へて臥つてゐるわたし!
窓辺からいろいろな形をした
わたしの陰翳(かげ)がたち去つてゆく
不具の魂をたずさへて
深い季節の香りに充ちた
甍のうへ野のうへなどを
夢のやうに漂ひながら……
〈もういい はなしておくれ!〉
愛する者たちに
寂しい断絶を名告(なの)つて
生贄の山羊のやうに気弱く
緑のはてを漂浪する……
やがて
遙か水べの匂ひにちかく
緑の底に触れあふ音楽を聴きながら
しづかな風の聖餐を考へてゐる
わたしの陰翳(かげ)たち!
(『聖家族』初出・勁草書房「定本詩集」より)
それで、
猫 わかった、待て。もうひとつはこっちが読む。その方が判りやすいからな。
緑の聖餐
よるべない緑の氾濫の底に
身をよこたへて臥つてゐるわたし!
窓辺からいろいろな形をした
わたしの陰翳がたち去つてゆく
不具の魂をたずさへて
ふかい季節の香りにみちた
薨のうへ野のうへなどを
夢のやうに漂ひながら――
〈もういい はなしておくれ〉
愛する者たちに
さびしい断絶を名告つて
生贄の仔羊のやうに気弱く
緑のはてを漂浪する……
やがて
遙か水べの匂ひにちかく
緑の底に触れあふ音楽を聴きながら
しづかな風の聖餐をかんがへてゐる
わたしの陰翳たち
(『吉本隆明詩集』より)
松 おれは読んで、すぐに「初出形」の方がいいとおもった。ひとつは、「陰翳」に「かげ」とルビがついていることだ。一見なんでもないよう
だが、ルビがあると、言葉(詩)の流れがスムーズになる。もうひとつ決定的だと思えたのは、最終行の「わたしの陰翳(かげ)たち!」という一行が、行アキ
で独立していることだ。それによって、最終の一行は、それまでの言葉のすべてを受けて、屹立している。これが「詩集版」のように、最後の連の末尾にある
と、この一行はそこに吸収されてしまうだろう。また「!」(感嘆符)の省略も、この結びの一行の強い印象を薄めているとおもう。
猫 そうだな。じぶんのさまざまな心の陰影が分離してゆき、その遊離の位置から、水辺の環境や、そこでの暮らしへの愛着を詠っている。ひそ
かな断絶と孤独な愛執の詩だ。その感じは初めの方がより伝わってくる。しかし、ソネット形式ということでいえば、異論が出るかもしれないな。
松 一般的に、時間をかければ製品は良くなるとされているだろう。マルクスも労働時間が芸術価値を決定すると、どこかでちょこっと言っているみた
いだけど。校正を例にとれば、二回より三回、三回よりも……という具合に、手間と時間をかければ、確実に誤植は減り、正確さは増す。この話で言っても、
「詩集版」の「薨」はたぶん「甍」の誤植だと思うんだけど、何度か見直しているうちに、その相違に気付いたからね。著作でも、批評作品を考えれば、推敲を
重ね、手を入れれば、おおむね良くなるとおもう。しかし、詩の場合は、そうとは言えない面があるような気がするね。それは、最初に書いたときの表現意識
と、改稿(手入れ時期)の意識は違っているからだ。独りで世界に立ち向かっているような〈初め〉の表現意識を再構成することは難しいし、また、集中度も異
なるはずだ。だから、詩の場合は、手を加えたものがいいとは限らない気がする。じぶんのことで言えば、おれは「同行衆通信」を活字化するために、中古の和
文タイプライターを購入したんだ。いまから思うと、どうしてそんなにやる気になったんだろうと思うんだけど、どうも吉本さんが高知へ来て講演した時に会っ
て、囲む会を開いたことが、何かやる気になる大きな刺戟だったような気がする。それでタイプライターを漫然とつついても、ちっとも習熟しない。そこで何か
目標を設定してやれば、少しは上達するかもしれないと考えた。それで、じぶんの詩集をつくることにしたんだ。その打ち込みの際に、じぶんの詩に手を入れ
た。鎌倉諄誠さんが、その詩集(「ある手記」)の解説を書いてくれたうえに、印刷と製本もやってくれたんだけど、鎌倉さんがそのとき「まっちゃん、直した
ものより初めの方がいいよ」と指摘してくれたんだ。それで、おれは元に戻した。そういうことは、自分ではなかなか判断がつかないね。
猫 適切な例じゃないが、わしのように次の手しか考えていないヘボでも、他人のやっている将棋を側で見ていると、いまの一手はまずいとか判るじゃ
ないか。実際に対局するとまるっきり歯が立たない奴同士がやっているのでも。客観的な視線の優位性ってのはあるんじゃないか。ついでに言うと、将棋の高校
全国大会に沖縄の代表で出場したことがある上原君に、まぐれ勝ちしたことがある。彼は沖縄から高知の短大へ来ていたんだけど、高知で負けたのはその時が二
回目だと言っていた、椿事だよな。
松 そういえば、和文タイプの文字盤や予備の活字に無い字が出てくると、よく活字を買いに行ったな。そうやって一字一字補充してたんだ。こんな話
はいまでは、いにしえの昔語りだよね。
猫 そうだな、ガリ版からパソコンまでの印刷関連の変遷を身をもって体験してきたことになるな。
松 ガリ版は中学の新聞部のとき知った、高校のときはアジビラを作るのに専らガリ版の世話になったね。活版はちょっとアルバイトで行ったことのあ
るゴム印屋が版型を活字で組んでいた。写植は就職した印刷屋の社名が「四国写植」だったから、そこでっていうことになる。それから会社は電算写植を導入
し、最後にはマックになった。自分も和文タイプからワープロ、パソコンと変わったんだけど、全部中古だからね。いま使っているのはWindows2000
で五千円、プリンターが一万円のやつだ。義弟が調達してきてくれるんで、助かってるよ。
猫 おまえが新聞部、笑うぜ。
松 事情があったんだよ。当時の大杉中学校は統合中学で、合併された他の中学校の連中は汽車通学だった。それで国鉄の運行時間に合わせて、登下校
の時間が決定されていたんだ。それで統合の条件として父兄が要求したのは、近い者と遠い者との格差が無いようにしろというものだったらしい。それで補習な
んて禁止だし、またダイヤ変更で下校の列車の時刻まで時間があくことがあると、その待ち時間をクラブ活動に当てていた。そこで全員、クラブ活動を強制され
たんだ。それでおれは、なんにもやりたくないから、仕方なく新聞部にしたんだ。それで、クラスの中に文才のある奴がいて、自分らの学級新聞に書いてもらっ
たんだ。彼は在日朝鮮人差別に抗議して、銃をぶっ放して立て籠もり記者会見をやった金嬉老をカッコいい、犯罪に憧れる者もいるだろうとか、音楽の教師のフ
ルートはすばらしくサマになってたとか書いた。それ読んだ担任が泡噴いて、部員全員が呼ばれて説教をくらったこともあったな。あいつも卒業してどこか県外
へ就職したんだが、その後どうしているか知らないけどね。世間は、教育はいいことだと思っている。それで、学級の人数が多いと、一人一人に教育が行き届か
ないなんて言ってるけど、生徒の側から言えば、冗談じゃないよ。娑婆と同じで、クラスの人数が多いと人の〈影〉に隠れることもできるし、目立ちたいと思っ
たら、他者をかきわけて自己顕示すればいい。それを先公にマンツーマンみたいにやられたら、生徒は逃げ場が無くなって、毎日毎日がきついぜ。そうなると、
心の中しか逃げ場はない。で、実際教室から逃亡するかもしれないし、学校自体を忌避することになるかもしれない。もっと極端な場合を考えれば、修復不可能
な病気に落ち込むことにもなりかねない。こういうことはトータルな視野を持って、ほどほどにした方がいいのさ。だいたい、人間に対する基礎認識が狂ってい
るんだ。親鸞の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」という不滅の人間理解でも、一度は痛切に思い浮かべてみろてんだ。
猫 印刷関連機器の発達で、たしかに便利で楽になったな。加筆や削除も簡単にできるし、じぶんでは書けない漢字も表示してくれるからな。読めても
書けない字がたくさんあるぜ。ところで、根石さんがおまえのことを「ネットを拒否してる」って言ってるけど、ほんとうか?
松 そんなことはないよ。金が無いこともあるが、それ以上に面倒臭いからだよ。第一にネットに接続してブログを開設したりして、変なことを書き込
まれたりしたら、気分が悪いし、おまけに匿名なんかでやられると、その不愉快さをもって行くところがたぶん無いとおもう。それにいつもの調子で、思うさま
書いたりしたら、それこそ集中攻撃を受けて、炎上ということにもなりかねない。おれ、そんなに精神が図太くないんで、そんなの御免だ。テレビの「サムラ
イ・ハイスクール」の乗りでいくと、匿名なんて「おのれ、奸物!」名を名告れ、その陰険な心根が「口惜しゅうってならぬ」尋常に勝負しろ、出てこい、なん
て思っても、遥かな無明に向かって吠えているようなものだろう。それでも気分を一新できるならいいが、胸のうちにひきこんでこだわることになる。これは非
常に精神衛生上よろしくない。そう思うから、やらないだけだよ。とうぜん、そんなの要らざる心配で、おまえがブログやったって、誰も見に来やしないよって
声もあるだろうけどね。それでおれは必要なときは、友人のところや公共施設で見ることにしてるんだ。でも図書館なんか無料なんだけど、有害情報なんていっ
て情報が制限されている。根石さんの「大風呂敷」も「有害」ってことでブロックされて開かない。もっとも本のランキングを見ようと思って、東販や日販にリ
ンクしようとしてもダメだ。それは出版物にもいろいろあり、ヌード写真集も裏本みたいなものもあるさ。でも、そんなものはどこにでも氾濫しているものだ。
免疫という面からいっても、過剰な規制はその方がほんとうの意味で有害さ。こんなんじゃ第一に、あまり役に立たないからね。だから「大風呂敷」の「有
害」ってのは名誉なことだと思うよ。
猫 有害か、この世に有害でないことなんてあるのかね。すべては両義的で、有害即ち存在意義ってことじゃねえのか。そこでいえば、無害なんて無価
値と同じだ。アホじゃねえの。最近、出版物が荒れてきているのは、製作時間をできるだけ短縮し、編集の手間をなるべく省き、経費をケチり、生産性を高めよ
うとしているからだ。その結果、出版界は粗製濫造の様相を呈しているぜ。世間で、一流出版社とか良心的出版社とは言われているところの文庫本だって、あん
まり信用できないな。例えば、批評作品などの場合でいうと、その中で引用された文章の出典に当たって校正するなんてことは、ほとんどやっていないような気
がする。それで、筆者が引用部分を書き写すときに、間違えていても、そのままになってしまう。もっとひどい場合は、原典との対照もしないくせに、校正者が
勝手に字句を自己判断で直して、変えてしまうこともあるんじゃないのか。たとえばアンデルセンの童話「みにくいアヒルの子」って、あるだろ。あれでネコが
アヒルに、背を丸くしたり、火花を散らしたりできるかって言うところがあるんだが、その「火花」が「花火」になっているケースがあった。ふつうに文脈をた
どれば「花火」になるはずがないのに、この頃の頭の良い連中は、学校や塾で受験勉強ばかりして、詰め込み知識はあっても、体験が乏しいし、常識や叡智に欠
けるところがあるからな。それで厚かましくも、校正者や編集者の本分を逸脱して、勝手な手入れや訂正をやるケースも増えているようだ。この場合も単なる誤
植じゃない気がするぜ。だってよ、初出も単行本も原作通り「火花」となってんだからな。ネコが「花火」散らしたら、それこそ、うちのタマがタマヤ!ってこ
とになっちまうぜ。校正っていうのは、著者の原稿や、印刷屋の活字化の際の誤植や誤字を正確に訂正するのが仕事だろ。それを忘れて、余計なことをやるのが
自分の能力と錯覚する傾向になってんじゃないのか。それで、どういうことになるかというと、ふつう雑誌に発表され、単行本になり、そして文庫本になれば、
それだけ段階を踏んでいるから、誤植や間違いが減って当然だろう、それだけ労働力が累積されたことになるんだから。ところが、逆に質が落ちてるなんてい
う、価値法則に反する事態にまでなっている、びっくりするぜ。
松 そんなこと言われたら、きついよ。おれ、校正、適性欠いていて、どうしても頭で読んでしまうからね。それに、知識も能力も無いからなあ。それ
に、そんなことを言い出したら、キリがないよ。先の「緑の聖餐」のことでも、勁草書房の『吉本隆明全著作集』第一巻「定本詩集」の「解題」で、川上春雄さ
んは「あたらしい刊本の作品を収録するのが原則ではあるが、ここでは形式上より完成度の高い初出誌を収録した」と断り、そのうえで『吉本隆明詩集』のもの
を参考資料として掲げている。ところが、この川上さんの編集を踏襲した思潮社の『吉本隆明全詩集』と『吉本隆明詩全集』第五巻「定本詩集」のいずれの「解
題」も、この経緯を省略し、一言も触れていない。こんな杜撰な編集姿勢がまかり通っているんだ。それでも「詩」の出版社かよ、思潮社なんて信用できないっ
てことになるさ。同じように言えばね。
猫 わかった。ところで、民主党の鳩山政権は、内閣の口裏が合わないところがいいな。
松 うん。首相と各閣僚の発言や意見がそれぞれ微妙に食い違ったりして、マスコミや野党に転落した自民党なんか、足並みが揃っていないと攻撃材料
にしようとしているが、ただの一人の大衆の立場からすれば、その方がいいぜ。口裏合わせや一糸乱れぬ意思統一なんて、面白くないし、ろくでもないことにな
りそうで、気持ちが悪い。以前、柄谷行人一派が湾岸戦争で「声明」を出した時なんか、個の意志を尊重するっていう、その言い方まで口が揃っていた。だから
その嘘は、その顔つきや口ぶりで、すぐにわかった。それだけで、こいつら文学者失格だと思ったね。もっといえば、もっとも個別的であるべき表現者が寄り集
まって「声明」を出すこと自体が錯誤なんだ。なんでもそうだけど、言いたいことがあれば、じぶんが書けばいい。また機会をとらえて自由に発言すればいいだ
けのことだ。こいつら、戦争まで文壇政治に使いやがったんだ。
猫 各省庁の予算要求に対して、「事業仕切り」ということで〈公開〉のやりとりを始めただろう。あれは画期的だ。こんなことはいままで無かった。
だいたい、こういうやりとりは、各省庁と政府との間で、まあそこをなんとかとか、これはまあ泣いてもらいましょうってな具合に、関係者間の取引がなされ、
その間の過程はほとんど判らないまま決定されてきた。それの過程がオープン化されたんだ。これは絶対にいいぜ。もちろん、その決定に不服や異議があれば、
どんどん声を挙げればいい。それで最終決定は政府がやればいいだろう。で、仕切りの過程は知ろうと思えば、誰でもたどることができるから、その決定が妥当
なものかはそれぞれが判断できる。また、面白かったのは、慌てた東大や京大とかの大学の学長が共同で抗議声明を出しただろう。それ自体はいいが、その言い
草を聞いていると、庶民の側からすれば、この連中がいままでいかに特権を享受してきたか、丸見えだったぜ。甘たれるんじゃないぜ。官僚は学閥で固められて
いるから、そのルートや顔や恩や相互利害の上で、われわれの予算を削るだって、君達は分というものを知りたまえ、国の将来は私達の肩にかかっているのだ、
それを考慮しないなら、こちらにも考えがある、なんて言って、そんなのがたぶん通用してきたんだ。これで、そうは容易くはいかなくなったんだ。そりゃ、目
先の結果や見込みだけを考えて、未来への投資を怠ると、そのツケがまわってくる惧れはじゅうぶんあるから、なんでも算盤勘定では済まないことも確かだけど
な。
松 それだけでも、政権交代の意義はあったということだよね。
猫 ああ。しかし、状況に逆行するものもあるぜ。国民新党の亀井金郵相なんて、郵政民営化見直しを売り文句にしているが、郵政は民営化した方がい
いんだ。貯金や郵便物を同じ場所で一緒にやっていたのを、無理に仕切りを設けて別々にしたりするのは変だ。しかし、国の持ち株を売却することも、資産を適
性化することも必要なはずだ。だいたい、通信や貯金などの現状を考えてみろよ、郵政のやっていることなんか時代遅れの障害でしかないぜ。事業自体を分割す
ることは要らないが、図体を小さくして小回りがきくように国鉄みたいに、地域分割すればいいんだ。
松 そうだね。おれ、最近、郵便局が封筒とか便箋とかの販売を始めたから、値段を聞いてみた。ところが、びっくりするほど高かった。市販のものは
もとより、百円ショップなんかと較べると、話にもならない。これが官僚的な発想の貧困を如実に物語っていると思ったね。こんなんで、それの販売のノルマな
んかを上から課せられたら、職員は泣くぜ。格別いい商品でもないものを、わざわざ高い金を出して誰が買うというんだ。郵便局の店舗数を考えると、本気で売
る気があれば、安くていい物を仕入れることができるはずだ、納入業者だっておおきな販路だからね。上部官僚の思いつきで、こういう関連のものも一応扱って
いますということにしたに過ぎないのさ。だけど、窓口なんか以前に較べたら、格段に丁寧で親切になった。昔は切手買いに行って、「記念切手はありません
か」と言ったら、露骨におまえみたいな一見の客に売るものは無いっていう態度を取ったからね。それで書籍小包(現ゆうメール)なんかも、一部開封していな
いといけないとか、やれ、通信文は入っていないかなど、小うるさいことをいい、おれ、全面開封させられたこともあるよ。客を客と思っていなかったんだ。受
けつけてやっている、荷物を届けてやる、有難く思え、こちらは親方日の丸なんだって調子だった。それだけでも、官はダメだ。
猫 民主党はまだ、権力に染まりきっていないからな。だから、とにかく閣僚がフットワーク良く動いているだろ。前原国交相は群馬のダムにすぐ視察
に行ったし、岡田外相は基地問題で沖縄に飛んだり。自民党政権時代の閣僚なんて、関係機関任せで、与えられた答弁を読み上げてただけだ。それで、自分は考
えもしなければ、ろくに打ち合わせもしないから、その字句すらまっとうに読めなかったんだ。しかし、前原の日本航空を国の管理下に置くというのは、反動
だ。日本航空が大赤字で経営破綻するてんで、アメリカの航空会社と提携するとかって話が持ち上がった。そうしたいのなら、そうさせればいいんだ。仮に日本
航空が潰れたからといって、海外との往来が全く出来なくなるわけじゃないし、多少は不便になるかもしれないが、その補充はいくらでもきくはずだ。それを国
が介入して、国民の税金を注ぎ込んで赤字を補填するなんて、ふざけた話だ。それでも経営再建される保証はどこにもないぜ。
松 おれ、東京と往き来するときに、よく飛行機を使っていたんだけど、全日空やその他の航空会社に較べたら、日本航空って、もともと官製だったせ
いかもしれないけど、ひどかったぜ。機種が旧型のボロということもあったが、機内のメンテナンスが行き届いていないせいだと思うけど、煤けた感じだった。
おれ、これ、ちょっとやばいんじゃないか、ひょっとしたら墜落するかもしれないという思いが、一瞬かすめたくらいだ。
猫 くどいようだが、国営なんかより民営の方が、経営からサービスまで健全であるってことは歴史的に実証済みだぜ。福知山線脱線事故をめぐるJR
関西の事故調査委員会への度し難い工作ひとつ取ってもな。あれが国有体質の残存のあらわれだ。だから、そんなことに、税金使うな。国に縋れば、なんとかな
るなんて思っている日本航空現経営陣なんか無能に決まっている。ここまで大赤字にしたんだ、倒産したって泣き事をいう資格は無いし、自力で再建の方途を、
資本提携でも関連企業との合併でもいいが、模索させればいいだけことだ。国が口出し手出しする必要はないぜ。
松 おれは別段、時事的話題が好きなわけじゃない。しかし、この頃、テレビ見てても、マラソンや駅伝、フィギュア・スケートなどのスポーツ番組を
別にしたら、見るものはない。ドラマはあんまり面白くないし、バラエティやクイズ番組も見る気がしない。そうなると、仕方なくニュース番組ということにな
る。それで、こんな話になるような気もするね。まあ、小説より社会の動きや事件の方が切実だし、物語の起伏も富んでいるからね、なさけないけど。飛行機の
話なんか、もうすることがないかもしれないから言うと、以前は機内に喫煙席があったんだけど、それは廃止されて、全面禁煙になった。それはいいよ。一、二
時間我慢すればいいんだから。で、喫煙席が無くなって、どの席でも同じということになったんだけど、こっちは乗るまえにタバコ存分に吸ってるだろ、それで
衣服や身体に染みついている。おれ、一度、若いネエちゃんの横になったんだ。すると、そのネエちゃん、もろに嫌な顔して、臭くてたまらないという感じだっ
た。おれは悪いと思ったけど、満席状態だからどうしようもなかった。だから、喫煙者用の席は残すべきだ。そういうことは、少し考えればわかることだ。全面
禁煙にして顧客サービスの向上を考えているというなら、そういうことも配慮した方がいいのさ。
猫 おまえな、前にも言ったけど、柄にもなく話が提言めいてくると、つまらないぜ。
松 その時のことを思い出すと、そのネエちゃんが気の毒なだけだよ。
猫 テレビのCMで、NTTドコモかなにかのやつで、鉄人28号が出てくるのがあるだろう。映画の『20世紀少年』の都心にロボットが現われた
シーンを模倣したやつ。正太郎少年の操縦機の代わりに青年がノート・パソコンを持っているんだが、あれに出てくる鉄人28号のリアルさというのは、横山光
輝の原作から、こちらが空想して描いた鉄人28号の極限のような気がして、おおっと思ったな。
松 迫力があるね。いろんな技術を駆使しているんだろうけど、実写以上の表現だと思ったね。だけど、『20世紀少年』のあの場面っていうのは、も
ともと『鉄人28号』からヒントを得たものだと思う。だから、あのCMは元のイメージに戻したものとも言えるね。
猫 子供の頃、原作を読み喜んで育ったものとしては、とうとう、ここまで来たんだ、と思わせるものがあったな。そうでない者に、この実現性や達成
感は伝えがたいし、「別に」とか「何が」って思われるかもしれないが、それでも、これでなにか一つのサイクルがじぶんの中で完結したような気がしたぜ。こ
れが鉄人28号の〈本物〉だみたいにな。
松 さらば、わが思い入れの漫画の時代ってことだね。まあ、『ウルトラマン』に熱中した世代でいっても、大人になってウルトラマンの背中にファス
ナーがあることに気づいても、じぶんのなかのウルトラマンの像が崩れるわけじゃないからね。
猫 雑誌『情況』に集ったブント同窓会の連中や全共闘おじさんが、遅れてきたベ平連シンパの資料による捏造物たる、小熊英二の『1968』を懐か
しがって喜んでいるだろう。そうすると、これはこの世代の思想と精神の老化と頽廃を物語る、象徴のような気がするだろう。若松孝二の連合赤軍の映画を持ち
上げて、さも重大な問題提起があるように言うのと同じで。そんなことより、じぶんの老後でも考えたらどうなんだ、懐かしがるなら『鉄人28号』の方がいい
ぜ。あの連中にこんなこと、通じるわけがないけどな。
松 通じるか通じないかは問題じゃないと思う。その次元で発言する気はないからね。それは提言めいてくると、くだらないというのと同じさ。たとえ
ば宮崎駿監督のアニメが大ヒットし、それで宮崎駿論が大流行しただろう。それで、ちょっと覗いてみたら、これが屁理屈をこねまわしたものばかりなんだ。お
まえら、嬉しがって浮かれるのもいいが、大概のところにして置けよな、ってなるよ。ただの観客として言わせてもらえば、宮崎作品なんて『風の谷のナウシ
カ』、『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』までで、あとは二番煎じ、自己模倣の連続でちっともいいものじゃない。もっと、きびしくいえば、ほんとうに
論じられる質を持っているのは『風の谷のナウシカ』だけさ。宮崎なんて、彼の固有の嗜好性と、エコロジストのよくあるパターンと、良識的な左翼思想のミッ
クスだ。おれは、義弟二人にしきりに『ナウシカ』と『ラピュタ』を薦められた。それでビデオを借りて初めて見た。そしたら、良かった。手塚治虫なんかの製
作したテレビ・アニメに較べたら、格段にストーリーや背景の描写の書き込みが丁寧で、労力も費用もかけていることがすぐ判った。また面白いし、魅力的だっ
た。それから見るようになったんだけど、作を重ねるごとに、だんだんつまらなくなり、もうどうしようもない、見るも無惨というくらいにダメになってしまっ
た。それとは裏腹に、宮崎監督は世間的にはどんどん大御所になって行ったんだけどね。
猫 宮崎駿は『風の谷のナウシカ』の原作のマンガ作品に尽きるんじゃないか。それ以上の作品はないと思うな。
松 まあね。で、おかしいのは、あれほどおれに薦めた二人は『魔女の宅急便』あたりを境に、ひとことも宮崎作品の話はしなくなった。いまや、宮崎
アニメを見てるかどうかも定かじゃない。アニメでもマンガでも、小説や詩でもそうだろうけど、ほんとうに好きなやつってのは正直だと思うな。余計な予備知
識は要らないし、世俗的な評価に左右されることもない。じぶんが面白いとおもえば、いいものだし、つまらないとおもえば、相手にしなくなる。まあ、おれた
ちにしても、それが基本ということだよね。ご大層な理屈をくっつけて虚妄なる飾りつけをやりたがるのは、遅れて来た知的な連中の悪癖のひとつさ。
猫 亡くなった奥村眞さんのことを少し話したらどうだ。
松 奥村さんは「同行衆通信」時代からずっとおれたちのやっていることにつきあってくれていた。おれが自家発行している『吉本隆明資料集』に挿入
している「猫々だより」にも三回も執筆してくれたよ。毎回、いろんな人に原稿依頼するようにしているんだけど、断られるケースもある。そうなると、紙面が
空白になりかねない。そんなときに奥村さんに無理を言って短期日で書いてもらったんだ。これは、どういう経緯だったか忘れたけど、奥村さんはあの粗末な
「同行衆通信」をきれいにファイルしてくれていて、萩尾望都の『マージナル』の一コマを「同行衆通信」の表紙に使ったことがあるんだけど、それをファイル
の表にされていた。「愛のほかはぜんぶくれると言った!」というやつだ。うれしかったね。
猫 おまえ、泊めてもらっているだろう。
松 うん。1992年の春だったと思う。どういう成り行きでそうなったのか、憶えていないんだ。上京する前に連絡してお会いできませんかとじぶん
から言ったような気がするんだけど、定かじゃない。おれ、奥村さんの住んでいた阿佐ヶ谷界隈、なぜか好きだったんだ。安部慎一の「美代子阿佐ヶ谷気分」や
永島慎二の「若者たち」の影響かもしれないけど、「若者たち」に出てくる「ポエム」という喫茶店のマスターはたしか高知の出身だったはずだ。その近くに
あった「吐夢」という店は、隣村の一年先輩の秋山さんが学生アルバイトしていて、そこにはよく行った。蓋のような戸を開けて、梯子を使って地下へ降りる狭
い穴倉だったけどね。一時川崎にいた時なんか、川崎からわざわざ阿佐ヶ谷まで飲みに行っていたからね。あの辺の屋台もよかったよ。奥村さんとどこで落ち
合ったかも憶えていないけど、奥村さんのアパートに行った。根石さんちの千代さんが二階に下宿したところだ。奥村さんところには水槽があって、本がきちん
と本棚に納まっていて、なにを話したかは記憶の彼方だ。
猫 なんにも憶えてねえじゃないか。
松 奥村さんがおれに腕相撲をやろうと言い出して、奥さんに窘められたのは憶えている。それから、翌朝帰りがけに厄除けのお守りをくれた。おれは
「お守り」なんてとそのときは思ったんだけど、でも「厄」とか「お守り」っていうのは、人々の長い間の経験や深い祈念に培われたものだということが、身に
沁みるようになって、奥村さんの厚意のありかを痛感した。そこからだね、ほんとうに奥村さんという人が、じぶんにとって大きくなっていったのは。あのア
パートの家主になったのは、大家が遺産相続でもめたらしくて、財産分けが面倒だから、店子の奥村さんに買ってくれないかと相談してきたらしい。それで買っ
たと聞いた。お母さんが亡くなり、お父さんも亡くなり、奥村さんはそうとう堪えていたとおもう。おれも母が死んで、親がいなくなったんだけど、そうする
と、〈生きている〉ことの支えを失った気がした。奥村さんのお父さんは高齢だったみたいだけど、これで存外忙しいんだと言われたとか、お父さんが亡くなっ
たとき、奥村さんは出歩いていて、葬儀に間に合わなかったこと、その後近くのスナックかなんかで飲んでいたら、その店の人に「あなた、奥村さんでしょう」
と言われたとか、お父さんに似ていたんだろうね、それで声をかけられたみたいだ。おれ、悪いことに、原稿頼む時しか奥村さんと話す機会を持たなかった気が
する。でも、そのとき話したことは頭のどこかに埋蔵されているはずだ。奥村さんはマメな人だったから、購読費の振り込みの際にはメッセージがあった。それ
を掘り出せば、もう少し奥村さんのこと、言えるような気はするんだけど。
(2009・12・11)
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