語学論
英会話学校が絶対にはっきりとは言わないこと
あるサイトから引用 投稿者:根石吉久 投稿日:2011年 8月15日(月)14時24分7秒
http://www.coper.biz/images/stories/docs/coper-report.pdf
英会話講師を始めて6 ヵ月ぐらいした時のことです。
ある中級クラスの生徒さんがこう言ったのです。
「お手洗いの場所聞いたら「ダウン=down」って言うから下の階に行ったら、お手洗い無いんだよ!空港のインフォメーションの人なのに、私が英語分らないことをいいことに、嘘をつかれたんです!」
そりゃ違うよ!私は心底そう叫びたかった!インフォメーションの人は嘘ついてないし、馬鹿にもしてない!あなたが勘違いしているだけだよ!でも言えませんでした。相手は私の倍は生きておられる中年の自信満々な男性。しかも、日本特有の「恥の文化」を考えると、彼の半分しか生きていない若造である私が、他の生徒さんの前で彼に真実を伝えることは好ましくなかったのです。その真実とは、彼は大きな勘違いをしているだけ!!!
インフォメーションの人はおそらくこう言っていたのです:
「The restroom is just down the hall.」それか「It’s just down there.」
「トイレは廊下の先だよ。」それか「そこをちょっと行ったところだよ。」
だから、僕はショックだったんです。この一見簡単な文の意味を質問された400人-500人の人のほとんどが、英会話スクールで勉強したことがある人達、そして英語の勉強のために何冊か本を買ったことがある人達なんです。そんな人達の99%がさっきの文の意味を理解できないんです。じゃあ、英会話スクールでは一体何を教えているの?英語本や英語の教材は何を教えているの?という話になりますよね。
(以上引用、以下根石)
これは多分、Down. とだけ言われたから誤解したのだと思う。 down the street とか down the hall とか down のうしろに何かくっつけば誤解は生じなかったし、 down のそういう用法を知らなかった人は、その場で覚えることができる。事態がさしせまっていたり、事態の当事者であるせいで、語法だの用法だのを語法だの用法だのと意識せず、つまり「勉強」や「練習」でなく、その場で覚えることができる。
それが私が言ってきた「磁場」というものだ。
日本で英語を獲得しようとするのは、どうしても「勉強」や「練習」になる。そして、それは「磁場」での体験とはまるで違うことだ。
引用した記事では「意味」という語が使われているが、正確には「イメージ」だろう。「磁場」でなら、状況や当事者性が「イメージ」を強制する。「勉強」や「練習」には、この強制がない。どれだけイメージ化できるかは、「言いながら書きながら思う」ことの強度にかかっている。また、「切断読み」で、どれだけ日本語を脱げるかにかかっている。この二つとも、実は「教室」で行われることではない。この二つとも「一人で」「自分に向かって」行われることだ
英会話教室は「磁場」になれない。「教室」であるから、そこは「勉強」用や「練習」用の「場」になる。何かしゃべっていても、「仮にそう言っている」というしゃべりなのである。この根本的な原理というべきものを、英会話学校は絶対にはっきりとは言わない。
100パーセントと言っていいと思うが、100パーセントの英会話教室が、「一人で」「自分に向かって」行われることで、実質的な「イメージ」を得る以外にないのだということを言わない。引用した記事にもそれはかけらもない。
少なくとも、「磁場」に入ってイメージが生じやすいだけの基を作っておかないと、よほど鈍い人間以外はストレスが大きすぎる事態にたち至る。
「基」とは、イメージが生じるための「きっかけ」である。その量と質である。
学ぶ、ということ 投稿者:I村 投稿日:2011年 8月17日(水)18時12分21秒
down について。恥ずかしながら、私も最近までdownは「下へ」としか覚えていませんでした。down the street とか言われると、きっとその道路は下り坂なんだろうと考えておりました。だって、downは「下へ」としか習っていませんし、テストにもでませんでしたから。そんな簡単な単語をわざわざ辞書で調べようなどとは思っていませんでした。
それにしても我ながら情けないのは「習ってない」とか「テストにでない」とかいう言葉であって、まあ私の偽らざる気持ちだったのですが、何と受け身の態度だったことか。勉強は本来「学ぶ」ものであって「教わる」わけではないのですが。
レッスンでは発音やアクセント等を「教えて」もらうことはもちろんありますけど、最終的には自分で「学ぶ」しかないのだということを、肝に銘じたいと思います。
I村さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2011年 8月19日(金)01時23分5秒
>down について。恥ずかしながら,私も最近までdownは「下へ」としか覚えていませんでした。down the street とか言われると、きっとその道路は下り坂なんだろうと考えておりました。だって,downは「下へ」としか習っていませんし,テストにもでませんでしたから。そんな簡単な単語をわざわざ辞書で調べようなどとは思っていませんでした。
これは世界観に関わることです。英語的思考では、「自分(たち)に向かって」は up なんです。「自分(たち)から向こうへ」は down なわけです。自分(たち)が「あらかじめ偉い」かのような世界観です。これがあるから、かつてヨーロッパ国家を動かした者たちは、アジアやアフリカが「あらかじめ」自分たちのもののような顔をし、アジアやアフリカの人々をまるで自分たちの家畜ででもあるかのように扱うことができたのです。いくら英語をやってもこの世界観になじむことができず、私は今でも、指さしながら「Over there, along this street.」みたいな言い方をしています。
downとupについて 投稿者:I村 投稿日:2011年 8月20日(土)11時57分44秒
根石さん
なるほど、downと世界観ですか。なるほどなあ、と思いました。日本語にも上り線、下り線という表現がありますが、これは人ではなく場所を基点にした考えですね。ついでに、「UP」を調べていたら、空の上にいる神様のイメージ、つまりは「上に」「完全な」ということ、と説明している人もいましたので、今まで簡単な単語と思っていたものが、創造主まで行き着いてしまいました。おかげさまで、私も「down the street」とかが使いにくくなりました。傲岸不遜だと思われたくないですし。もっとも、自分自身やその仲間が特別で、それ以外は劣った存在だから滅ぼしてしまえ、という考えは人間が本質的に持つものかもしれませんが。
ところで、チンパンジーはある程度人間の言語を理解することができるらしく、チンプ自身の気持ちもある程度伝えることができるとか。もちろん、複雑な文法を使うわけではありませんが、言語というものも人間独自のものではないのでしょうね。木の上で生活する彼らにも、upとdownという単語がきっとあるのではないでしょうか。今日は木の上で寝る、とか、もう安全だから下にいくぞ、とか。
さて、チンパンジーは虐殺を行う生物でもあります。ライオンのように、自分以外の子を殺すだけでなく、自分の子を殺したり、わざわざ他のグループのチンプを集団でよってたかってなぶり殺すとか。毎日のニュースを見ていると、私達人間にもその血が流れているのは間違いなさそうです。一皮むけば(大脳新皮質の厚さは2mm)我々は獣なのであり、人間もチンプも自分以外の存在を許せないのでしょう。
チンプが他のグループを発見したとき、あっち(down)にいるぞ!という感じで、「下に」という意味と同じdownを使うのか、それとももっと別な単語使うのかはちょっと興味がわきますね。そんなことを考えていたら、土曜日の午前中が終わってしまいました。
I村さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2011年 8月21日(日)04時58分9秒
>今まで簡単な単語と思っていたものが、創造主まで行き着いてしまいました。
まさにそれだと思います。前回書いたときも、キリスト教という語は思っていたのですが、その語を使わずに書きました。
一人称の人を起点に up だの down だのを使うのは、I が大文字で書かれることと根が同じだと考えてきました。なぜ、I だけが大文字で書かれるのか。これはキリスト教の神が God と大文字で書かれ、その神と一対一で向き合う人称が I だけだからだと思っています。この神との厳しい関係が私は大変嫌いです。
キリスト教というのは「うるさい物語」だと思っています。
英語圏の現代詩人には I を i と小文字で書く人たちもいます。
物語とstory 投稿者:I村 投稿日:2011年 8月22日(月)19時29分48秒
聖書は物語である、という考えは私も好きです。私自身は「うるさい物語」というか、良くも悪くも「力強い物語」だと思っておりますが。
私の妻がイタリア美術史を勉強していたため、妻の解説で図版を眺めていたことがあるのですが、私のお気に入りは宗教画でした。聖書の知識がないと何の絵かわからないので、この絵は聖書のこれこれこういう場面を描いているのよ、と教えてもらいながら絵をみるのは実に興味深く、かつ面白かった覚えがあります。敬虔な信者でしたら思わず十字を切ってしまうような絵も、異教徒である私がみると実に滑稽な絵があったりして、思わずふきだすこともあったのですが、世が世なら、私は神に仇をなすものとして焼き殺されていたでしょう。それまで聖書という本は、愛とか思いやりを教える道徳の本なのかと思っていたので、その内容に触れたときは衝撃的でした。
さて、私が住んでいる町にもある宗派の宣教師がいて、町ゆく人に声をかけています。ご多分にもれず、私にも声をかけてくるわけですが、無下に相手にしないのもあんまりなので、暇なときは話を聞くようにしています。
「あたなは、万物を創造されたお方をご存知ですか」
「父なる神のこと?」
「そうです!神様はお父さんなのです!」
「(何か違う気がするが)」
その後経典について話が移り、最後に聞かれるのが、
「私の話を本当だと思うか、それともウソだと思うか」
という、極めて核心的でかつ二元論的な質問なので、非常に困る。そりゃあ、何かしらの創作はあるだろうとは思うけれども、それを全部ウソだと断言する勇気は私にはないし、かといってキリシタンになるつもりもない。ちょっと考えて、
「私は物語だと思っている」
と答えることにしました。長年受け継がれ、多くの人を熱中させ、あなた方にとってとても大事な事が書いてある物語。そんな意味でいったのですが、どうやら「物語」という言葉の意味が解らない様子。なので、「story」だよ、って言ったらとてもがっかりした顔をされてしまいました。考えてみたら、「story」には、つくり話とかいう意味もあるので、つまりはウソだ、と受け取られてしまったようなのです。うーん、異文化交流は難しい。
まあ私が単に舌足らずだっただけでしょうが、私が「物語」という言葉に持つイメージと外国人が持つ「story」のそれとはもしかしたら全然違うのかな、などとも思いました。
I 村さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2011年 8月24日(水)01時48分29秒
>どうやら「物語」という言葉の意味が解らない様子。なので、「story」だよ、って言ったらとてもがっかりした顔をされてしまいました。考えてみたら、「story」には、つくり話とかいう意味もあるので、つまりはウソだ、と受け取られてしまったようなのです。
なるほど。
私だったら、story と言う語はどうしても使いたいので、an impressive story とかなんとか形容語をつけたかもしれません。
ここ二三日、寝転がって「ドラゴン in the Sea」(阿賀猥×中本道代×戸沢英士・発行 iga ・ 発売星雲社)という本を読んでいましたら、こんなところにぶつかりました。
<阿賀>皆はキリスト教社会を善き社会と決め込んで
るので誤解してしまうのですが、ロレンスはキリスト
教が大嫌い、善き社会なんてとんと思わない人ですか
ら、誤解されるってこと、思いもしないで無神経に書
き進めているのです。
ロレンスの『黙示録論』、原題は「アポカリプス」
というのですが、聖書を徹底的になぎ倒しています。
というのもファシズムの根が、聖書にあると見ている
からで、ファシズムをその根底から打ち砕きたいから
でしょう。
<戸沢>一九二四年にロレンスは死亡していますから、
ヒトラー登場の頃、ファシズム勃興期に書いたんです
ね。
ここに出てくるロレンスは、D・H・ロレンスです。
この本で阿賀猥は、ヒトラーは善人だったと言って、中本道代と論争しています。善とは何か、悪とは何かを考えてから(定義してから)「善人」と言っているのではなく、阿賀はこの娑婆で人々が「善人」とするものを「善人」と言っています。当時、ヒトラーは「善人」だったし、日本軍国主義は「正義」だったというのは客観性としてあるのですから。
善とは何か、悪とは何かを考えることから始めるのは、「哲学」のすることでしょうけれど、社会が「善人」と呼ぶものをひとまず「善人」としてものを言い始めることは「批評」の領域にあることかと思っています。当時、ヒトラーの「善人」も、日本軍国主義の「正義」も、強大な力として動いたものなので、敗戦後、日本人がアメリカ、イギリスにならって、「悪」呼ばわりして済ませるのは怠慢以外のものではない。戦後民主主義というのは気楽主義以外のものではありませんでした。
吉本隆明がここを腑分けしたと考えています。「個人幻想は共同幻想に逆立する」と言ったとき、それまで腑分けされていなかったものが吉本によって初めて腑分けされたのではないでしょうか。
私は、「共同幻想は絶えず個人幻想を組み込む」と付け加えるべきだと考えています。国家は、「個人幻想」のうちの勢いのあるものを、「共同幻想」に組み込んで共同性のために使用できるよう「意味」を変換します。
(最近では、ゴミ処理過程における「循環型」という語に、まざまざとこの「変換」を見ました。ゴミ焼却・溶融後のスラグをコンクリートの骨材に使うことをリサイクルだと言い、それを行う社会を「循環型社会」だと言う御用学者がたくさんいます。そりゃ、どんな物質でも、自然界に放てば、水の動きと空気の動きで「循環」します。汚染物質でも同じです。御用学者の言う「循環型社会」というのは、汚染の循環を言っているのですが、「循環型社会」と言われると何か上等な社会なのかと思う「善人」がたくさんいます。)
熱狂的に「善人」(ヒトラー)を信じた人々や、「正義」を信じた人たちは、「個人幻想」が「共同幻想」に組み込まれるプロセスに鈍い人たちなのだと考えればいいと考えています。(個人としてどれほどユダヤ人を憎んでいようと、その憎しみと、それが「共同幻想」に組み込まれるプロセスとは厳密に区別されなければなりません。)
吉本は、当時、軍国少年だったことを何も隠していません。そういうことを隠すから駄目なんだと言ってきた人です。そのプロセスを隠さないことが、そのプロセスと戦うための前提条件だからです。この一点で、私は吉本隆明を信頼しています。(しかし、自分が軍国少年に至るプロセスそのものは、吉本はあまり書いていないようにも思っています。)
(私は、「大風呂敷」に書いたものの誤字・脱字を直すことはしますが、一度投稿したものを、後から削除したことは一度もありません。プロセスは、それがどんな恥になろうと、晒されていなければならないと考えるのは、吉本の「隠すから駄目なんだ」という考えに触発されたと自分では思っています。)
私が書くと、ここで「語学」が登場してしまいます。
語学というのは、「共同幻想」を「個人幻想」に組み込むものです。娑婆が「善人」としているものを、ひとまず「善人」という語として受け入れる。つまり、阿賀猥がやっているのと同じで、娑婆に客観性としてあるものをそのままひとまず受け入れます。「ひとまずそのまま」受け入れるというところは、語学に顕著に表れます。
語学に不可欠の辞書には、語の概念が記述されていますが、それは「共同性」(客観性)として娑婆にあるから(古語辞典では、娑婆に「あった」から)記述できるわけです。辞書を使うという行為ひとつを考えるだけで、語学が最初に「共同性」を相手にする行為だということははっきりします。
しかし、語学の成就は概念をイメージに変えるところに成立します。そこで、「共同幻想」は「個人幻想」になります。このプロセスは、「個人幻想」が「共同幻想」に組み込まれるプロセス(政治のプロセス)の逆方向のプロセスです。イメージにすることは、「共同幻想」の共同性を、自分一人に生々しい「イメージ」にすることですから、ある意味で共同性を解体するとも言えます。(語学をやる多くの人が、共同性を解体するレベルまで「イメージ」を作ることをやらないことは、私が常日頃言っている通りです。)また、「自分一人に生々しいもの」=「イメージ」にした後に、それを使って話をするのは、「個において」、「個人幻想」を「対幻想」あるいは「共同幻想」の方へ戻してみる行為だとも思っています。
私のこの理屈は、世にある語の一つ一つが(語学では、外国語の単語の一つ一つが)、それぞれ大小さまざまな「共同幻想」だということを前提にしています。吉本はそんなことは言っていないと思っていますが、私はそう考えています。
(福島の原発事故後の吉本の主張にはついていけません。「原発をやめることは人類をやめることだ」と吉本は言っています。40年前に原発の後処理に関して見切り発車したものが、今この事故になっています。後処理についてはいまだ見切り発車のままです。
「現に駄目じゃないか」「現に駄目だったじゃないか」と私は考えています。「現に駄目じゃないか」「現に駄目だったじゃないか」は、吉本が長くソビエト、日本共産党、新左翼崩れに対して言い続けてきたことのはずなのですが・・・)
元に戻りますが、「ドラゴン in the Sea」を発行している iga は阿賀隈さんがやっている出版社です。ここから最近、「ぬらり神」という奥村真さんの詩集が発行されました。「ぬらり神」に、私が「快傑ハリマオ」に書いた奥村さんへの追悼の一部を転載してもらいました。「ドラゴン in the Sea」はそのご縁で恵贈していただいた一冊です。
いやあ、久しぶりに面白かった本です。
イメージの共同性について 投稿者:I村 投稿日:2011年 8月24日(水)18時39分49秒
> なるほど。私だったら、story と言う語はどうしても使いたいので、an impressive story とかなんとか形容語をつけたかもしれません。
ああ、何か形容詞をつければよかったんですね。「excellent」とか「marvelous」とかなんでもいいから言えばよかった。家に帰ってから、
「異教徒め、地獄の業火で焼かれるがよい!」
とか思われていないか結構不安だったので(割と本気で)。
> イメージにすることは、「共同幻想」の共同性を、自分一人に生々しい「イメージ」にすることですから、ある意味で共同性を解体するとも言えます。
これは、最近私がなんとなく感じていたことと同じです。たとえば「Give」のような簡単な単語ですら、私の持つイメージと、客観的なイメージは結構違うと気が付いて、あらためてそのイメージを確認し、再びそれを自分のイメージに落とし込むということをやっているところです。今まででしたら、単に「Give」という単語を日本語の「与える」という意味にすげかえるか、あるいは、そのセンテンスに合うような意味を辞書から探す、というのが関の山でした。まあ、そうは言っても、実際に机の上でイメージするのはすごく難しいです。英語圏の人なら、子供のころからそうしたイメージの同調圧力(根石さんのおっしゃる、磁場ですね)がかかるわけですけれども、日本で生活している限り、それは期待できませんから。まあ、コツコツと回転読みとあわせてやっていくしかありません。
> 熱狂的に「善人」(ヒトラー)を信じた人々や、「正義」を信じた人たちは、「個人幻想」が「共同幻想」に組み込まれるプロセスに鈍い人たちなのだと考えればいいと考えています。
ええ、そうですね。私もそう思います。でも、みんなそういうことには鈍いのだと思います。人は客観的な事実に基づき信じるわけではなく、信じたいものを信じる生き物なので。