中学生の頃、両親が田舎に行き、私一人で東京に居た時のこと。ある夜、ムラムラと鰻
重が食べたくなった。出前を取ろうか……一人で取って食べても、何かつまんないなあ……そうだ、近所に有名な鰻屋があったっけ、あの店は出前をしないから
食べたことはないが、いつも前を通ると、いい匂いがしてくる、行ってみよう、高そうだけど。しかし、板塀に囲まれた高級そうな店だから、普段着で行くわけ
にいかない。早速よそ行きに着替え、母の赤い口紅を塗り、おしろいを顔にはたき、せいいっぱい大人に見えるよう身繕いして出かけた。
鰻屋の玄関を入ると、和服姿の仲居さんが出てきたので、もう緊張してしまった。「ご予約は?」と聞かれ、「してないんですけど、近くに住んでて……ええ
と……」「おひとりですか?」「はあ……」「では、どうぞ」トントンと目の前の階段を仲居さんが上がっていくので、慌てて後をついていく。滑って転びそう
にピカピカな廊下の先、小さな座敷に通された。ふかふかの座布団の上で、かしこまって待っていると、うっとりするような蒲焼きのいい匂いが、階段の下から
立ち上がってくる。(来て良かった……)。また仲居さんがやってきて、メニューを差し出した。ありったけのお小遣いを財布に入れてきたので、思い切って高
いのを注文。それから、お茶を啜りながら待ったが、なかなか鰻は出来てこなかった。(中略)
待ちくたびれ、忘れられちゃったのではないかと心配し始めた頃、やっと鰻がやってきた。塗りのきれいな、高そうな重箱だ。「お嬢さん、何年生? 鰻がお
好きなんですねえ。今度はご家族の方もご一緒に」などと話しかけてくる仲居さんが下がるのを待ち、緊張しながら蓋を開ける。出前で食べていたのと同じ外見
だった。が、一口食べて(ああ来て良かった)、体がとろけそうにおいしかった。
私が一人で高い外食を食べた初体験である。その鰻屋には、あれから一度も行ったことがない。高いので。
(武田花「高い、高い、初体験」)