瀬沼孝彰の詩業
長谷川博之
序
私は、たった3日で会社を辞めた経験がある。工事現場の小さい部品を調達する会社だったが、早春、私を含めた新人2人は通りに面した事務所の前で、寒い
風に吹かれながら小さな室内用の空調部品の説明を受けた。凍えそうな、早春の風に吹かれながら講習を受けていると血の匂いを嗅いだみたいな気がした。小学
生のころ、歩行中に、つまずき転んだ時や、秋から冬ごろ体育の授業で、意に反して薄着で運動させられた頃以来、久しぶりに血の匂いを嗅いだ気がしたのだ。
すっかり怖じ気ずいてしまった私はきっちり3日めの朝にそこを辞めた。その後も私は点々と転職を繰り返している。
瀬沼孝彰は、その生涯において、詩作品を実体験とみる限り、まっとうに、いくつも職を変えざるをえなかったが、引換えるみたいに読者の心にじんわり滲ん
でくるような幾つもの優れた詩を残していった。4冊の詩集と、その他の詩。『小田さんの家』『ナイト・ハイキング』『凍えた耳』『夢の家』。今回読むこと
ができたなかで『夢の家』のみ、インターネットよりダウンロードできた、あくまで一部分である。また詩集には収められなかった未読の詩がその他にもあると
思われる。
読者の受け取り方はいろいろあるだろうが、抜きんでた意味の構成力が見える、優れた詩が多いとは、誰もが思うのではないだろうか。まず押さえておきたい
のは、読むことのできた全詩に通じる、物語性の強さだ。『ナイト・ハイキング』の「廃品たちの川」の出だしから引用してみる。
湯呑みの中で茶柱が立っていた。
神様も祝福してくれているというのか。
お茶の味がこんなにも苦く感じられることは初めてだった。
昨日、三豊製鋼に退職の挨拶にいってきた。
茶柱ひとつから、退職の挨拶まで、詩語の連なりでひとつのストーリーを作りあげる力量は修練により獲得したものであろうが、現在の詩人たちのなかでは異
質な匂いを醸しだすほどのものだと思う。
『凍えた耳』の「ホタル」の最終連。
暗闇に青白い光が見えた
蛍だった
こんな所に蛍などいるはずはないのに
確かに蛍だった
蛍は今にも消えいりそうに
ヨロヨロと飛んでいく
その光の後を追って
歩いていこうと思った
季節柄、また場所としても、いる筈のない蛍の光と、動きを描き、自分の心持ちへと重ねていく。最後の二行で、自分の行き先を表す、霧のなかのような描写
が、ある意味ではおおくの暗示をしていると思うが、また別の方角からは実際の瀬沼孝彰が出会ってきた生活の苦さ、対人関係、また夢や、行き先の不明さに同
調してゆく。
私は学校をでた時、ものを書くことは、仕事によって包括できるものだと単純に、思っていたのだが、今の自分は、職場では、良く眠る昼行灯である。特に熱
心に文学に関わっている訳でなく、決して文学へ還元するつもりはないが、ある意味で普通詩作は、実際〈生存〉にとって余計なものであるかもしれない。詩
作、つまり文学の言葉にはいつも、生活の、剰余の部分であると、言い切れそうなあやうさがある。しかし、私の幾倍苦労を重ねたのか、ある意味で典型的な詩
人として人生を送った瀬沼孝彰には、どうしても書かざるえない切迫した〈生存〉からの呼びかけがあったのだと思う。
私は『ナイト・ハイキング』の「Sの街」に集められた恋愛詩群が好きだ。ひとりの女性との交情の始まりから終わりまでを優れた語りを包むかたちで読ませ
てくれる。自由とは本当はこういうものではないかとも、思える。
たくさんの傷ついた霊たちが集まってきた
住まいを追われ、うずくまる日の女たち
(中略)
もう、会うことのできなくなった
あなたの泣き顔がじっと見つめている
(「新宿の桜」)
(空振りばかりで
(いつも、肝腎なものがかけてるんだよ
(……
(それじゃ、わたしなんかどうなるの
あなたの顔に柔らかい笑いがひらき
こごえた掌をにぎってくれた
この街の彼方
もう少し、もう少し歩けば
命の夕陽が見えるような気がする
(「夕陽まで」)
真顔で心配してくれた
あなたとの約束を裏切らないようにしなければ
(「約束」)
夜のふちから黒い雨がおりてくる
あなたは傘もささずに、何かを探しているようだ
(中略)
あなたは彼等に呼びよせられるように、深い脳の小道を歩き始める
コートを着た後姿が次第に小さくなり
ランドセルをしょった少女のあなたがいた
(「コンクリート・リバー」)
職業安定所のソファーに座り、落ちつきなく周囲を見まわす。
(中略)
悦子は掲示板の隅に立っていた。彼女は柔らかい面持でわたしを見ていた。
(「さかがみ」)
小さなチップ(断片)の集積みたいな引用になってしまったが、詩集掲載の順番どおりに集めてみた。ゆっくり、冷えていた体温が暖められてくるさまが作者
によってそっと読者へ差し出されている。また、〈Sの街〉を背景に、他の詩より言葉は自由に風景のなかを動いて読者を迎えてくれている気がする。
かっての私の仕事から、新宿の職業安定所といえば通りの名になっていたぐらい有名な場所である。私は飲み屋や風俗とはほとんど縁がなかったが〈Sの街〉
の点在した役所を、よれたスーツ姿で跳び回っていたことがある。よく背景が描かれていると思う。
『ナイト・ハイキング』の「廃品たちの川」は瀬沼孝彰の独自の物語を凝縮した詩として、ひとつのピークを示している。少し細かく読んでみる。
自動車部品メーカーの営業課(ルートセールス)を、腰を悪くして(椎間板ヘルニア)働けなくなったわたしは、工場へ退職の挨拶に出掛けるが、工員たちか
ら嫌なものでも見るように、よそよそしくされる。
「辞めていったほとんどの人が腰をいためていたという。使いものにならない廃品がいる場所はないのだ。
(中略)
みんな、自分や家族を守ることで精一杯なのだ。」
わたしは数日間部屋へ閉じこもっていたが、やがて外へ出てみる気にはなる。
「一人でいればいるほど気持ちは重く沈み込み、歪んだ妄想に苦しめられた。
小田さんの所へいってみようと思った。
老女は東浅川の土手下に住んでいた。」
職を無くしたわたしは、小田さんにより新たに働らかせてはもらえる。ただ、これが実際にあった事かどうかは解らない。他の、仕事場での出来事を題材とし
た詩より言葉は、濃密に強くまとわりつき、行分け詩から散文詩へと転ずる過程みたいな形態で描かれているのだ。
「ダンボールに新聞、電化製品にトタン、鉄クズ、鋼クズ。仕切場にはこの時代の様々な廃品が漂流してきた。廃品たちは親方と小田さんによって分類、仕分さ
れ新しく生まれ変わる機会を与えられる。」
廃品は〈わたし〉の喩である。〈わたし〉も廃品同様、新しくうまれ変わるのだ。
「土埃をあげてトラックが入ってきた。
トラックには電化製品や事務用品が満載されていた。(中略)
なれるということは恐ろしいことだ。ダンボールの梱包も銅線むきも次第に苦にならなくなった。(中略)とうとう落ちる所まで落ちたなという思いの底に、不
思議な解放感があった。」
しばらく働き場にいたわたしに小田さんは言う。「いつまで仕切場にいるんだい。
シンたちは他に行き場所がないけど、あんたはどこでも働けるんだからね」
小田さんという老女は、詩集『小田さんの家』の「小田さんの家」では浅川大橋から少し離れた土手に住んでいて、初めて出会った時、作者には、すまなさそ
うな顔を向け、その後はよく応対してくれた優しい人として描かれている。作者の母の像のひとつなのかもしれない。「廃品たちの川」の最終連で瀬沼孝彰は描
く。
「小田さんは空を見上げ、指で何かを書き始めた。
青空をクレパスにして文字のようなものを書いている。
(中略)
(私が)幼い頃、クレヨンで画用紙に夢中になってなぞったあの感覚が蘇ってきた。
すっかり猫背になっていた背すじがのび、彼方の青空に溶けていくように思われた。」
エロス
どれだけ経験が少ないとはいえ、作品において欠かせない領域はあるだろう。瀬沼孝彰の詩作の流れにも、古典的とはいえ、縦糸みたいに筋が幾つか張られて
いる。作者自身の、エロス、労働、生活、関心ごと、が筋肉のように続きいくつか張られている。私は作者の詩以外の散文を見たことがないので、3冊の詩集
と、いくつかの作品以外は、インターネットを通じて読めた周囲の人の文章からしか人物像を思い浮かべることはできない。詩語のうえにまた詩語を重ねる芸当
みたいな詩を書いてはいないが、詩語のうえに独自の物語を積み上げてはいる。
細いラインではあるが、3冊の詩集と『夢の家』での幾つかには、まるで埋めるみたいに、女性との交情の言葉が、刻まれている。
原初の様子は、次のように描かれている。
指をからめ、丹念にこする
ふくらみの血が上気してきて
あの女の花心のように
水と皮膚が柔らかくふるえ
スベスベと脈うつ
鮮やかな息がしぼんでいた心に吐きかかり
銀色の魚たちとわたしの手が
水しぶきを上げ
少年のようにうごいていく
『小田さんの家』(「吉田さん」)
セックスについての喩をたっぷり含んだ詩であろうが、活きいきとして健康的である。「吉田さん」のモチーフからは少し寄り道の部分だが全体にうまく嵌め
こまれ、筋肉の動きみたいである。私の乏しい経験からなんとか読み採るのだが、最終連で山彦のように引用した行の答えが、帰ってくる。
一つ、二つ
ステンレスの水滴に
やつれた家族の顔がうつっている
洗い流してしまえ、洗い流してしまえ
疲弊した皮膚を破り
突きぬけるものが欲しいのか
(「吉田さん」)
親不孝な表情を晒してはいるが、荒々しさを剥き出しにして、自己を肯定している。これは、ひとつの恋愛体験である。「吉田さん」の収められた『小田さん
の家』にはこの他には、恋愛について描かれた具象的な詩はひとつもない。かえってこの詩で引用した部分が、魚に託した喩みたいに、生きの良さを描き出して
はいる。
第2詩集『ナイト・ハイキング』の前半部には幾つか、セックスを含めたエロスについての詩が纏められている。
新宿の桜が花を散らしているのだ
夜の日射しの中で
一枝、一枝がふるえ
赤い花弁をふらせてくる
死んでいった友たちが見える
もう、会うことのできなくなった
あなたの泣き顔がじっと見つめている
(「新宿の桜」)
縁がなくなったのだろうか、「会うことのできなくなった」に、自己懲罰的な意味あいを感じてしまう。
あなたの顔に柔らかい笑いがひらき
こごえた掌をにぎってくれた
この街の彼方
もう少し、もう少し歩けば
命の夕陽が見えるような気がする
(「夕日まで」)
もう〈あなた〉とは別れわかれになったのだろうか、家庭的な匂いの薄い作者の詩は、全体的に自分の先行きを考えているところが、言ってしまえばひとつも
無い。ひとつひとつの詩をとりあげ、私の判断で断片の引用を行い続けるのは非常に危険ではあるが、作者のエロスのゆくえを鑑賞するみたいに追っていくのは
仕方のないことではある。
アルコールだけが胃袋の友だち
(中略)
飲めば、飲むほど一人になり
言葉をなくしてしまうのに……
(中略)
今夜
あなたが気の毒そうに
少しウィスキーでも飲もうかといってくれる
でも、やめよう
飲めば話さなくなった
あなたが持つ
本当のいたみに
耐えられなくなりそうだから
(「約束」)
耐えるべき〈あなた〉の本当のいたみとはなんだろうか?作者の胸にもあり、くぐもる声と呼応しているのか、言葉はゆっくり〈あなた〉と同調してゆくの
だ。これは悲しい。作者の、つまり言葉は、徐々にセックスよりも心情へとのめりこんでゆくのだ。
気がつくとわたしも少年にかえり、あなたの手をかたく握りしめている
あなたの少女の顔が一瞬輝き、しびれるような気持
この道をいつまでも二人で歩いていこう
(中略)
あなたは路上にぐったりとしゃがみこむ
顔を上げると、蒼ざめた頬に
柔らかい表情が浮かぶ
静まりかえった廃墟の中
二人、顔を見あわせて笑いあった
(「コンクリートリバー」)
ここでは、〈あなた〉との自然な結びつきが、描かれている。互いが〈自然〉である植物のような在りかたが作者のひとつの願望なのだが、詩作として成就し
ていると思う。が、必然的に詩語から現実感がうすれてゆき、行分け詩から、流れていくように、散文詩の形式へとはみ出てゆく。
悦子は掲示板の隅に立っていた。彼女は柔らかい面持でわたしを見ていた。
(中略)
悦子が部屋のドアをあける。
純白のハマユウ。一際大きいロブスターの葉。悦子の部屋には様々な種類の花々が置かれ、ひっそりと息づいていた。
「みんなあなたがきてくれたことを喜んでいるわ。こうして耳をすましていると、あの子たちの声がひびいてくるの」
(中略)
彼女の話はいつも次第に逸脱し、虚構の世界に流れだしてしまう
(中略)
悦子の顔に深い影が射す。彼女の眼のまわりには濃い疲労感が浮かんでいた。何回も指先で触れる黒髪は美容院にもいっていないらしく艶がなかった。
わたしは悦子のくちびるにくちびるをあわせた
植物たちの声が聞こえる。声はわたしと悦子の闇の深部に流れ、かすかに光り出していく。
(「さかがみ」)
ひと通り読みとり、終わりが見えたが、その先は、『ナイト・ハイキング』のずっと後半部に、はっきり散文詩として〈わたし〉と〈あなた〉は距離を置き描
かれている。
楠の光の幹に吸い寄せられるようにドアが開き、マンションの部屋に入っていた。
室内にはたくさんの南の花々が咲きほこり、あたたかい植物の香りに包まれていた。その人はベッドに身体をおこし、わたしを見つめている。何処かで遠い昔
に会ったようなとてもなつかしい気持。悲しいほど美しいその人の口元に柔らかい微笑がひろがる。もう一緒にいることはできないのか、その人の姿がかすむよ
うに消えていく。
(「常世ぐるい」)
第3詩集『凍えた耳』において、実際にエロスの対象として、他者が描かれている詩はひとつである。「無力のかけら」。
狂ったあの夜がきた
黒い血が噴き出し
炎の奥でくずれ落ちるボタン
はれあがった泥の川が
ギラギラと闇に流れた
目がさめると留置場の壁だった
警察官の前で
しゃべれなくなっている俺がいた
腐乱したハエのように
黒いものが飛びかっていた
己れに対する憎悪をかみ殺し
無言をのぞいても
何も 見つからなかった
何も きこえてこなかった
あなたからの手紙を読みかえした
荒野にいるような気がした
もう
おれのことは忘れてほしい
あなたが あなた自身にもどるために
もう一度夢を見るために
この〈あなた〉が具象として瀬沼孝彰の現実に直結できるかどうか解らない。ただここでも像として、自立した他者が必要だということだ。作者に再び涌きあ
がる自己懲罰と〈あなた〉は直結してしまっている。
第4詩集『夢の家』の一部分では、〈あなた〉が瀬沼孝彰にとって、もう会うことができない他者の姿としてあちこちに散らばっている。
それは数年前に別れたあの人だった
もう抱いてやることはできないけど、見てやりたかった
せめて昔のように見てやりたかった
貝の花がしっとりとうるんでくる
啜り泣いてるようだった
(「月の川」)
川にくれば、一塊のだれでもないものに
なれるように思えた
だがやはり二人だ
寄り添ってくる孤独からは、離れることができやしない
(「川のうた」)
昨年、泉岳寺を訪れた時はあの人と二人だった。桜の花が散りふぶき、「血染の石」も「首洗いの井戸」も、花の死骸で一杯だった。
休憩所の仄暗がりにもう会うことができなくなってしまったあの人が見えた。神経を病んだあの人の顔は青ざめ、仮面のように表情がなかった。
(「波動の寺」)
モチーフ全体が恋愛詩と考えられるのは、「春のうた」
もう、わたしからあなたを開放しよう
肩の重荷はつぶされる前に
ひっそりとおろしたほうがよいのだ
ここから先は霧の中
これから先は一人きりで
あなたはあなたの
わたしはわたしの路上を歩いていこう
きこえてくる
あなたの声をかてにして
(「春のうた」)
ここまで辿ると、〈あなた〉が、作者の母の像と、重なってしまうように思えないだろうか。具象性の強い瀬沼孝彰の詩のなかで母の像は、例えば「小田さん
の家」では、ぼそぼそとしてはいるが、頑に一人の母として描かれ、存在している。行を分けた詩としてはあたりまえの普遍的な像としてある。つまり自分は、
母の子であると、ひかえめに宣明されている。そこで〈あなた〉は、どんな暗喩であろうと、他の意味で存在はしてはいない。だが「春のうた」の後半部におい
ての〈あなた〉は、作者にとってもはや〈母〉とも交換可能な言葉の選び方をしている。作者においては、〈母〉と〈あなた〉は同調させることができると無意
識に考えられている。
ようやく、スタートラインに立つことができたのである。自分にとって、母が〈あなた〉と重ねあわせれるように、〈母〉より、詩としてのの自立性を獲得す
ることができたのである。詩語が溢れた先の散文詩の〈あなた〉が、〈あなた〉と〈母〉の同意性を獲得できたのだと、私には思える。
生活─労働
瀬沼孝彰の詩集のなかで、読むことのできる最も古いものは『小田さんの家』の「山名さん」であり、32歳の時、発表された詩である。詩としては、人の目
に触れられても充分なよい詩であると思う。年齢から逆算して、瀬沼孝彰は、社会人として自分で働いていくだけの日々に、慣れていると考えても良いと思う。
一年後、詩においても充分労働の、刻みこまれた詩を作っている。『小田さんの家』の冒頭の詩、「銀色の闇」において、仕事を終えた30代の夜を明確に捉え
ている。
家族が待っている家に帰ろうとすると
足が硬直して動かなくなり
銀色の玉が無性に恋しくなる
社会へ働きに出だして少しの時間がたつとたいがい解るのだが、(ただ、私自身の感じ方だけであるのかもしれないが)仕事を終え、住処へ帰るあいだに、ま
るでエアポケットみたいに、ひと息つこうとする時間ができるのである。ほっとため息をつく時間というか、するあてがないというか。特に働くことに完全に慣
れていないあいだはそうであると思う。やがて、必要に応じて残業が恒久的になるとか、単に労働に慣れるかなどによって、〈エアポケット〉は浸食され、時間
は引き延ばせるようになる。一杯のビールやつまみがうまくなったり、奥方や子供の相手をして時間を過ごせるようになる。また夜の遊びにのめりこむことも出
来るようになるかもしれない。
ただ、〈エアポケット〉がどうしても残ってしまう者はどうすれば良いのだろうか?。都市での時間の流し方に、失敗をしてしまった者は、つまり30代でパ
チンコ屋で和まざるえないところから、最初の詩集のいちばん最初の詩を始めてしまわなければならない者は、逆説的ではなく、この場合、詩人としてある意味
では、労働に於いて本質的な存在にならざるをえないのである。労働に意志を持つためにである。
電動ハンドルがあえぎ
こぼれ落ちる玉が眼の中で砕けちる
店内は満員なのに
誰の姿も見えなくなる
(中略)
店内にあかりのようなものが灯り
人々の姿が見えてくる
玉は
吐血するように消えていくけど
わたしの奥 人々の救命ブイ
無数にならぶ
やつれた台の中から
とじこめられた魂の音が
銀色の街に、ひびいていく
(「銀色の闇」)
パチンコのハンドルを握り締めたおおぜいの客のなかで、孤独になったり、親しみを感じたりして、最後の一行で深まってゆく夜の眩しさを描いている。都市
のあかりは、銀色に輝き、暗さもいっしょに際だっていく。家へ帰れば、また一日が終わりそのまま明日は慣れない労働へ向かうことになるのである。今は夜の
街で〈エアポケット〉を過ごすしかないのだ。
私にとっては、定期券の途中駅で降りての古本屋めぐりであった。文学書からマンガ、エロ本。書棚の背表紙を眺め、探していたものがあれば買う。川崎や武
蔵小杉、ときには高田馬場まで飛んでゆく。やはり当時は労働から離れると同時に短い解放感を味わった。百円コーナーで、みなマンガ本を立ち読みしていた光
景を良く思い出す。店内から外へ溢れる明かりが眩しかった。直接家へ帰らないでいられるようにわけの解らない時間を一人で流した。よくあるように、酒をそ
のうち飲みだした。今では酒も飲まず、結局、体力の衰えで私は、〈エアポケット〉を潰せていった気がする。
瀬沼孝彰は仕事を、自分に宿った労働への異和感を作品のうえでどのように始末をつけていったのか。順を追えば、〈エアポケット〉を鈍磨させていき、つい
には詩のうえでは追いこみ、隠し、自分でなだめ、上手でないにしろ消しさっていく。生活者へと自分を同調させていった。つまりはあるところで、得心をえた
生活者の姿をさらけだすこととなる。
失語さんの石森さん
(中略)
でもなぜかわたしとは気があい
親切にしてくれた
『小田さんの家』(「石森さん」)
(山名さん、本当なんですか
(あんなに一生懸命やってきたのに
(僕は……
『小田さんの家』(「山名さん」)
30歳になり急に詩を始めた訳ではない。必ず修練の時はあった筈である。ただ30代なのにまったく言葉は労働を始めた者の感情に近いのである。すくなく
とも私にとってはである。やがて自分に道筋をつけ、同僚たちへは、優しさをとりだしていく。
二月の終わりに会社をやめた
親しかった中川さんや石森さんと別れた
『小田さんの家』(「中川さん」)
労働意欲あっても作者は仕事場を辞した。また別の場所で働くためである。
わたしは昼間の仕事だけでは生活できなくなり、夜も働くようになった。
『小田さんの家』(「吉永さん」)
私の視線は生活においての働くことへと焦点を狭めすぎているかもしれないが、どうしても関心はここではそこへ向かっていく。瀬沼孝彰の〈労働〉はどこへ
ゆくのだろうと。
私はいまでも労働現場は恐い。朝、通勤電車のなかでも、その日をいろいろな方法で占ってしまう。しかし瀬沼孝彰は『小田さんの家』から『ナイト・ハイキ
ング』へ移るとき、仕事についての詩でも、新入社員のもつまるでプールの水に飛び込む時のような、緊張感は捨象している。
男はわたしの仕事が終わるのを
待っていてくれた
『ナイト・ハイキング』(「街の底で」)
詩作者としてより、たんなる労働者へ。すでに、労働を包括した生活者の位置から言葉は繰りだされだしている。
祖父のように出ていけばいいのかな
破れるようにね
転々、てんてんところがり
すべてに腹ばかりたてて、言い争い
酔どれて帰ってくると
かならず玄関の床に寝てしまった
(中略)
言いきかせたそのそばから
いき場所のない言葉が晒しものになり
ふるえている傷だらけの身体
夜の胸底で
ジリジリとしめつけられていく
『ナイト・ハイキング』(「ウエイト」)
やっと過ぎていったのだ、一旦獲得すればもう後はなんとかなる。引用した部分では、すでに労働への意志から無理をして抽出した言葉を捨象して、うまく詩
語へと転換していった過程が解る。『小田さんの家』にあった〈エアポケット〉は、
買うものもないのに
夜の街をうろつきまわって
この店にきてしまった
『ナイト・ハイキング』(「セブン・イレブン・ベイビーズ」)
へと、パチンコ屋からセブン・イレブンへと背景が変わり、また〈エアポケット〉を示す詩語も変わっていった。
眼に見えないリュックを
背中にしょって
最新型の裏通りを
今夜はわびしいハイキング
アルコールのしみた脳の奥に
『ナイト・ハイキング』(「ナイト・ハイキング」)
先にエロスで描いたときと同じ構図となってしまうが、エロス同様、労働も、乗り越えると同時に詩語は溢れ、行分け詩から散文詩へと転換されてゆく。『ナ
イト・ハイキング』の「廃品たちの川」で再び失職した過程を描き、廃品の再使用の仕事をして時をやりすごす術を胸からとりだしてみせ、言葉を紡いだ。
「とうとう落ちる所まで落ちたなという思いの底に、不思議な解放感があった。」表も裏もなく、描きつくされている。ここまでくれば〈何故?〉という思い
が発想されることもないのだ。決定的な一行だ。〈エアポケット〉のゆくえは、誰でもこうしているし、瀬沼孝彰にとっても自然に流されていく位置まで既に辿
りついた。『ナイト・ハイキング』から『凍えた耳』へと移ると、もう言葉は、在る場所、在る位置の、二本の筋を踏み、つまり物語がきちんと語れるところま
でに達している。
この会社で勝ち残ることは自分を押し殺すことのように思えたからだ。そういえば聞こえがよいが、本当は成績が悪くていられなくなってしまったのだ。
『凍えた耳』(「トガリハナバチ」)
やつれた職場には大切
でも おはようをいおうとすると
さよならになってしまう
かぼそい声で
おはよう さようなら
『凍えた耳』(「おはよう」)
貯水槽の清掃は苦手だ
特に真夏は厳しいものがある
できるだけ若い人にやってもらうことにしているのだが
まぬがれない場合もある
『凍えた耳』(「コンクリートの日々」)
この老人病院の総務課に勤めるようになってから、もう二年の歳月がたってしまった。
『凍えた耳』(「カチューシャ」)
もはや、職業での不具合をふりだす言葉などはありはしないのだ。生活の幅は労働の幅よりたいへん拡いとでもいえるか。具象性をやっと獲得した。いずれに
しても、長く嘆息する必要もないし、余計な意識は捨象されている。〈エアポケット〉を開示したり、感じたりすることもない。
吉本隆明はどこかで、大才や、夭折してしまう文学者を除き、どのような文学作品も労働に負けた感触を含んでいるといった意のことを書いていたが、瀬沼孝
彰は、真っ当に、宿命のごとくその道を辿った気がする。
論理
今までみてきたように詩を辿ってゆくと、瀬沼孝彰は重要なモチーフを真正面に置いて詩作を続けていたことが解る。そのなかで、エロスはひとつの重要なな
がれであり、労働もひとつの重要なながれである。実際、そこでは詩の意味は大事な武器のひとつとなる。
〈具象性〉を大切にしておいていることが、良く理解できる。けれども、エロスと労働が、詩作の底で重要であることが理解できても、あたり前だが書き続けら
れてきた詩はもっと大きな拡がりがあり、他のさまざまな要素をぶつけてみても充分、耐えうる詩であるのは誰にとっても明らかであると思う。
最後の意図として、作者自身をつき動かしてきたこころの論理にここでは、触れておきたい。詩作を続けることにひとつの大きなモチーフが在るなら、作者は
その意志に対し、『小田さんの家』からじりじりと昇りつめ『凍えた耳』において、ある頂点へ辿りついたといえると思える。最後の詩集となった『夢の家』に
おいては、ここでは判断は出来ない。けれど、最後に、作者をつき動かしていた論理の一端に触れておきたいのだ。
『凍えた耳』から「おはよう」をとりあげ、読んでみたい。
明るい朝には
あたたかい水のようなおはようが大切
かわいた家族には
やつれた職場には大切
かわいた家族と、やつれた職場には〈おはよう〉が大切だと書かれている。明るい朝にあたたかい水、という修辞がつけられている。かわいた家族や、やつれ
た職場には明るい朝が耐えがたいのか。あたたかい白湯みたいな〈おはよう〉が必要であると読むと、かわいた家族や、やつれた職場には、ゆっくりあたためて
いかなければいけない冷たさがあるのだと、感じてしまう。
でも おはようをいおうとすると
さよならになってしまう
かぼそい声で
おはよう さようなら
あたたかさを与えようとすると、それ以前に乾きややつれた冷たさが耐え難いからか、まるで俯いてしまうみたいに、あたたかい水のような〈おはよう〉のか
わりに〈さよなら〉を言ってしまう。かわいた家族もやつれた職場にもかぼそい声のさよならを言わせてしまう。詩人の孤独感はかわいたエロスややつれた仕事
場に温度を与えるより、そこから立ち去ったほうが良いのだと考えているように読みとれる。かぼそい声で、〈おはよう〉と、〈さよなら〉を同時に言わせてし
まう。
ドアをあける
こっそりと声をあび さかしまに輝く心臓
なつかしいみどりごの大気はふるえ
時さん 白い未生のものたちの気配
こころのドアをあけ覗いてみれば、生まれる前の自分や他者を見ることが出来るかもしれない。私が読むことができた範囲において、作者は、滅多には描いて
はいないのだが、自分の幼児期を取りだし、ぽつん、ぽつんと孤独にイメージ化している部分がある。上昇していく明るい朝陽みたいなイメージがここでは掴ま
れている。
にわかにくもり
火としずむ穴ぐらはなく
おはよう 隠されてしまう
おはよう あなたに会えない
未生のものとしての白い生命感の輝きを、見ていたかったのだが、くもってしまい、生まれて〈おはよう〉を言うべき〈あなた〉は隠されてしまうので会えな
くなってしまうと言っている。いくら〈おはよう〉を言う相手が誰であっても、詩人のこころは暗く閉ざされてしまう。
ひびきあう
皺だらけのおはようの朝に
忘れてきた無言の少年が
寂しそうに手をふっている
ひびきあう皺だらけのおはようの朝に、〈おはよう〉と言っても、欠損を感ずる自分の心では見まいとしてきた少年期しか描けずとりこぼしてしまう。詩はそ
こで終わっている。
今までみてきたとおり、作者にとって言葉の意味は、例えばコップのなかへビールを注いでゆき、注ぎすぎて泡がこぼれるみたいに、過剰になってゆく。行分
け詩から散文詩へと絶えず展開するあいだに、詩語は溢れだされて、意味の言葉へと転換してしまうのだ。意味の言葉へと、追い詰めてゆく感性のありかは何処
にあるのか。少なくとも詩作品において、作者には、抱えてはなさない、コンプレックスや固執のようなものは見あたらない。確かに仕事場での人々のあいだに
発生する差異を描く場合もあるが、人と人が仕事場での関係を結んだ際に、発生するコンプレックスや差別化自体を継続的に言葉にしようという気などない。差
別化自体はすぐ詩のなかで、捨象してしまう。発想じたいを行分け詩から捨てて、やがては散文詩のなかへと埋めこみ、具体的な意味へとつなげてしまう。埋め
込んだ意味はいままでみてきたように、無化されてゆく。以前、吉本隆明が、『週間プレイボーイ』誌上で糸井重里を聞き手に、人生相談のコーナーを受けもっ
た事があった。一週
間ごとに読者の悩みを引き受けるのだが、(注)現実からの言葉の意味を言葉によって無化、あるいは〈解体〉させ答えることによって相談自体を〈解体〉させ
ていったと思う。
どこか、瀬沼孝彰の詩作の方法と似かよっていないだろうか。ただ吉本隆明は、言葉による〈解体〉の作業が、現実の無化もしくは、現実をなだめる方向へベ
クトルが向かうのに対して、瀬沼孝彰は、自分の思いわずらいを、自然のなりゆきであると認識したうえで〈解体〉させていった後に詩語じたいを捨象し続けて
いったのである。詩集『凍えた耳』においては、エロスや労働を含めた世界に存在することから発生する様々な意味を、もっとも優れて、詩作品へと言葉を結ん
でいる。これ以外は詩の言葉はいらないと思えるほど固く結実させている。
私の読み取りは性急だったかもしれない。何故なら、詩の言葉をただ切り貼りするみたいに、とりあげてばかりしていたからである。瀬沼孝彰の詩にある厚み
や、ゆとりの存在面。(それは最後まで一貫して存在している。)また柔らかさを、私が捨象し考えているからである。
『凍えた耳』の最後に置かれている「こうみいし」は、私がこの文章によって捨象してしまったかもしれない、瀬沼孝彰の人柄や詩作品での作者の孤独さの流
れを存分に含んでいると思うので結びとして最後にとりあげたい。
子産石
あまりにも 荒涼とした風景が
岩石にこのような石を産ませたのか
酷薄な環境に耐え 坑うために
無機物でさえ
このような子を産みださなければならなかったのか
親の背にしがみついた
人面を思わせる小石の表情は
ほのぼのとあたたかい
人々をひきつける瀬沼孝彰の多様な詩たちでは、耐えしのんできた自然の時における、いろいろのものを含み、どこか寂しげだがあたたかな親しみを、私たち
に示している。
『小田さんの家』1988年10月 七月堂刊
『ナイト・ハイキング』1992年10月 ミッドナイトプレス刊
『凍えた耳』1996年6月 ふらんす堂刊
『夢の家』1997年8月 七月堂刊
(注)『悪人正機』吉本隆明×糸井重里2001年6月 朝日出版社刊
同右文庫版 2004年12月 新潮社刊
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