ゴールデン奥村逝去

根石吉久



奥村さん 09/11/03 02:14

 いまだに納得していない。何年も会わずにいたことが悔やまれる。やっぱり本当に死んだんだなと思う。だけど、そこらをうろついている気もする。まだそん な感じがする。死んだやつのことは生きている者だけが知っているんだ。死んだやつは、そんなこと知ったこっちゃねえんだ。そんな程度の理屈を言うと、あな たはどんな顔をしていたっけか。思い出せない。あなたはまだ解き放たれてはいけないのに解き放たれてしまった。

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 歯医者で眠るのは、床屋で眠るのと同じくらい気持ちがよい。とりわけ、あのシャーシャーという音は、うつらうつらしながら簾越しに聞く真夏の熊蝉のよう だ。
 待合室で読んでいた金子光晴『マレー蘭印紀行』のせいか、口中に並んだ歯が、波打ち際をかたちづくる一面の珊瑚虫の遺体のように思えてくる。

「人生もなければ追憶もない」
「たとうべきもない寿命のながさと、その閑寂さがある。褪せることをしらない色彩の不老がある。海は、くさ色である。空はますます鮮麗なふじむらさきであ る」

 やがてシャーシャーという音は止み、削られた金属が削られた歯に被せられ、
「一時間ほど噛まないでください」と言われ、
「きよくて、あかるくて、すずやかで、無情な、澄み透った」時は、こうして終わった。
 (2000.3.24)

 風船の好きなハリネズミが風船と遊ぼうとするとすぐ割れる、からだじゅうにコルクを突き刺したら、やっと風船と遊べるようになりました。
 穴掘りが大好きだけれどお風呂が嫌いなアナグマだったかアライグマだったか、お風呂へ入らなければ家へ上げてあげないと言われ、屋根に隠れていましたが 穴があいて落っこちた。ちょうど落っこちたところが風呂で、家の主人のニンゲンが入っていた。スポンジでからだを洗い、アヒルのおもちゃで遊びました。

 というところまで読んだら、やっと窓口から呼ばれ、普通預金から引き出せた。かばんや財布や、そのなかのカードをしょっちゅう紛失するので、銀行のカー ドは一切つくらないことにした。そのため、その都度、はんこを押した紙と通帳を持参する。多忙な朝はいらいらしながら、備えつけの絵本が読める。
 (2000.4.10)

 むかし吉本隆明『島尾敏雄論』を読んだ時、「微温的な博愛」ということばが気にかかって書き留めたことがあり、批評の文脈から外れ申し訳ないのだが自分 の所業を弁解するために勝手にこのことばを使っている。私は盛り場で知り合った女性を次々に連れ合いのいる家へ連れてきてしまうという悪癖があり、ことも あろうにそれを称して「微温的な博愛」などと騙っているのだ。もっともなかには招待したわけではなく、金を持たずに入った初めての呑み屋の方がいそいそと くっついてみえたことも何度かある。連れ合いとこれらの方々を鉢合わせさせ、私はさっさと寝てしまうという人非人なのだ。では盛り場以外の方はどうかとい えば、私には盛り場以外の暮らしはほとんどないのである。
 タヌキとムジナはおおむね区別がないが、化けるとすぐ峻別できるというはなしを井伏鱒二が紹介していた。どちらも紺絣の着物を着て籠を背負った草刈り娘 に変身するのであるが、タヌキの手は白いのに対してムジナの場合は手の甲まで紺絣になってしまうというのだ。つまりムジナの方がまだ修行が足りないという わけで、このはなしを読んでからは呑み屋へ行く度にそれとなく手の甲を盗み見るのだがまだ紺絣の手にはお目にかからない。ことごとくタヌキなんだなと思 う。(1997.12.12)

 路地の脇に可燃ゴミが積んである。狭いところには昔から何か落ちていた。大人が入り込めない空間を蟹のように這ってゆくと、そこにはいつも宝物があっ た。道路の幅を拡げることで、宝物は次第に減少する。自分の宝物を発見するには、どこかに自分の迷路を掘らねばならない。可燃ゴミのおもてに記された活字 をぼんやり眺めていると、徐々に行間が立つ。行間のひとつひとつはビルとなり、高層ビルの白い風景のうしろに活字は霞んで退いた。僕は見晴らしのよい断崖 から飛び降りることをしない。断崖の上と下はそれぞれ別の場所であり、それぞれ単なる平坦に過ぎない。その両者の境界は断崖となっているが、僕は細くなだ らかな路地を空中に掘って徐々に下ってゆくだろう。(1997.10.2)

 酒場で臨席した「さしずめインテリ」と長丁場になった挙げ句鸚鵡返しにこう言った。あなたが守りたいものは人類なのか生類なのか、あれかこれか、どちら かをと言うのなら間違っているし両方をというのなら嘘つきだ、と捨てぜりふを吐いたところ、もうあんたみたいなやくざものとはつきあえないと席を立たれ た。店のママさんにももういいかげんお開きにしてくださいねとあいそをつかれさっさと片づけられるというはめに至った。朝5時だった。 (1996.12.27)

(2000年の日付のあるものは、奥村さんのホームページ「猩々蠅」を開いて、たまたま最初に開いたページからから引用。そこから「猩々蠅」の最初のペー ジに飛べなかった。別の日、最初のページを開いて読み始めた。奥村さんが嫌がるかもしれないが、人格を感じる。端正な文章あまたあり。引用しきれない。 09/11/03)
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奥村さん (別の日)

 奥村真さんが亡くなったと、ミッドナイト・プレスの岡田さんからメールをもらった。仕事でインターネットを使った英語のレッスンをやっているが、その途 中の休み時間にメールを読み、しばらくじっとメールの文字を見ていた。気持ちがざわざわしているが、メールをたたんで画面を仕事用の画面にした。仕事用の 声をやっと出しているような感じで、途中、生徒への応対が何回かとんちんかんになった。どこかに空洞ができたようで、仕事用の意識が何度か空洞に吸われて しまう。ふっと、気づいて、また仕事をするみたいだった。声が低くなり、自分の声が空っぽの感じだった。

 奥村さんはお茶目で、いたずら小僧だった。「娑婆で汚れた大人」を演じるのが上手だった。ふざけ始めると、悪ふざけになることもしばしばあった。ふざけ てるんだとか、悪ふざけになっちゃったんだというところは、なかなか理解されなかっただろう。お茶目なんだが、含羞が何重にも過激で、世間的には実に複雑 な構造の人だった。いや、世間の複雑さに奥村さんの含羞が対応して、複層を成していたのだと思う。含羞が強いことがまったくわからないようにする。何重に もそうする。世間の複雑さに応じて含羞を隠すから、奥村さんの含羞は複雑な構造の向こう側にあった。だから強面の時があった。強面だがお茶目は隠せなかっ た。お茶目だけは人に見せていた。

 何かの会で、山本かずこさんの隣に座り、奥村さんは、「山本さんて足が太いね」と言ったそうだ。山本さんは、「いいですけど」と先日の電話で言っていた が、言われてから数日はぷんぷんしただろう。「私は忙しかったから放っておきましたけどね」とも山本さんは言っていた。奥村さんと女の足の話なんかする と、「ふくらはぎに肉がある方がいいよね」と私は言うだろうし、奥村さんは目を細めて「いいよね」と言うだろう。「足首は細いほうがいいよね。通俗的だけ ど」と言うだろうし、奥村さんは目を細めて、「いいよね」と言うだろう。まあなんだっていいのだ。酒なんかもそうで、なんだかんだ言うんだが、しまいには ああだこうだ言わないで、「いいよね」って具合に目を細めて飲んでいた。
 山本さんは、私にとっては、松岡祥男か山本かずこか、ってくらいに大事な詩人で、足のことなど考えたことがなかったが、さすがに奥村さんは「お茶目が過 激」だったので、目のつけどころが違う。あれら過激な詩のことなど口にせず、生きている女の詩人に、足について感想文を述べるのだ。いや、待てよ。私は山 本さんが、スカートをはいているのを見たことがないんじゃないか。奥村さんは、抜群にいいところにいたのかもしれない。奥村さんには、「抜群にいいとこ ろ」をかぎつけて、すっと座ってしまう臭覚があった。どうやって、そんな「抜群にいいところ」に座るんだろう。それはわからないが、抜群中の抜群は節さん の側だっただろう。節さんには甘えん坊だった。どこで寝るんだか知らないが、二日も三日も酒場をうろつき、いつも節さんのいるお家に帰ってきては叱られて いたらしい。野良犬がとたんに飼い犬になって甘えちゃうんだから大した才能だ。「いいよね」、なのである。

 奥村さんが政治セクトに属していたのかセクト間の流れ者だったのか知らない。三里塚闘争で機動隊と集団と集団のぶつかりあいになり、機動隊員が死んだこ とがあるらしい。奥村さんはその裁判に長いこと出たらしい。集団と集団のぶつかりあいで、誰がいつ誰をどうして、誰の棒が誰にぶつかったかなど跡づけられ るわけがない。もし跡づけられたとしても、それに何の意味もありはしない。
 「忌臭祓い」という詩集出版以後、「まだ裁判をやってるんだよ」と言ったことがある。言葉を返せなかった。国家に向けるべきものは「おふざけ」だろう し、それより上等なものはあまりないだろう。国家は死ねばいいのだが、「激突」によってでなく、人々の「おふざけ」の沈着さで死ねばいいのだ。酒場での喧 嘩による死だったと聞いたとき、ぼんやりと何か思っていたが、今思えば、奥村さんは両方やっちゃったんじゃないか。「おふざけ」=「激突」だったんじゃな いか。奥村さんは「猩々蠅」で、辛抱強く「おふざけ」を続けていたのに。無意味だから国家は延命するのか。それは頭と体の分裂が無意味だからか。国家は延 命し、奥村さんは酒場で死んでしまった。もしかしたら、役者という職業があだになったのか。役者は生身を要するから。

 「忌臭祓い」が奥村さんの最初の詩集だった。初めて会った時、奥村さんは「忌臭祓い」一冊だけの詩人だった。引っ越ししたきり本の整理に手をつけてない ので、「祓い」の漢字がこの通りだったかどうかわからないが、政治は奥村さんに「忌臭」をもたらした。散文では書けないから詩だったのか。奥村さんは「忌 臭」を祓うことができただろうか。「いまいましさ」は最初の詩集に一番強くある。それから、少しずつお茶目やいたずらっ子が顔を出してきた。「娑婆で汚れ た人間」を演じることが上手だったのは、奥村さんが「忌臭」をオーヴァーコートのようにはおったからじゃないのか。

 初めて奥村さんに会った日、酔っぱらって、数人で奥村さんのアパートになだれこんで、続けて飲んだことがある。佐藤三千魚さんや中村登さんが一緒にいた ように覚えている。私だけが、「大岡越前」という同人誌の部外者だったような覚えがある。多分、佐藤三千魚さんの詩集の出版記念会の後で、酒場から流れて いったのだろう。飲んでいる途中で、何の話だったかまるで忘れたが、私と奥村さんが言い合いになった。激しくなるかなと思ったとき、奥村さんは、自分のア パートの押し入れを開け、たたんである布団にしなだれかかり、ライターに火をつけ、布団に火をつけようとした。誰かが奥村さんを叱って座らせた。ガソリン ならともかく、布団に火なんかつけても駄目だ。ガソリンより石油だ。火がついても、綿だけだったら、部屋にぶすぶす煙が充満するだけだ。それじゃ、けむい じゃないか。布団なんか、少し水をかけてやれば、じゅっと音をたてて消える。酒だっていいが、酒はあらかた飲んじまったじゃないか。酔っぱらいはお互い様 だが、とにかくあんたは酔っぱらいだ。
 つきあいが始まって、千曲市が更埴市だった頃に、奥村さんがうちに遊びに来てくれた。山から切り出した木を割って薪ストーブ用に積み上げてあるのを見 て、しきりに感心していた。その時は、布団のことは話さなかった。私が割と強い火をいじることは認めてくれたみたいだった。長野の冬は強い火が要るんだと いうだけのことだが。
 三里塚で、ディーゼル車にウォッカを入れて走らせたら走ったという話を聞いて笑った。ウォッカだと覚えているのは、奥村さんがロシア文学が好きだったか らで、もしかしたらディーゼル車が飲んだのは焼酎だったかもしれない。ウォッカは当然として、焼酎も強いやつなら火がつくだろう。おおざっぱなディーゼル なら少しは動くかもしれない。どっちにしても、車なんかに高いものを飲ませたものだ。だけど、そんな車はいつまでも走りはしないだろう、なぜなら、という ふうに秋の夜の議論は深まらなかった。へろへろに酔っぱらって、夜も私らもふけていったのだ。私らはその後もだんだんふけていったので、秋の夜のような気 がしていたが、あれはゴールデンウィークの春の夜だったかもしれない。奥村さんがゴールデンウィークにやってきたのは、ゴールデン街からだったかもしれな い。うちにあったのが安酒だったせいではないだろうが、ゴールデン奥村はうちでは割と静かだった。ゴールデン街で火を噴くことを日常とするディーゼル奥村 ではなかった。

 火に関してはそのくらいだった。土に関しては、私のすけべ話を「肥泥ベッド」という詩にしてくれた。私は「土というものは、人間が耕すんじゃ駄目だ。微 生物が耕して、そっと指をつっこめば、指がどんどん入るようじゃなければ駄目だ。おまんこだってそうじゃん。指をそこへ持ってくだけで、いいおまんこなら すっと吸いついてさ、おまんこだって、土だって、待ってましたあっ、てくらいなもんじゃねえとさ」とか、大きな声で演説したのだ。奥村さんの詩には、「指 が入らなきゃヤダ/根石某は傲然と言い放つのであった」と書いてあったような覚えがある。傲然と、か。ヤダ、か。奥村さんは、私がしょげると、「根石君は 男っ風吹かせるのがいけないんだよ」と言ったことがある。
 風の話は、男っ風のことくらいしか話したことがなかった。隙間風が吹き込む古い借家だったが、一万円も出してプラスチッックの池を買ってきて、庭に池を 作って、私は鮒や金魚が泳ぐのを時を忘れて見ていたことがある。金魚がどれほどエロチックかを詩か散文に書いた気がする。奥村さんは自分が勤めていた結婚 式場の部屋の名前を瑞祥だとか富貴だとか並べたて、私の暮らしを豪華絢爛アメアラレに飾り立て、詩にしてくれた。惜しみない豪華絢爛アメアラレが絶妙のア イロニーで、うれしかった。詩を読んでから、「女房と喧嘩ばっかしてるけど、どうしたらいいんだろう」と電話で聞いたら、奥村さんは、「ご機嫌をとるのが いいんじゃねえの」と言った。

 奥村さんの二つの詩は、私の名誉だ。本の整理をやってなるべく早くみつけたい。
 奥村さんは律儀な人だった。本の整理整頓が上手だった。

 奥村さんが死んだら「あの世」があってもいい気がした。そしたら、また悪ふざけしながら、げらげら笑いながら飲める。
 奥村さんよ、詩で知り合った友達が死ぬのはつらいことだとわかったよ。
 あなたが先に死んでしまったのだ。
 ひどいことだ。

09/10/30 03:06
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 以下、インターネットの掲示板その他から、奥村さんの死に触れたものを拾って、追悼としたい。私が酒をくらって書いたものなどに、ぶしつけなものも含ま れるが、奥村さんなら承知の助だと思うので、そのまま採録させてもらう。他の方が書いたものは、承諾を得る予定だが、連絡がうまくつかなかった場合は事後 承諾をいただくこととする。
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根石吉久様

いま、平井弘之からメールあり。
奥村真が先月末に亡くなったとのこと。
たいへん驚いています。

 岡田幸文

(岡田さんからのメール)
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昨日、夜、岡田幸文さんからのメールを読み、奥村真さんが亡くなったと知りました。
先月末に亡くなったそうです。
松岡さんはすでにご存知かもしれませんが、一応お知らせします。
ぼうぜんとしました。

 根石吉久

(松岡祥男さんへのファックス)
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松岡さんよりTEL
岡田さんに電話したが、岡田さんも詳しいことは知らないとのこと。
奥村さんの家へ電話したが、留守電になっていたので連絡とれず。
明日(日曜)は昼間は仕事で不在、夜は在宅。
また連絡下さるとのこと。
松岡さんも知らなかったそうです。

(松岡さんからの電話を妻が受け、書き留めたメモ)
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根石吉久様

 奥村真さんが亡くなられたことは、全く知りませんでした。ご連絡いただきありがとうございました。
 ほんとうにびっくりしました。その晩はよく眠れませんでした。

 それで、奥村さんのご自宅に電話したのですが、留守録になっていまして、つながりませんでした。ですから、詳しいことは全然判りません。

 友人に頼んで、奥村さんのホームページを開いてもらい、ホームページの最終更新日を調べてもらいました。9月9日が最後だということでした。
 ぼくのところへ、奥村さんから「資料集」の継続購読費が振り込まれたのは、8月29日です。それにメッセージがありました。<<「怪傑ハリ マオ」ありがとうございました。シャキッとしました>>と書いてありました。

 なにかわかりましたら、知らせていただければと思っています。

                           松岡祥男拝
(松岡さんからのファックス)
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松岡さん

 昨夜、足立さんとスカイプでつないで話していて、松岡さんが奥村さん宅に電話したが留守電だったことが話に出ました。足立さんとつないだまま、奥村さん 宅に電話したら節さんが出られました。

 飲み屋で喧嘩に巻き込まれ亡くなったそうです。救急車を呼ぶかと店の人が言ったが、奥村さんは要らないと言い、店の奥で寝ていたそうです。あんまり静か なので店の人が行ってみたら亡くなっていたそうです。
 9月26日だったそうです。
 私は聞き漏らしたのですが、節さんが「青梅」と言っていたと、後で足立さんが言いました。青梅の飲み屋だったらしいです。荻窪に家を買った後、四日市の 家を処分して、青梅にも家を買ったとは足立さんから聞いていました。節さんも、週末は夫婦で青梅に行くようになっていたと言っておられました。節さんは今 は一人で荻窪におられるそうです。
 荻窪の家では、奥村さん夫婦と奥村さんのお父さんで同居されていたことは知っていました。その後お父さんが亡くなられたことも知っていましたが、いつ だったか思い出せませんでした。スカイプでつないだまま足立さんと一緒に奥村さんの日記を読んでいて、去年の春頃お父さんが亡くなっている記事を足立さん がみつけました。今年の8月の日記に、節さんの姪の子供が乗っている乳母車を奥村さんが押している写真がありました。うれしそうな笑顔でした。

 その後、足立さんとつないだまま、岡田さん宅に電話したら山本さんが出られました。岡田さんは、新しく詩集を出した人の会で横浜だとのことでした。足立 さん、山本さん、私の三人でだいぶ話しました。日曜夜は、松岡さんが在宅だと女房から聞いていたので、松岡さんともつなごうと電話しましたが、お忙しい様 子でした。

根石吉久

(松岡祥男さんへのファックス)
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足立さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2009年10月17日(土)21時29分31秒

時間あったら、今日、0時頃、スカイプで話したいですが・・・
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詩人奥村真さん逝去。 投稿者:足立和夫 投稿日:2009年10月17日(土)22時39分18秒

岡田幸文さんの日記から引用。

聴無庵日乗53(奥村眞、逝く)

 昨夜、平井弘之から「奥村眞が9月末に亡くなった」とのメールあり。たいへん驚き、かつ無量の思いに襲われる。それから、根石吉久に知らせる。
 以下、二点を転載する。ひとつは、かつてミッドナイト・プレスの掲示板に書き込まれたもの。もうひとつは、彼のHP「猩猩蠅」に書かれたもの。内村剛介 の死(09.01.30)は、彼にはこたえたことだろう。
 ご冥福をお祈りします。合掌。

  *

No.963 お詫び 投稿者:奥村眞 2008/10/27(Mon) 15:26:16
10月19日「マダムシルク」での集まりに、出席の葉書を出したのですが行けませんでした。実は二時間ほど前から近辺をうろついてはいたのです。前前日か ら新宿で飲んでおり、そのまま池袋へ行きました。シルクは以前から知っているのですが何分常時酩酊しており、日中は皆目見当が付きませんでした。近隣住民 に尋ねながら、ほとんど近づいていたはずなのですが、とうとう到着せず、誰か知った人の姿をと探したのですが、誰の姿を見ることもかないませんでした。前 々日から盛り場を徘徊していたため、案内状もなく携帯電話もなく、時間もあるいはズレていたかも知れません。数時間うろついたあげく、また新宿に舞い戻り ました。正しい酔いどれをと心がけているつもりなのですが、年年歳歳度し難いアル中に成り下がりつつあります。謹んで諸兄姉にお詫びするものであります。 早々不一。奥村拝。

No.964 奥村眞様 投稿者:岡田幸文 2008/10/28(Tue) 08:00:06
ご丁寧なおことばに痛み入ります。マダムシルクはかつての場所から新しい場所に移転しました。酩酊しながら池袋の街を彷徨う大兄のお姿を思うと、なんとも 申しわけなく、お会いできなかったことを残念に思います。池袋まで足を運んでいただき、ありがとうございました。いつか再会がかなう日の近いことを願って います。どうぞ、お元気で。

  *

誇り高き生(内村剛介さん追悼)  奥村眞

 一月三十日に内村剛介さんが亡くなり、六日が告別式だった。三十年前に初めてお会いし、以降随分お世話になったものだから末席に参列した。喪主を勤めら れたご令嬢は内村さんそっくりの風貌で、簡潔にして明快なご挨拶もまた、故人を彷彿とさせた。

 初めて内村さんにお会いしたとき、現在の私とほぼ同い歳だった。クロンシュタット叛乱の年、大正九年生まれの故人は、私の亡き母と同い歳である それを 思えば慄然とする。あの時の内村さんと、今の私で同じものといえば、髪の白さだけだ。畏怖すべき存在だったにもかかわらず、多くの後進たちに対すると同 様、不逞にして且つ不肖の弟子たる私にさえも、数多の資料をプレゼントしてくださり、不逞にして且つ不肖の弟子はそのほとんどを反古にした。

 学のない私にとって学恩に報いることなどできず、思い出すことといえば、時折り付き合ってくださった酒場での話ばかりだ。エリートは学校でいい目を見た んだから、社会へ出たら安い報酬で働けばいいんだ、というようなことを言えば、私なんぞが身を乗り出して欣喜雀躍するだろうことも、先刻ご承知だった。

 酒席は楽しかったが辛かった。何故ならば早口の栃木弁に、栃木訛りのロシヤ語が頻繁に混じるからだ。師のロシヤ語を栃木訛りと感じたのは、われわれ不肖 の弟子だけかと思ったら、哈爾濱学院の後輩で、恵雅堂出版社長・麻田平草氏も、追悼文で同じ表現をなさっていたので安堵した。

 その追悼文のなかで麻田氏は、発疹チフスで動けなくなった先輩・梶浦智吉氏に付き添ったため、以降のシベリア抑留を余儀なくされた内村さんの、「見て見 ぬふりができない生き方」に触れているが、同様の思い出がある。

 夏の合宿と称して熱海で数泊したあと小田急で新宿へ帰る折、ビールを飲みすぎた不肖の弟子は、最初微かな自然の呼び声がしたと思ったら、次第次第に自然 からしきりに呼ばれ、雪隠のない車中で脂汗を流し始めたが、自然からの呼び声が耳を覆うようになると、止むを得ず独りで途中下車するむね告白した。不肖の 弟子仲間たちの見解は我慢しろというものだったが、そのとき師はきっぱりと、「我慢するのは苦しいものだ。みんなで降りよう」と主張してくださり、私は独 り取り残されることなく、小田急途中駅のベンチで皆と一緒に和やかに爽やかに、次の列車を待ったのでした。


 想い出すことは多い。破顔哄笑する師の顔が浮かぶ。

 (2009.2.21)
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いま、職場です。 投稿者:足立和夫 投稿日:2009年10月17日(土)22時44分2秒

根石さん。
明日の夜おそくなら大丈夫です。
あと月曜日の午後から夜中まであいてます。
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足立さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2009年10月18日(日)02時32分48秒 編集済

 奥村さん死んじゃったこと、足立さんが知っていればひとまずいいんです。
 9月に松岡さんに会いに土佐へ行ったけど、夜中の2時頃、奥村さんが生まれて育った四日市で、ラブホテルみたいな満艦飾のどでかい工場を見た。まさか、 奥村さん、その一週間後に死んじまうなんて。

 思い出すこと、少し書いておきたい。

 初めて会った日、奥村さんのアパートへ佐藤さんや中村さんと行った。みんなよれよれに酔っていて、佐藤さんが、奥村さんは朝鮮語もアイヌ語もぺらぺらだ と言った。奥村さんは少し困ったような顔をした。奥村さんは、東大を受けるつもりだったけど、機動隊が安田講堂に水をぶっかけた年で、東大は入試をやらな くて、早稲田に入ったんだと誰かが言った。「えっ、奥村さん早稲田なの?」と俺が言ったら、奥村さんは即座に「俺の女房は学芸大だよ」と返事した。やかま しい、学校の話なんかという口調だった。含羞の強い人だとすぐわかった。その後は、この野郎とか言って、俺は奥村さんの肩を揉んで痛がらせた。

 奥村さんが、うちの娘が高校生のころ、うちへ遊びに来た。俺は聞いていないか忘れたのかどちらかだが、うちの娘によると、奥村さんがうちの娘に言った言 葉があるそうだ。
「千代ちゃんはいい子だ」
 と奥村さんはうちの娘にしみじみと言ったそうだ。
 その後、やはりしみじみと、
 「だけど、千代ちゃんは、人に馬鹿にされると思う」
 そう言ったそうだ。

 あの人は全部見ていたという感じがする。
 黙っていたことがものすごい量だった気がする。
 含羞が強すぎた。

 いつも盛り場をうろついていた。
 新宿が好きだった。
 俺は奥村さんと池袋のデパートで待ち合わせたことがある。昼日中、奥村さんはデパードの入口で鞄を抱えて横になって寝入っていた。人が気持ち悪そうに奥 村さんを避けて通っていた。「奥村さん!」と呼んでも、生返事でちゃんと目をさまさないから、体を揺さぶって「奥村さん!」と言うと、めんどくさそうに目 をさました。夜中ずっと新宿にいて、昼間、池袋に移動して寝入ったばかりに起こされたのだからめんどうくさいのだ。めんどうくさくても奥村さんは起きて、 それから二人でどこかへ行った。どこへ行ったんだったか。詩の雑誌の yellow book の集まりだったのか。

 奥村さんが失業中の時だったか。ある日、うちに電話があった。「あのさあ」、と奥村さんがしゃべり始めた。「ゆうべ新宿で飲んで、新宿駅でおやじ狩りに あった」と言う。「なんでまた」と言うと、「へべれけだったから、駅で若けえやつらがたむろしてるのを見て、なんか僕が言ったらしいんだ」と言う。「僕が お説教臭かったんじゃねえの」と言う。「ぼこぼこにされてさ、アパートに帰って寝たみたいだけど、なんか、痛いから起きちゃったんだよ」と言う。「僕、ど うも胸に蹴りを入れられたみたい」と言う。そこからが、奥村真だった。恋してる乙女だか、恋してる中年男だか知らないが、恋してる声で「ああ、胸が痛い」 と奥村真は言うのだった。俺がげらげら笑うと、笑うなよ、俺も笑いたくなるからと言い、もう一度「ああ、胸が痛い」と言った。

 奥村真の詩は、一度わかるとむちゃくちゃに面白いのだが、一度わかるところがなかなか難しいらしい。俺も詩集を一冊発行させてもらった。

 奥村さんは、娘が大学に通っていたときの大家さんだった。奥村さんは、自分が借りていたアパートを買ったのだった。これにも笑った。アパートの一室を借 りていた人が、アパートまるごと買ったというのだ。「奥村さん、どこに金あったの」と言ったら、「金は銀行が持ってる」と言った。借りたというのだ。借金 は、アパート収入で返していけばいいと言っていた。バブルの最終局面だったか、バブルがはじけてまもなくだったか。

 奥村さんの奥さんは、「真くんが連れてくる人は誰も家賃を払わない」と娘にこぼしたらしい。娘が毎月家賃を持って行くと、「千代ちゃんは、毎月きちんと 払ってくれてありがとう」と、奥村さんの奥さんは頭を下げて感謝してくれたそうだ。

 アパートを所有しても、アパートを借りていた時と同じ部屋に奥村さんは住んでいた。家主も他のアパートの住人とまるで同じような居住条件なのである。

 娘が大学に行っていて、奥村さん所有のアパートの一室を借りていた頃、普段、奥村さんは朝帰りだったようだ。朝になると、なんとか自分が所有し自分で借 りてるようなアパートに帰って来る。そして、自分の住んでいる部屋の窓を叩き、「節さん、節さん、入れてよ」と哀願するのだそうだ。節さんは奥村さんの奥 さんの名前だ。アパートの住人みんなに聞こえるように、家の外で奥さんに甘えているのだ。「ねえ、ねえ、節さん」と窓の外から奥さんに哀願していたそう だ。「入れてよ」と哀願する。

 奥村さんのやることは大笑いできることが多かった。役者なのだ。後年、実際に役者になって、映画「釣り馬鹿日誌」の鯉太郎の友達のお父さんの役をやると 電話で聞いたことがある。奥村さんの生身を知っているので、いまさら役者の奥村真を見てもしょうがねえと思って油断していたら死んじまった。俺が油断して る間に死ぬのかよ。俺は、奥村さんにはいつでも会えると思っていたのだ。いくつか、映画やドラマにも出ているようだと思って、少し安心していたのだ。奥村 さんの出た映画もドラマもひとつも観ていない。

 奥村さんは会社員をやって失業し、その後、昔一緒に暴れた仲間と会社を起こしたことがある。コンピュータのプログラムを作る会社で、奥村さんは副社長 だった。「副社長って何やるの?」と電話で聞いたら、「えばっていればいいんだ」と言う。「そんなの奥村さんやれるのかね」と言ったら、「だって、うちの 会社の若いやつらは、短パンはいて、夕方になると出社してきたりするんだ。そういうのを取り締まるわけよ」と言っていた。何が「取り締まるわけよ」かと思 い、大笑いした。
 その時の電話だったか、「根石君、うちの会社の株買わない?」と言った。いい会社ですかと言ったら、「知らないよ」と言った。「俺が買う分の株なんてあ るんですか」と言うと、「株券なんて印刷屋に頼めば、いくらだって刷れるもん」と言った。大笑いして、奥村副社長のいる会社の株は買わなかった。
 「今日、労働争議があってさ」と奥村さんは続けた。「俺は副社長だろ。社長とか部長連中を集めて、先日、経営者会議をやったんだ。労働組合のやつらがど んな要求をつきつけてくるのか、あらかじめ予想して対策を練っておかなきゃならねえわけよ」と、副社長は言った。今日はさ、労働組合の集まりがあってさ、 経営者どもがどれだけ俺たちを搾取しているかを明らかにし、どう糾弾するかってのが議題だった。俺はさ、経営者会議にも労働組合の会議にも出たわけ。俺だ けじゃねえんだよ。労働組合の会議に出て、顔ぶれを見回したら、先日の経営者会議の顔ぶれとまるで同じなんだよ。みんな忙しいんだよ、と奥村真は言った。 大笑いだった。コンピュータプログラムがよく売れて、その業界が景気のいい頃だった。

 奥村真には、いつも失業者の高貴さがあった。会社勤めをやっていても、副社長をやっていても、奥村真の高貴さは、失業者の高貴さだった。何にせよ、ゴー ルデン街。とうとうべだったか、奥村さんに連れていってもらって、朝まで飲んでいたっけ。悲惨にして滑稽、滑稽にして悲惨をやっと抜けて、照れのない文章 を書き始めたと思ったら死んでしまうのか。奥村さんよ。

 寝た女の顔を忘れることはよくあるが、奥村さんのさえない顔は、俺の前にいつでも浮かぶ。いつもよれよれの背広を着ていた。かっこよくしていた奥村真は 見たことがない。本質的にお洒落なんだ。いつでもさえない古着みたいなよれよれの背広を着て、昼も夜も暇さえあればその辺をうろうろうろついていた。野良 犬の気持ちがわかる人だった。血統書付きの犬の気持ちなんてものもわかるが、いつでも野良犬の気持ちに戻ってしまう。高貴さをまき散らしうろつく。だけ ど、奥村さんの高貴さを理解するのは、松岡祥男が言う「普通が偉い」を理解するのが難しいのと同じくらい難しい。

 奥村さんよう。
 安らかなれ、だよ。
 死にやがって。

 ひとまず、これから、外にでて、線香に火もつけず、そのあたりに漂っている奥村真に手を合わせてくるわ。俺が飲んで手を合わせても、奥村さんなら怒らな いから。何かの拍子に、墓の前に俺が行って、線香の煙を立てたりしたら、「俺の女房は学芸大だよ」って返事してくれるような気もしてるし。

 足立さん、明日の夜あたり、缶ビール片手に、奥村さんの話をしたいです。
 何時頃からならいいでしょうか。
 俺は、9時ころになれば仕事が終わります。
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奥村さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2009年10月18日(日)03時11分15秒

庭に出てみたけど、奥村さんがどこにいるかわからなかった。
長野は、天空が晴れていて、星が出ている。
回りの山は、霧で曇っていて見えない。
しょうがねえから、「颯馬の木」とうちで呼んでる木に手を合わせてきた。
颯馬ってのは、うちの孫の名前だよ。

これから、缶ビールロング缶、三本目。
おろおろさせやがる。
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根石さん 投稿者:足立和夫 投稿日:2009年10月18日(日)03時39分54秒

明日というか、もう今日ですね。
夜10時半ころから、奥村さんの話をしましょう。

>庭に出てみたけど、奥村さんがどこにいるかわからなかった。

いやあ、きっと新宿か池袋で横になってるか、徘徊していますでしょう。
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足立さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2009年10月18日(日)03時42分56秒

>いやあ、きっと新宿か池袋で横になってるか、徘徊していますでしょう。

 徘徊か。
 そうだよね。
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根石さん 投稿者:足立和夫 投稿日:2009年10月18日(日)03時44分2秒

あれ、月曜日の夜なのかな。
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足立さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2009年10月18日(日)04時06分22秒

大丈夫です。
私はしっかりしています。
日曜でも、月曜でもいいです。

スカイプで奥村さんを呼びたいけど、スカイプ名知らない。
岡田さんがスカイプやってたらいいのにと思うけど、スカイプ名知らない。
松岡さんは、ネットは拒否してる。俺等の年代にとっては、コンピュータなんてワープロ専用機なんだ。基本的にそうだ。

まあ、足立さんと二人でもいいや。

スカイプから一般電話につなげることはできるから、俺、あちこちの電話呼んでみる。
山本かずこさんは、あんまり奥村さんとソリが合わなかったみたいだが、山本さんちにもスカイプから呼んでみようと思う。
多分、松岡さんは家にいると思うので、松岡さんからも奥村さんの話が聞けるかもしれない。
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根石さん 足立さん  投稿者:吉 投稿日:2009年10月20日(火)01時15分34秒

根石さん、足立さん、
ご友人、奥村さんのご逝去を悼み、ご冥福をお祈り申しあげます。
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吉さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2009年10月24日(土)03時30分53秒

 お心づかいありがとうございます。

 素読舎応援団会議室でお話した通り、私の友達は酒場で喧嘩で死にました。
 救急車を呼ぶかと店の人が言ったのに、私の友達は「要らない」と言って、店の奥で寝ていたそうです。あんまり静かなので、店の人が見に行ったら、死んで いたそうです。

 普段はふらふらと盛り場を飲んで歩いていた人ですが、承服できないものは絶対に承服しない人でした。

 冗談ばかり言っていた人なので、奥村さんの死は奥村さんの冗談じゃないかという気持ちが去りません。
 でも、奥村さんの奥さんに電話して確認しました。奥さんが、奥村さんが死んだことを言ったので、冗談でないのがわかりました。でも、まだ気持ちが納得し ていません。

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(以上、いくつかの日付のある記事は、掲示板「大風呂敷」から。http://8100.teacup.com/ooburoshiki/bbs)
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奥村真さんが亡くなられました。
白玉庵のひととき   22:34

 9月の終わりに奥村さんが亡くなっていたということを、10月16日の夜に知りました。

 お酒が好きだった奥村さん。一度、池袋でカラオケにも行きました。酔っぱらっていたのに、ものすごく上手でした。わざとリズムをずらして歌っていました が、見事なずらしかたでした。でも、わたしは奥村さんがうたった曲のことは覚えていないのです。

 そのとき「最近、お芝居もやっている」と言ったようでした。テレビや映画にたくさん出ていたのですね。知らなかったわたしはひとつも見ていません。あの 奥村さんですから、任侠映画ならきっと地で演じられたようにも思います。一度くらい見て、感想を伝えてみたかったです。

 わたしは詩人の奥村さんしか知りませんでした。ミッドナイト・プレスにはよくつきあってくださいました。ずっと、「詩の雑誌midnight press」も定期購読してくださいました。義理堅い人でした。以前、町屋でミッドナイト・プレスの詩のイヴェントがあったときだったか、奥村さんから 「山本さんは演じている人だね」と言われたことがありました。わたしは忙しかったのと、(そのときは)意味がよくわからなかったのとで、笑っただけで何に も答えませんでした。それから、スタッフの一人として忙しく右へ左へ動いているわたしを椅子に座って見ていた奥村さんが「山本さんって、意外と足が太い ね」と言うのでした。それを何度か言いました。ちょうどよく足が見えたのでしょうね。

 わたしは忙しくしていたので(ほんとうのことでもあったので)、そのときも笑っただけで、何も答えませんでした。奥村さんは手持ちぶさただったのでしょ うか。わたしに声をかけて、遊んでいたようです。

 ほかの人からみると奥村さんはとても過激な人だったようです。でも、その奥村さんに「山本さんは実は過激なんですよ」というふうなことを書かれたことが ありました。たしか、アフガニスタンでタリバーンのことが話題になっていた頃のことです。わたしは、その国の問題はその国の人たちが解決すべきだと思って いるので、よその国の人間が手を出すのはおかしいと書いたことがあったからです。「タリバーンは悪くない」とも書いたように思います。

 超過激だといわれる奥村さんから「過激だ」と言われたことは、どこかで同類と思われていたのでしょうか。いやではありませんでした。

 どうしてなのか理由はわかりませんが、奥村真さんの詩集『かまいたち』(「編集工房向う河原」出版 根石吉久発行)は、いつもわたしのまわりに置いてあ りました。詩集のコーナーではなく、料理の本や着物の本のなかにあるので、いつか正式に詩集のコーナーに持っていこうと思いながら、1988年の制作なの で、21年間もそのまま料理の本や着物の本のなかにあったことになります。

 この詩集のなかから、一篇紹介させていただきたいと思います。


「かまいたち」  奥村真

屋上だけ見える場所に、ひとかどの人物が立つ
青竹を踏みつけ、ひとつぶの種を撒く
アンテナを水で打ち、えんどうが巻きつく
アンテナに富士が寄り添い、その右手に鳥居は生える
折れたビルの芽が伸びはじめ、係長はひとやま当てる
サンダル履きで定位置に立ち、なかほどから全員が見える
淀橋ですっぱだかになる替わりばんこ雲が侵入する
雲に紛れ、太陽は窓際を占める
上の階ほど太陽はふえるし雲もまたふえる
間仕切りをはずせばすっぽり納まるはずだとたまにひとこと発する
係長はサンダル履きのままでひといきいれたというのである
ひとくせもふたくせもあるがままのすっぱだかになったというのである
だれそれがいったいどこそこへいれたままだかえってこないのである
だれそれのおもわくなどいったいぜんたいだれかれとなくかりがなくのである
屋上だけ見える場所から右前方にまっぴるまのネオンはぐるぐるまわる
折れたビルの地下洞窟で顔じゅうの紐をほどく
サンダル履きですっぱだかになるその右手に鳥居は生える
雲のことしか念頭にないふりをして太陽は窓際を占める
雲のひけつをひとつ聞いておこうと富士が寄り添う
ひけつを聞けば気は晴れるひとかかえ洗濯物を受け取る
ひとかかえをすっかり屋上に干しおわって、ひとくさり
打ち水おわってひとくさり
すっぱだかになったといってはひとくさり
顔じゅうの紐を引き締めてまたひとくさり
ひとかどの人物にとって欠くことのできないひとくさりのあとである
さしつかえなかっったら、ニコニコッと切り出すひとかどの人物である
さしつかえなどロクになかったから
名刺のウラにチョコチョコツと書く
社長に金を貸してやる。


奥村真さん、享年60歳。ご冥福をお祈りいたします。
過激で義理堅かった奥村さん、長い間おつきあいくださり、ありがとうございました。
猩猩蠅 奥村さんのHPです。

*9月26日に亡くなられたそうです。 

(山本かずこさんのブログ「白玉庵のひととき」から。http://d.hatena.ne.jp/shiratama-an/)

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先月末から今月にかけて、なんだかバタバタしていました。

祖父が入院したり、じ〜じの友人で私が大学時代にとてもお世話になり、大好きだった詩人のOさんが、新宿の酒場で喧嘩に巻き込まれて死亡するという出来事 もありました。

祖父は、無事退院し現在は静養中です。
祖父が入院してわが家がバタバタと過ごしていた頃、Oさんは亡くなってしまいました。

Oさんは、私が大学生の頃のアパートの大家さんでもありました。
猫とお酒と歌が大好きな、優しすぎるくらいに優しい人でした。

風呂なしの部屋に下宿していた私は、アパートの1階に暮らすOさん夫妻のお風呂を借りたり、夕食やお酒をご馳走になったりしました。

私が遊びに行くと、いつもウキウキした様子で「さあ、あがって下さい」といいながらお酒を出してくるのでした。

奥さんのSさんは、とてもお料理の上手な人で、いつも美味しいおつまみを出してくれました。
そして、「Oは、若い人が遊びに来てくれるとすごく嬉しいんですよ、また遊びに来てやってください」と言ってくださるのでした。

Oさんご夫妻は「O君」「Sさん」と呼び合う仲で、二人が名前を呼び合うのを聞くのが私は大好きでした。

時折、お二人がお出掛けするために玄関から出てきて、アパートの前と脇にある小さな花壇を眺めながら、「この木は今年実をつけたね」とか、「花がいっぱい 咲いたね」などと話す声が2階に住む私の部屋に聞こえてきました。

おうちに遊びに行くと、Oさんがたくさんおしゃべりをして奥さんのSさんはあまりしゃべらないのだけれど、花壇を眺めながらの二人の会話では、奥さんのS さんがたくさんOさんに話しかけていました。
私は、その二人の話し声が聞こえてくる時間が大好きでした。

東京から長野に帰ってきてもう6年。
子供もうまれ、日々の自分の暮らしに精一杯で全く会いに行っていませんでした。
いつかまた、いつでもまた、会える、そんな風に思っていました。

突然の出来事に、まだ心がついていけていない感じです。
いい大人なのだからと平気な顔をしても、ふとしたときに記憶が蘇ると涙が止まらなくなります。

そうして、私が私の思っていたよりもずっとOさんのことが好きだったのだなあと知るのです。
人が意識の上で把握しているつもりの「自分」なんてものは、とても表面的な部分でしかないのだなと感じさせる出来事です。

Oさんはお空に行っても、やっぱり大好きなお酒を飲んでいるのかな。

またどこかで会いましょう。

なんだか私は、また会える気がします。
そしたら、また一緒にお酒を飲みたいです。

20代前半の5年間という短い時間だったけれど、優しくて柔らかな心を持ったOさんご夫妻のすぐちかくで暮らせた幸せに、とても感謝しています。

(根石千代のブログ「雑貨屋 子子子(こねこ)の日々」から)http://ameblo.jp/konekonekone/
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奥村真さんが亡くなられました。 2
白玉庵のひととき | 20:37

 奥村さんのことを私ごときが書くのは、やはりいけないと思ったりしていました。

 たとえば、一緒に行ったカラオケで歌ってくれた曲名も覚えていない者は、そのことについて書く資格がないように思ったりしたのです。

 それで、先日この「白玉庵のひととき」に書かせていただいたことを、消してしまおうと思いながら、日にちが経ってしまいました。

 それでも、奥村さんの名前で検索されて飛んでくる方にとっては、奥村さんのHPをごらんになるだけでもいいのかもしれないと思いながら、日にちが経って しまいました。

 私は、根石吉久さんが書かれた奥村さんの思い出を読んだとき、奥村さんのことをなんにも知らなかったことを、あらためて知りました。

 根石さんの文章を読んで、私は奥村さんのことを知りました。やはり、私ごときが書くのはいけないと思ったりしました。

 根石さんの文章を読んで私は奥村さんの死を心底悲しんだのでした。

「大風呂敷」という掲示板に書かれた根石さんの文章です。宝石のような文章だと思います。


(山本かずこさんのブログ「白玉庵」から)
(根石が10月18日「大風呂敷」に書いた文の引用があるが、重複を避ける。)

註(根石) その後、山本さんと電話で話し、奥村さんの詩集が料理や着物の本と二十年以上も一緒に過ごしたと知ったら、奥村さんは喜ぶと思うよと言った。
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ぶどうありがとうございます。
私の日常が戻るにつれいろいろなことが思われます。
残った猫2匹に助けられているようです。
ご家族のみな様によろしくお伝え下さい。

 平成二一年一〇月二〇日

(奥村節さんからの葉書)

・註(根石) もうろうとしてるとき、節さんに葡萄を送るように女房に言ったことは覚えている。奥村さんが生きているときに食べた葡萄と同じ木になった葡 萄だと思った。節さんに向かって何を書いても駄目な気がして、書いたものを添えず葡萄だけ送った。
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根石さま

 私からのFAX、自由に使ってください。
 私は根石さんを信頼していますので、断わりは全く必要ありません。
 
 その後、奥村節さんから、お手紙をいただきました。
 映画の「カムイ外伝」にもしかしたら、奥村眞さんが映っているかもしれませんが、映画を見ることができませんでしたので、判りません。「カムイ外伝」で 半兵衛(小林薫)の処刑場へ、カムイ(松山ケンイチ)が救出のため馬で乗り込んでくるシーンがあり、その刑場にに詰め掛けた大勢の見物人の中の農民に、奥 村さんは扮していたとのことです。これは奥村眞さんから聞きました。
                                  松岡祥男

(いただいたファックスの文面を「快傑ハリマオ」に書く文章に引用させていただくことの承諾をお願いした。それに対する松岡さんからのお返事)
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追記

 通して読んだら、思い違いが二つあった。山本さんの足を奥村さんが見たのは、並んで座ってではなく、山本さんが忙しく立ち働いているのを、奥村さんが椅 子に座っていて見たのだ。これは山本さんの文章にあるから間違いない。うちの娘は奥村さんが新宿で死んだと思いこんだらしい。私も最初そう思いこんだ。奥 村さんは新宿が好きだったから。節さんにかけた電話で、節さんが青梅と言っていたと足立さんが聞いた。足立さんの聞いた通りであれば、奥村さんは青梅の酒 場で死んだのである。


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