ニャンニャン裏通り・出前版


松岡祥男


(1)

松 長野の根石さんから何か書けと云われて、すぐに「やってみます」と答えたんだけど、ほんとうに書けるかどうか。

猫 安請け合いするからだ。

松 
うん。業務的だったら書けるけど、あらたまって書くとなると、どうしても助走がいるんだよね。それで、その助走の過程では、やたらと用事をつ くって、庭の木を伐ったり、草を引いたり、本を片づけたり、いろいろな雑用をやって、その気になるのを待つ感じだね。

猫 
まるで作家センセイみたいじゃないか。

松 
やっぱり怠け癖がついているんだろうな。依頼がないと何もしないからね。それで、狭い庭なんだけど、金木犀、ヤツデ、山吹、桃、椿、柿、楓、 南天、月桂樹、雪やなぎ、沈丁花、それに枇杷まで所狭しと植わっている。普段はほとんど手入れなんかしないんだけど、こういう時になると、にわかにがんば るのさ。

猫 
どうでもいいけど、わしらはいまもさまざまな迷蒙に取り囲まれている。その制約からちっとも自由じゃないぜ。また、この迷蒙を打ち破ることは 難しい。けど、これを社会風景のひとつとみることも、それを批判することもできる。最近の政治的な動きでいえば、民主党の代表だった小沢一郎が政治資金を めぐる「不正」ということで、辞任した。まあ、小沢はそれを認めたわけじゃない、政治情勢的に退いただけだ。云うまでもないが、国家が発生した段階から、 「政治とカネ」、その運用と活動のための資金ということはつきまとっている。税金だってそうだ。戦国時代ならそこら辺の村を襲って掠奪してだろうし、貢物 という形をとった時もあるだろう、また郷党が供出する場合もあるだろうな。今回の場合、小沢の公設秘書が逮捕されて、あたかも「不正」がなされたかのごと く喧伝されたが、小沢はその圧力に抗してよく頑張ったな。

松 
だいたい、マスコミから世間までそうだけど、嫌疑や容疑の段階からすぐに、被疑者は犯罪者であるがごとくみなすからね。ひどいものさ。政治資 金についての現行法に照せば、小沢に落ち度があったとも、逸脱があるともいえないと思ったな。それなのに、他党やマスコミは「充分な説明がなされていな い」などと批判してた。バカ! 政治活動資金をめぐって明確に答えられる者など誰一人としているはずがないよ。だから、下手に口を開けば墓穴を掘るに決 まっているさ。労組からの政治献金は良くて、企業献金は悪などということはないのさ。また、資金無しに活動することは誰も不可能さ。そうだろ。生活するに したって、金が無けりゃたちまち干上がるよ。

猫 
霞を食って生きてる仙人ならともかくな。

松 
おれは、この小沢降ろしは周到に準備されていたような印象を持ったね。ゼネコン内部ではB級の西松建設、おれは昔建築現場で働いていたから、 西松建設の現場で仕事をしたことが何回もある、一現場労働者というところからでも、その工事内容や現場環境などから、その建築屋がどんなレベルか実感的に わかるよ。
 逆の滑稽なケースもあったな。ゼネコンナンバー1の鹿島建設の高知営業所が売上を伸ばすために、パチンコ屋だの、モーテルだのに手を出して、手痛い目に あったのを目の当りにしたこともあるよ。常識的にいって、こんな仕事は地元の顔利きの仲介や、あるいは日頃施主と付き合いのある地元業者がやる仕事だろ。 馬鹿な営業がそんなものに手を出して、仕事を取ったあげくに、やれ設計変更だ、やれここが気に入らないなどとクレームをつけられて、工事は大混乱。工程は 目茶苦茶になって、工期は遅れるし、現場は泥沼化した。出入り業者のおれらも大変さ。それで、何をやっているかといえば、会議、会議の連続だ。バカじゃね えのって思ったね。それでとうとう高松の四国支社から幹部が派遣されたんだけど、結局大赤字になり、現場責任者は小笠原へ飛ばされた。まあ、小笠原行きっ てことは、実質辞めろってことだろうが、関係者はみんな左遷されたね。それでも、大手は金があるから、潰れるようなことはないけどよ。ダムやトンネル工事 みたいなでっかい公共工事となると、資金力からいっても技術力からいっても、大手ゼネコンじゃないと、担えっこない。それでなんとなく棲み分けができてっ たんだ。それを越権するからこういうことになるのさ。いまは知らないけどね。なにしろ、防衛大臣も歴任した現役議員を擁する高知の有力建築屋が倒産したく らいだから、小泉内閣の構造改革路線は凄まじいものだ。公共工事が極端に減ったんで、潰れた土建屋は数知れずさ。商店街が軒並シャッターを降ろしたように ね。そして、これだけ人々に犠牲を強いて国家の赤字解消を目論んだ小泉改革は、それにつづいた無能の安部、福田の政権投げ捨て、アホの麻生まできて、元の 木阿弥の旧態の政治構造に舞い戻ってしまった。結局、何も変わらず、泣きをみたのは社会の側だけって寸法さ。
 話をもどすと、まず西松建設の海外での利益のプール分の秘密裡の持ち込みが摘発された。そんなことはどこでもやっていることじゃねえのか。それで西松= 不正ゼネコンというイメージが流布されて、その敷設のうえに、今度は西松の政治団体の政治資金の提供が問題にされたのさ。それで小沢の秘書だけ逮捕され て、同じように西松から献金を受けていた自民党の議員はお咎め無しだからね。これを穿っていけば、その政治意図と隠れた小沢降ろしの黒幕の所在が浮びあが るかもしれない。でも、おれは自民党も民主党もその他の政党も大差ないと思っているから、そんなことはどうでもいい。ただ、こんな茶番劇で大衆を騙すな、 といいたいだけさ。

猫 
「定額給付金」だって、そうだな。莫大な経費を使って、集めた「税金」をばらまいただけだ。まあ、それでも、国連の同意も支持もない、一方的 な言いがかりのアメリカの「ブッシュの侵略戦争」に加担して、イラクのサマワに自衛隊を派兵し、無意味に「税金」を水のようにオリエントの砂漠に撒いたよ りはましかもしれないけどよ。田中真紀子の言によれば、一日一億円ってんだから、半端じゃないぜ。

松 
おれ、派兵にあたっての自衛隊中堅幹部の決意表明をテレビで見たよ。「イラクの曙のために寄与します」ってね。なにが「曙」だ。何もわかっ ちゃいねえ。イラクの固有性も、歴史の段階性も、自分たちがどうふうに動かされているかも、なにも判らず、何も知らず、命令に従っているだけだ。なにが 「寄与」だ。憲法違反のうえに、無益に金を使ってアメリカに追従し、駐留しただけだ。

猫 
でもな、その本質が命令で動くだけの殿中女中だとしても、実際の現場では誤作動を超えて、意志的に振舞うからな。街頭デモで対峙した時の機動 隊がそうであったように、憎しみをもって行動するぜ。やつらは指揮者の命令を逸脱して暴走することだってある。デモ隊へのリンチ暴行、ただの通りすがりの 市民にだって暴行を加えていたからな。本来はしがない公務員でも、残虐な集団意志はいつでも付随しているぜ。また組織のキツイ上下支配の鬱屈の転嫁、その 憂さ晴らす側面もあるからな。だから兵士だって、状況が切迫してくれば、平気で民衆に発砲するさ。ましてや馴染のほとんどない中東で、反アメリカ反政府の ゲリラ兵士や自爆テロ要員とイラクの市民の区別なんかつくはずがない。だから、サマワで呑気に土木作業の真似事をして済んだのは、一面からいえば、良かっ たのさ。これはあくまでも派兵した政府の政治責任の問題だ。

松 
「世界同時不況」とかいって、自動車産業を筆頭に「派遣」労働者や期間社員の首切りが続いているけど、これももともと小泉内閣の「規制緩和」 と称した「派遣」業種の無原則的な拡大が、労働基準法を骨抜きにして、企業が自分たちの都合でいつでも解雇できるようにしたのが大きな原因だ。政党からマ スコミに至るまで、表面的な同情のふりをするが、肝心なことは言わない。おれが聞いた話では、ある自動車メーカーは「派遣」労働者に一日の賃金を二万二千 円くらい出していたらしい。ところが、間の斡旋した「派遣会社」がピンはねして、実際に働いている労働者が受け取る日当は八千円だそうだ。その八千円から 食費から宿泊費までの経費を差引かれると、手取りは微々たるものさ。「派遣会社」は一人の労働者から一日に一万四千円もピンはねしているんだ。そんなこと は、マスコミから労組の連合体である巨大な「連合」なんか何も言わないだろ。もちろん、大企業は「派遣会社」を間にはさむことによって、雇用責任を免れる うえに、労働保障など負担も要らないし、労務管理も楽だし、どんな職場支配をやっても、労働者との直接的な雇用関係は無いからストライキをはじめとする抵 抗も起らない。それに、正規社員と「派遣」や臨時社員の待遇の格差は、労働者の分断にも繋がっているからね。おれは階級闘争至上主義じゃないけど、これを 完全なブルジョワジーの階級意志の貫徹と言わずに何をそう言うんだ。

猫 
ところがその一方で、「連合」なんか失業者を救済するために、とか言って街頭カンパを集めたりしている。わしもそうだったから知っているが、 左翼も労組も集めたカンパを何に使ったか、どこで活用したか、そんな収支報告なんてやったためしはない。全く恣意的に扱って平気なんだ。民営化が足踏みし ている郵便局の労組なんか、日本郵政が新規採用を現業部門では全くといっていいほどしない状態を容認し、ノルマの過重に対しても、企業防衛という名目に屈 服して、いいなりだ。そのうえ、採用に向けての取り組みなど一切やっていないのに、臨時職員をただ組合費を調達するために労組に勧誘している。期限がくれ ば、臨時職員はお払い箱だ。組合は組合費をとっただけで、その還元も餞別も、「ありがとう」の一言もありはしねえ。まるで詐欺じゃないか。組合に加入して 組合費を払うくらいなら、貯金した方がずっといいぜ。巨大労組の連合体は巨額の運動資金をプールしているくせに、それを一般労働者のために活用することな んか考えもしない。その殆どが政治(選挙)資金に流れているだけだ。「政治とカネ」の問題なんていうのなら、このシステムだって、ふざけた遣り口じゃない のか。そのくせ、臨時の電話相談などを開設して、さも問題に取り組んでいますってポーズをつくっているだけだ。

松 
この亀裂や矛盾や対立を隠蔽する安寧構図も考えずに、柄谷行人みたいな左翼くずれのインテリは、「世界=共和国」なんて言ってる。バカの骨頂 としか言いようがないよ。もうひとつ、愚の骨頂の裁判員制度なんかやめろ。こんなことまでアメリカ(陪審員制度)の真似をする謂れはないよ。アメリカ人と 日本人はあきらかにその精神性は違う。それを無視して、こんな制度を作りやがって。一般大衆の八割近くが嫌がっているんだ。日本人は事無かれ主義の引っ込 み思案が習癖かもしれないが、その美質だって当然あるんだ。おのれに関わりのない事件を裁くなんてできないし、やりたくないに決まってんだ。それでその裁 判の秘密を守る義務だって一生ついてまわることになっている。冗談じゃないよ。少なくとも裁判員になることを拒否する権利は絶対に認めるべきなんだ。国家 の人権拘束じゃねえか。国家が人間の上にあるんじゃない。国家はこれまでの歴史の展開と人々の思い込みによって出来上がっているだけさ。そんな国家に、こ れ以上拘束されるのも、義務を負わされるのも、ご免だぜ。

猫 
そうだな。深夜、泥酔して公園で裸になって喚いていたSMAPの草g(こいつ、あまり好きじゃないけど)のことにしても、あんなもの、諭して 家に帰せばいいだけだろ、誰に危害を加えたわけでもないんだから。それを逮捕したうえに、家宅捜索までやった。明らかに越権の不当捜査だ。ところが、テレ ビのコメンテーターは、あれで釈放が早くなってよかったなんて言ってた。人間の自由や権利、法の位置づけについて、おまえらは考え直した方がいい。腐った 口から悪臭を放つまえに。それにしても、もっと楽しい話はないのかよ。

松 
会津の友人がマンガの本をたくさん貸してくれたんで、それを読んでいるよ。島田虎之助の『ラスト・ワルツ』とか、石川雅之の『もやしもん』 とか、いがらしみきお『かむろば村へ』などだ。でも、『もやしもん』を真似ていえば、もう少しかもしてから、これらには触れたい。

猫 
マンガのことでいえば、わしなんか月刊漫画誌から週刊誌に転換するころに、読者になったような気がする。もちろん、貸本も読んだけど。まあ、 なんといっても、『少年』だろうな。「鉄腕アトム」はあまり好きじゃなかったけど、「鉄人28号」や「サスケ」だな。それと白土三平のいまは『忍法秘話』 にまとめられている短編が良かった。「寄生木」や「くぐつ返し」や「無名」などだ。「寄生木」は秘剣岩砕きという相手を刀を折って切り倒す話なんだが、な んのことはない、コンビを組んでいる忍者が相手の所に忍びこんで、剣に細工をして、刀が折れるように仕組む、それが秘剣の秘密だ。こども心にこの細工のか らくりが面白く、いまでも記憶に残っている。「くぐつ返し」は人をあやつることが白土の主題なんだろうが、赤目の観世音という女の忍者が麻薬を使って、中 毒にして操る話なんだが、けし畑が印象的だった。「無名」は白土作品では珍しく人を殺すことが主な展開ではなくて、長屋を舞台に観世音と不動の二人組と新 堂の小太郎の駆け引きが作品の魅力だ。縁側に寝ころんで熱中して読んだな。まあ、兄や友達と夢中になってやったヘボ将棋と同じだ。でもよ、近年なんだか知 らないが、大学の先生みたいなのがマンガの「学会」を作ったと聞いてるけど、マジかよと思うぜ。わしもマンガ好きだし、それに映画や文学作品と同じように 語りたいところもある。でもな、研究の対象にするほど倒錯する気はないな。大学の連中は文学の当為を持ち込むだけでは飽き足らず、マンガにまでそんなもの を持ち込もうとしてしている。だいたい「政治と文学」という主題の設定が破産してるというのに、その焼き直しでしかない「政治とマンガ」グループもあれ ば、高尚ぶって表層文化的に扱う四方田犬彦みたいな連中までいる始末だ。

松 
なあに、儲かるからさ。日本のマンガ文化は世界に輸出できる外貨を稼げる産業だって言ってるよ。高知だって、「マンガ甲子園」を毎年開催して いるし、「横山隆一記念館」だって市が作っているぐらいだ。地場産業ってわけさ。でも、これに関わっている天下りの関係者がマンガを好きとも、読んでいる とも到底思えないね。まあ、こちらも素寒貧。小説も映画もマンガも見ずに、もっぱらテレビの世話になっている貧乏人の典型だけどね。やるんだったら、徹底 的にやれってことさ。世界認識から沈黙まで包み込むようにね。

猫 
しかし、文学だってちっとも上等じゃないぜ。高知文学学校だの高知ペンクラブだのというのがあって、偉い文教族あがりの方々が集まってやって る。もちろん、おまえなんか忌み嫌われていて、お仲間に入れてもらえないだろうがな。それで、ちょっと書いたものを覗いてみると、これが凄まじい。あなた 方が文学ならわたくしは金輪際文学ではありません。もし、こちらが妄想してるものが文芸だとしたら、あなた方は百万年やっても文芸には到達しないでしょ うってぐらいのものだ。

松 
まあ、どんな言い方したっていいんだど、文学もマンガも映画もテレビドラマも、そのままで何かと思っちゃいけない。それがほんとうに作品に なっているかどうかだよ。初心ってことも含めてね。

 中学生の頃、両親が田舎に行き、私一人で東京に居た時のこと。ある夜、ムラムラと鰻 重が食べたくなった。出前を取ろうか……一人で取って食べても、何かつまんないなあ……そうだ、近所に有名な鰻屋があったっけ、あの店は出前をしないから 食べたことはないが、いつも前を通ると、いい匂いがしてくる、行ってみよう、高そうだけど。しかし、板塀に囲まれた高級そうな店だから、普段着で行くわけ にいかない。早速よそ行きに着替え、母の赤い口紅を塗り、おしろいを顔にはたき、せいいっぱい大人に見えるよう身繕いして出かけた。
 鰻屋の玄関を入ると、和服姿の仲居さんが出てきたので、もう緊張してしまった。「ご予約は?」と聞かれ、「してないんですけど、近くに住んでて……ええ と……」「おひとりですか?」「はあ……」「では、どうぞ」トントンと目の前の階段を仲居さんが上がっていくので、慌てて後をついていく。滑って転びそう にピカピカな廊下の先、小さな座敷に通された。ふかふかの座布団の上で、かしこまって待っていると、うっとりするような蒲焼きのいい匂いが、階段の下から 立ち上がってくる。(来て良かった……)。また仲居さんがやってきて、メニューを差し出した。ありったけのお小遣いを財布に入れてきたので、思い切って高 いのを注文。それから、お茶を啜りながら待ったが、なかなか鰻は出来てこなかった。(中略)
 待ちくたびれ、忘れられちゃったのではないかと心配し始めた頃、やっと鰻がやってきた。塗りのきれいな、高そうな重箱だ。「お嬢さん、何年生? 鰻がお 好きなんですねえ。今度はご家族の方もご一緒に」などと話しかけてくる仲居さんが下がるのを待ち、緊張しながら蓋を開ける。出前で食べていたのと同じ外見 だった。が、一口食べて(ああ来て良かった)、体がとろけそうにおいしかった。
 私が一人で高い外食を食べた初体験である。その鰻屋には、あれから一度も行ったことがない。高いので。                      
   (武田花「高い、高い、初体験」)

 これを読むと、鰻が食いたくなるからね。これが食欲をそそる、文芸ってものだと思ってるよ、おれは。
  (2009・5・25)



(2)


猫 村上春樹の『1Q84』を読んだそうだな。

松 うん。おもしろかったよ。

猫 
おまえ、村上春樹は『やがて哀しき外国語』あたりから『アンダーグラウンド』を頂点として、かなり批判的じゃなかったのか。

松 
そうだよ。だから、今度の『1Q84』についてもきっちりしたことを言う必要があるなと思ったんだ。おれは、彼の国際的な評価の高まりや爆発 的な売れ行きなんて、基本的には関係ないよ。そんな外在性は、加藤典洋みたいな中庸を知るご立派な批評家や、たわけた大学教授のご高説や文壇の風見鶏の無 難な俗評にまかせればいいんだ。こっちは読んだ率直な感想を基に真っ向から言いたいだけさ。なんでもそうだろうけど、映画やコンサートにしても、その時は スクリーンの中へのめり込み、あるいはのりにのりまくっていても、一旦醒めて、反芻したり、反省的な姿勢に入ると、批判的になってくる。これが批評行為の もつ陥穽さ。この作用に無自覚な連中が多すぎるよ。

猫 
ジョージ・オーウェルの『1984年』という未来小説に対して、『1Q84』という近過去小説ということらしいな。

松 
おれもジョージ・オーウェルの『1984年』は読んだことがあるよ。でも、その内容は殆ど忘れてしまっている。スターリン主義体制を痛烈に批 判したものという記憶しか残っていないね。それで本棚の奥で埃をかぶっていた文庫本を取り出してみると、「生い茂る栗の木の下で/俺はお前を売り、お前は 俺を売った、/奴らはあそこに横たわり、俺たちはここに横たわる/生い茂る栗の木の下で。」という章句に、鉛筆で印がしてあった。どうしてかは、読み返さ ないと全く判らない始末さ。

猫 
そんなんじゃ、なにを読んでも無益ってことじゃないのか。

松 
ほっとけ、なにもかも全部憶えていたりしたら、頭がパンクするよ。忘れるものは忘れてしまうものさ。

猫 
しかし、人間の脳はそこらへんのコンピューターなんか較べものにならないくらいの容量があると言われているから、たんにおまえの頭がおんぼろ で、記憶力が悪いということだな。ジョージ・オーウェルの『1984年』は1940年代の末期に脱稿ということだから、三五年くらいの未来を描いたことに なる。一方、村上春樹のは本の発行が今年(2009年)だから、二五年前の日本を描いたことになるぜ。ジョージ・オーウェルは社会主義国家の悪夢を描き、 その暗黒を告発した。そして、その官僚支配の国家体制は民衆によって否認されて、ソビエト連邦は瓦解した。その意味では、予見と批判は適中したってこと だ。まあ、スペイン内戦における社会主義勢力の欺瞞性、一国社会主義の弊害を目の当りにしたジョージ・オーウェルの痛切な体験の産物だ。そこで行くと 『1Q84』ってのは、わしらの実際に生きた現実だ。

松 
村上春樹というのは、水泳の北島やハンマー投げの室伏みたいに、トレーニングを積んでいると思うよ。これは小説を書くうえでは決定的なことの ように思えるね。それは作家稼業のプロは、みんな書く作業というのはやっているだろうが、たぶん村上春樹のやり方は違うような気がする。他の作家がじぶん の作品のために勉強したり参考にしたりしているとすれば、村上春樹というのは、世界文学の水準を想定したうえで、まさしく鍛錬しているんじゃないのかな。

猫 
だが、それが文芸の核心をなすわけじゃない。太宰治みたいに、いつも生きるか死ぬかの懸崖で、作品は一見破れかぶれみたいにみえるけど、ほん とうは作品と執筆行為の距離をきっちり測っていて、そのうえで、読者に我が事のように思わせる魅力を発揮した、文芸とはそういうものじゃないのか。

松 
おれはジョージ・オーウェルというより、作風はまるで違うが高橋和巳の『邪宗門』を思い出したよ。『1Q84』は、「青豆」の章と「天吾」の 章が交互に展開する、村上春樹得意のパラレル・ワールドになっている。青豆はスポーツクラブのインストラクター、裏の稼業は必殺仕置人。天吾は塾の数学講 師で、小説を書いている。この二人が主人公だ。それで、青豆と天吾とは小学校の同級生で、青豆の家は「証人会」(エホバの証人のことらしい)の信者で、休 日には宗教的な勧誘に連れ歩かれ、一方、天吾の方も父親がNHKの集金人でその手伝いに連れ廻される。そういう設定だ。

猫 
お前がこの話をするってんで、わしも一応読んだんだが、野暮なことをいえば、出だしの2頁目で「ヤナーチェック」に関連して、「一九二六年に は大正天皇が崩御し、年号が昭和に変わった。日本でも暗い嫌な時代がそろそろ始まろうとしていた。モダニズムとデモクラシーの短い間奏曲が終わり、ファシ ズムが幅をきかせるようになる」ってあるだろう。そうするといきなり、引っかかるわけだ。おのれがどこかに帰属せざるを得ないとするなら、これは通説をな ぞっているだけだろ、戦後民主主義風に。これは、わしや村上春樹の親が生きた時代のことだ。言うならば、じぶんと〈血のつながった歴史〉だ。で、「ファシ ズム」って言ったって、そんなもの、一般定義でしかない。日本の「ファシズム」というのは特異で、丸山真男のファシズム規定は笊でそこから抜け落ちるもの が多すぎるぜ。天皇制だって絡むし、農本主義だって基盤をなしていて、それはヘーゲルのいう歴史概念としての〈アジア〉、その専制形態でもあったというこ とだ。これはいまだ未決着の問題だ。べつに思想論文じゃないんで、そんなことはいいってことだろうが、この作家のポジションってことでいえば、そこに立ち 位置が象徴されているような気がするぜ。だってよ、当時支配的だったに違いないように〈日本でもいよいよ鬼畜米英を駆逐する大日本帝国によるアジアの曙の 時代が幕を開けようとしていた〉って言うことだって、できるんだ。つまり、いくらでも置き換えがきく、内在性の乏しい歴史認識にすぎないってことだ。

松 
いきなり、こだわるね。「歴史はスポーツとならんで、青豆が愛好するもののひとつだった」というので、さしあたっていいんじゃないか。「ス ポーツ」と同じってことでさ。青豆はアイスピックみたいものを相手の首すじに刺すことで殺害するプロなんだけど、この暗殺の対象というのが、女性に暴行を 加えたり、女性を虐待したりするものということになっている。またスポーツクラブでも女性の護身術として、金蹴りを専門に指導していたこともある。そりゃ あ、男は股間を蹴りあげられたら、悲鳴も挙げられないくらいのダメージを受けるさ。そういう設定自体、村上春樹がフェミニストだからというよりも、むしろ 女性を味方につけようとする作家的計算が働いているような気がするな。でも、女は弱いものだっていうのは嘘だからね。継母がその典型のように、女の体質的 狭量や陰湿さは凄いからね。おれも畏怖しながら、女性は尊重するにかぎると思っているさ。だから、必殺仕置人のスポンサーである「柳屋敷」の老婦人や青豆 の考え方というのは一方的だと思うよ。それで老婦人の用心棒のゲイの男タマルが云うように、そんなことには切りがない。まして、第三者が手を下す権利なん かどこにもありはしないのさ。たとえ客観的に非道の極みを尽していて、大手を振って社会に罷り通っていても、天罰を下すことはテロ行為でしかない。作者は イスラム原理主義者に嫌悪をもっているらしいけど、青豆たちもどんな理屈をつけようと、そこではテロに通底しているよ。おれは仇討ちや道連れには否定的 じゃないし、本人が報復するならいいと思う。しかし、第三者が被害者を保護して守ることと、加害者を始末することはまったく別次元のことだ。そこには何の 正当性も発生しない。だから、人類はそれを共同的に疎外して法を産出したんじゃないのか。たとえ、それがほんとうは逆立ちするものだとしてもね。まあ、テ レビの「必殺仕置人」が溜飲がさがっておもしろいように、ストーリーとしては別にケチをつける気はないけどね。

猫 
そこでは、世界がねじれて1984年が「1Q84」になり、空に月が二つ浮んでいても、何の不思議もないってことになるな。

松 
まあね。一方、天吾の方は小説家を目指しているけど、まだデビューしていない。それで匿名の記事を書いたり、小説の新人賞の応募作の下読みな どをやっている。その下読みで、ふかえりという少女の書いた「空気さなぎ」という作品に出合い、そこに優れたものを見出し、それを最終候補作に残すよう に、小松(安原顯をモデルにする)という編集者に進言するが、逆に、小松から「空気さなぎ」に天吾が手を加えて、世の中に出そうともちかけられるんだ。そ の過程で当然、原作者のふかえりという十七歳の少女と接触することになる。それによって、もうひとつの世界への通路が開かれるといっていい。つまり、月が 二つ浮んでいる世界ということになるね。ふかえりは、新左翼の毛沢東派(共産同ML派?)のメンバーの指導者格の大学教授が父親だ。その父親深田保(新島 淳良がモデルとおぼしき)らは、1960年代末期の大学闘争が敗北した後、タカシマ塾(ヤマギシ会をモデルとする)に入り、山梨県の山奥でコミューン生活 を始め、そのノウハウを習得していく。しかし、もともと革命を目指していたグループだから、そこに解消することはなくタカシマ塾から離脱し、独自のコ ミューン「さきがけ」を作る。そして、有機農法などが時代風潮にマッチし、自営コミューンは順調に発展していく。しかし、ここでも武闘派「あけぼの」が 「さきがけ」から分裂し、「あけぼの」は住民とのトラブルで警察が介入した際に、第二のあさま山荘ともいうべき銃撃戦を展開して、壊滅する。その後、残っ た「さきがけ」はいつの間にか宗教団体に変貌をとげたというのが筋書きだ。ふかえりは、そこで世話していた山羊を死なせてしまい、懲罰で土蔵に閉じこめら れたあと、父親の友人戎野を頼って、コミューンを脱出する。言うまでもなく、この宗教コミューンはオウム真理教だ。

猫 
ふかえりの書いた小説「空気さなぎ」は、「さきがけ」のことを書いた小説ということになっているな。ふかえりは読字障害があり、自分では書く ことも読むことも難しい。そこで、ふかえりが語ったことを戎野の娘(アザミ)が書き取り、新人賞に応募したものだな。それを天吾が表現的に補い、世に売り 出して、世間を欺き、一泡噴かせてやろうとする、アクの強い小松の業界的鬱屈と、「さきがけ」の内部にあって連絡の取れなくなったふかえりの両親の動向 を、外部からゆさぶりをかけて探ろうとする戎野の思惑が合致して、画策は進行する。そして、天吾の加筆した「空気さなぎ」は大ベスト・セラーになるという 展開だ。まあ、新左翼→ヤマギシ会→農業コミューン→第二のあさま山荘事件→オーム真理教というコースは実際とは違うが、社会情況的には判り易い図式には ちがいないな。

松 
天吾の父親はNHK集金人なんだが、天吾は当然それを嫌っている。もちろん、おれも好きじゃない。やつらは突然押しかけてきて、まるで泥棒を 詰るように脅迫するからね。おれの死んだ兄なんか、真面目人間だったからちゃんと払っていた。ところが、胃潰瘍で入院した。兄は独身だったから入院中は受 信料を払えなかった。そして、退院して静養していると、集金人のおばさんがやってきて、団地の二階に住んでいた兄に、「マツオカさん、NHKです。受信料 を払ってください」と下から大声で連呼したそうだ。この無礼な態度に兄は怒り、支払いを拒否することになった。やることがひどすぎるよ。たぶん、このおば さんは相手が不払いに転じたと職業病的に勘違いして、卑劣な行動に出たんだ。でも、どんな職業に就くかというのは、それぞれの事情だから、本人のせいには できない一面があるからね。だいたい、NHKという存在自体が矛盾の本体なんだ。やつらは「公共放送」という呪縛から逃れることができないんだ。それが諸 悪の根源だ。ご立派な建前に見えて、なんことはない、政府の言いなりだ。だいたい予算設定から国会の承認を必要としているし、郵政大臣の管轄の下にある。 そんなものが公正な報道なんかできっこないよ。建前に固執するほどおかしくなってくるのさ。昔は大本営発表、今はNHKの御用報道だ。郵便局に次いで民営 化されるべきなのはNHKさ。これが普通の民放と同じメディアになって誰が困るというんだ。こんなもの一般大衆は必要としていないんだから。受信料なんて ただちに廃止しろ。まあ、天吾も青豆も家を出て、早い時期から自活するようになっている。それは両方が家の抱えているものを忌避したからだ。天吾にとっ て、ふかえりは自己環境からの脱出という意味では、体験を共有していることになるね。

猫 
そこだが、同級生の青豆と天吾の二人は、家庭の事情により学校では孤立している。それでも天吾は図体がでかく、おまけに頭が良いということで クラスで一目置かれているが、青豆は孤独な少女だ。で、理科の実験でへまをやった青豆を天吾が庇う。それが唯一の契機となって、ある日、一人でいた天吾の ところへ青豆がやってきて、黙って天吾の手を強く握り、そして、しばらくして離れて行った。それが二人の決定的な邂逅であり、この物語の核心にあるものと いうことになっているぜ。でも、これはロマンチズムだよな。わしもそういう傾向あるけれど、そのシーンを生涯温めているっていうの、わからないわけじゃな いぜ、でも、それが永遠の執着を形成するというのは、どうなのかな。二人は最後まで実際に出会うことはないがな。それを心の聖域として囲いながら、家を出 た天吾は柔道、青豆はソフトボールに、その後の青春を打ち込んだことになってて、それらは日常の雑事のごとく、なぜか精神に深く食い込むことなく、現在 の、青豆の男漁り、天吾の人妻(安田恭子)との週一の不倫へ続いているわけだ。

松 
うん。「柳屋敷」の老婦人が夫の暴力から逃れてきた女性たちを匿う施設へ、つばさという少女がまわってくる。この少女は性的な虐待によって子 宮が破壊されていて、その行為をなしたのは、「さきがけ」のリーダーによるものだということが、老婦人から青豆に伝えられる。そして、そのリーダーを抹殺 するよう依頼されるという運びだ。こんな非人道的な行為をなす者は生かして置けないという論法さ。でも、宗教的祭儀において、神に幼子を捧げることは未 開・原始時代では当り前にやられてきたことじゃないのか。土俗レベルでも人身御供はなされてきた、たとえば新しい橋を作る時はその橋の元に人柱を埋めると いう具合に。もちろん、それは時代が下ると、土偶で代行されたり、祓い清めによって済まされるようになってきたんじゃないのか。それに、巫女なんてものは 神に仕える者として、そういう役割も担ってきたことは歴史的事実だ。それで時代や場面を極端に飛躍させれば、それこそ、イスラエルの一方的なパレスチナの ガザ地区への空爆や砲撃によって、少女も少年もなく殺傷されているのは、いまの現実だ。そういうふうに考えれば、このリーダーのやったとされる行為が、特 別のひとでなしの鬼畜生の所業ということにはならない。「さきがけ」が宗派なら、老婦人やそれに加担する青豆の属する共同意志も宗派的だ。どこにも義はな いよ。近代ヒューマニズムやフェミニズムが絶対というなら別だけどね。

猫 
まあな。で、ここがいちばんのポイントだろうが、要するに、大事なめくらの山羊を死なせてしまったふかえりが、お仕置きで土蔵に幽閉されてい たところ、山羊の口から七人のリトル・ピープルなるものが出てきて、ほうほうと囃しながら「空気さなぎ」なるものを造り出す。その「空気さなぎ」から、ふ かえりのドウタが誕生する。ドウタはふかえりの分身であり、リトル・ピープルのいわば通路だ。作品でいえば、ドウタはパシヴァ(知覚するもの)であり、 リーダーはレシヴァ(受けとるもの)ということだ。それによって、リーダーはリトル・ピープルの代理人となる。この神話構造(お伽話)はユング的だな。そ して、その密教的な秘儀のひとつに、未成熟の少女(ドウタ)との性行為が位置するという按配になってる。このメカニズムはよく判らない。読者はこのメカニ ズムのミステリアスで巧妙な暗号の解読をつづけるしかない。何度か出てくる作品の決めセリフでは「説明しないとわからないということは、説明してもわから ないということだ」というのが、この作者のセオリーらしいからな。

松 
そうならよ、おれらの話というのは、批評なんてものじゃないね。物語の完結性をところどころ開いてることになるよ。それが作品との対話になっ てれば、まずは申し分ないってことさ。偉い、偏屈な作家にメッセージを届けようとも、そんなものが届くとも思っていないさ。

猫 
ふかえりは深田絵里子がフルネームだ。そうすると、リーダーこと父親は深田保ということになるな。しかし、戎野の語る深田の像と「さきがけ」 の禍々しいリーダーの像、誰が読んでも麻原彰晃とは、あまりイメージとして結びつかない。断絶があるぜ。まあ、ふかえりから、『新世紀エヴァンゲリオン』 の綾波レイみたいな姿を恣意的に思い描くこともできる。そんな愉しみ方も、わしはぜんぜん否定しないけどな。それに、ふかえりとその分身(ドウタ)という のは、クローンの綾波と似ているからな。

松 
いよいよ物語はクライマックスを迎える。青豆がリーダーを抹殺しに出掛ける。ここは圧倒的な迫力で迫ってくる。いちばんの場面だ。それで、 リーダーには教団のボディ・ガードがついているんだが、老婦人の自衛隊あがりの用心棒タマルによれば、それなりの腕はもっているが、所詮アマチュアという ことだ。それで殺害の目的をもって接触することが露見した場合、捕まってリンチを受けて殺されることを避けるため、青豆は自害用にタマルに頼んで手に入れ た小型拳銃をバッグに忍ばせて行くことになる。そこで当然ボディ・チェックがあるんだが、青豆は生理用品などでそれを隠している。相手がプロなら、そんな もの一発で見破るはずだ。ところが、この目くらましにひっかかる。ここが作者の「さきがけ」という教団、すなわちオウム真理教という組織の脆弱さをついた ところだ。国家を転覆しようとする陰謀に比して、その組織体制はそれほどのものではないことをよく暗示した、スリルあるシーンだといっていい。そして、な んといっても、青豆とリーダーとの対峙は圧巻だ。

猫 
そうなると、わしらの話も終局だな。ずばり言うなら、この『1Q84』で圧倒的に魅力的な人物は、青豆でも天吾でもない。ふかえりとリーダー だ。そして、人間としてもっとも存在感のあるのは、NHK集金人であった天吾の父親(実は天吾の実の父親ではないということなのだが)だ。天吾は聡明で謙 虚な構えをしていても、ほんとうは傲慢なんだ。それは「さきがけ」の懐柔の手先としてやってくる牛河に対する嫌悪の表出に現われているような気がする。歪 んだ鏡に映ったみたいにな。これは天吾の属する比較的優位な社会的ポジションが、醸し出した偏見じゃないのか。普通に考えれば、牛河にも愛すべき妻子があ り、かけがえのない友人もいるかもしれない。それでも、牛河みたいな存在を醜悪とみなし蔑視することはできる。そんなことは自由だ。誰だって、相容れない 相手も事もあるからだ。しかし同時に、始末の悪いガキどもが、ホームレスを襲うのと同じものを孕んでいることも否めないはずだ。もっといえば、わしならわ しが天吾や青豆の居る場所に出たとすれば、同じように映るはずだ。これは自己卑下でもなんでもない。いい気になるな。この作品に陰影あるリアリティを与え てるのは、施設に隠棲した父親を天吾が訪れた時の、そこでのやりとりだ。天吾はとうてい、その人間性において、おやじに及ばない。それは作品がひとりでに 物語っていることだ。青豆だって、ほんとうは排他的で、じぶんの逆境(被虐性)をいつの間にか横柄な加虐性に転嫁しているところがあるぜ。一時男漁りの相 棒になる、婦人警官の中野あゆみというのがいるだろ、そのあゆみの心の傷を発散させようとする向日的な姿勢と較べると、青豆ははるかに屈折し、陰惨な影を 曳いているな。天吾と青豆の十歳の時の出来事は心の救済の幻影というよりも、じつは過去の呪いの深さを象徴しているとも言えるぜ。フロイト的にいえば、無 意識の荒れた青豆の人殺しの〈業〉と、天吾の性的対象を特定することができない倒錯的な〈資質〉の引き寄せの構造だ。それを陳腐にも「愛」などといい、 「愛がなければ、すべてはただの安物芝居に過ぎない」と俗受けするように安っぽく結んでいる。しかし、作者がどう誤魔化そうとも、この内実がリトル・ピー プルなる架空の表象よりも、より邪なものを内包していることは確実だ。そして、それがまた〈人間ということ〉だ、とわしは思う。

松 
青豆はリーダーを殺害する。それはリーダーの意向だ。リーダーは、青豆らの計画をすべてお見通しで、尋常でない能力を持ち合わせている。リト ル・ピープルの逆襲と教団組織のシステム化された自己運動をリーダーをしても押し留めることはできなくなっている。共同性(組織)とはそういうものだ。ふ かえりの小説が世間に出ることにより、「さきがけ」に過去の組織の軌跡も含めて疑惑のまなざしが注がれ、さらに、その異教性が知れるところとなり、捜査の 手が教団の施設に入ることになったからだ。また、ふかえりと天吾のペアは、リーダーの言によればリトル・ピープルの対抗存在をなしているゆえだ。リーダー はそれらすべて見通したうえで、死を望んでいるのだ。ためらう青豆に対してリーダーは、天吾の助命と引き換えに俺を殺せという。その交換条件をのんで、青 豆は目的を達成する。「心から一歩も外に出ないものごとなんて、この世界には存在しない」とリーダーがいうように、言語の表現の内部には何も隠されてある ものなど無い。つねにすべては提出されている、表層的にも深層的にも。そうだろ、村上さん。フー、あらすじをたどるのも、結構きついな。

猫 
まあ、そう言うな。リーダーが少女たちと性的に交わった、というより宗教儀式を実践したように、天吾もふかえりと交わる(ふかえりは、これを 「オハライ」という)。これで、青豆や老婦人の抹殺根拠は完全に溶解してしまったといっていいぜ。べつにリーダーの行為は、変態性欲でも少女虐待でもない ことになったんだ。

松 
青豆は、この世界への入口となった首都高速道路の非常階段を目指すが、すでに入口(出口)が塞がれていることを知り、口に銃を突っ込み引き金 を引く。まあ、これが結末ということになるんだろうね。最初に入口へ導いたタクシー運転手というのは、これまた謎の存在ということになるね。

猫 
それでは、この『1Q84』という作品の意図とは何なんだ?

松 
それは簡単さ。要するに、作者はあの地下鉄サリン事件を無かったことにしたかったのさ。それでリーダーすなわち麻原彰晃を殺害するというス トーリーを作りあげた。そして、その根元にあるのはリトル・ピープルなるものだ。これが何の暗喩なのか、どんな寓意なのか、いかなる集合的無意識の生成な のか、説明は要らない。それは読んだ読者が察知すればいいというのが、作者のスタンスだ。だから、青豆がリーダーを殺害しようとしている時、また天吾とふ かえりが交わっている時、リトル・ピープルのなせる業で、稲光のない雷鳴が轟き、雨が降り、あの地下鉄丸ノ内線や日比谷線などが水没するというふうにして いるのさ。

猫 
そうだとすると、この『1Q84』という小説は、結局、あの『アンダーグラウンド』の中の「目じるしのない悪夢」を作品化したということじゃ ないのか。

松 
そうだよ。あれの小説化だ。それで、ふかえりやリーダーを魅力的な存在として描きだしたことは、あの地点からあきらかに歩を進めているといえ る。しかし、あいかわらず、問題の核心にある宗教性ということに関しては、「目じるしのない悪夢」では『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に 出てくるやみくろに、ここではかつての「TVピープル」の変形リトル・ピープル(小人)に置き換えただけだ。それにすべてを吸収させる仕組みになっている よ。つまり、そこへの踏み込みは回避されているんだ。ただ、そんなことは誰も、いまだ解明していない。オウム真理教だって、麻原彰晃だって、依然として無 気味な闇をさまよっているのを、ただ世俗的に処罰し、社会的に隠蔽しようとしているだけだからね。だから、あれがこの作品の生みの親だ。そして、ひとつの 示唆の方法として、この作品はある。その点でもこれを認めないわけにはいかないね。

猫 
だがよ、村上春樹は「目じるしのない悪夢」の中で、オウム事件に関して異論を呈した者を「大方は世論の袋叩き」にあったといい、「それらの論 の多くは少なくとも部分的に正論ではあったが、場合によっては言い方がいくぶん偉そうで啓蒙的だった」と批判した。その、名前も挙げずに批判した事件当時 の吉本隆明らの思想の地平に、つまり〈どちら側でもない〉場所へ、ここで到達したということじゃないのか。

松 
そうだと思うよ。ただ最初の歴史認識の安易さは、作品全体を決定づけてるよ。でも、惹き込まれて寝食を忘れるように読んだ。おかげでほんとに 少し体調を崩したくらいだ。こんなに熱中して読んだのは久しぶりだ。そのうえ、おれみたいな社会の落ちこぼれにも、こんなことを言わせるだけのものがあ るってことさ。『羊をめぐる冒険』に較べると、のびやかさに欠けるけどね。
 (2009年6月22日脱稿)


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