語学論
絶妙のタイミング
絶妙のタイミング 投稿者:根石吉久 投稿日:2011年 5月29日(日)11時09分55秒
オーストリアで(ドイツ語で)育ち、二十歳前後にアメリカに渡り、英語でまくしたてる速度はまったく英語ネイティヴと同等になった三十歳過ぎの男と日本で友達になったということがあった。素読舎の昔の塾生(女)がアメリカに留学し、アメリカで出会ったこの男と結婚し、日本に連れて帰ってきたのだった。
けっこう激しく喧嘩を繰り返したので、単なる仲良しの友達というのではない。お互いに譲れないところを持ちながらつきあいは続いているという関係の友達である。(今は、福島第一原発のせいで、こいつはオーストリアに疎開している。)
この男と私の昔の借家のこたつで、喧嘩をしたことがある。炬燵板の上を風が吹いてきた。風は、相手が言葉をまくしたてる口の筋肉の動きによって生じたのだ。息の勢いによって生じた風が、私の顔に当たった。
日本人は興奮がある域を越えると、どなり声になる。これは喉や腹で作る音なので、口の筋肉が立体的に動くことでできる息ではない。しかし、こたつの向こうに座っている男が出す息は、明らかに口の筋肉のバネが作っていた。その音がまわりの空気を巻き込んで、風を作り、私の顔に当たってきた。
日本語の音は平板であり、英語の音は彫りが深い。日本人の顔の彫りが浅い程度に日本語の音は平らであり、英語ネイティヴの顔の彫りが深い程度に、英語の音は立体的だ。
日本語は演説には向かない。英語は演説向きの言語だ。単に音のレベルだけでも、それが言えてしまうのではないか。
俺にはとうていこういう風は作れないとそのときはっきり思ったことを覚えている。何でもめていたのかは忘れてしまったが、こたつ板の上を吹いてきて私の顔に当たった風ははっきりと覚えている。口の筋肉のバネが違うのだ。
英語の音の強弱で言うなら、英語の音の「強」と「弱」の落差を日本人はどうしても弱めてしまいがちだ。強弱の落差の少ないイントネーションというのは、英語ネイティヴの人たちにはかなり聞き取りにくいものだろう。
喩え話で言うとどういうことになるのか。
私の住んでいるところは善光寺盆地の南の方なので、周りに山波が見える。比較的なだらかな山が連山を成している。ああいうものを一般には山脈とは言わないのだろうが、尾根道でつながっている山波がいくつもある。杏の里と言われる村の方に出かけると、屋代たんぼの広がりの向こうに低い山波があり、その上に北アルプスの険しい山脈が姿を現す。これはなだらかなものではない。ひとつひとつの岳とその鞍部との落差が大きい。
手前の里山とアルプスの切り立ちとの対比で、日本語の音の強弱、英語の音の強弱を喩えれば喩えられるのではないだろうか。
里山には里山の標高があり、アルプスにはアルプスの標高がある。海面からの高さがすでに違う。「俺にはとうていこういう風は作れない」というのはそういうことだ。里山がアルプスになることはない。
日本語で育った人間が、英語で育った人間になることはない。
しかし、里山の標高であっても、群馬県との県境には妙義山というものがある。高い山ではないが、切り立っている。山頂と鞍部にはっきりした落差がある。
善光寺盆地のおだやかな里山の稜線を妙義山くらいの激しい落差の形にするというのが、ひとまず日本在住の英語学習者がやるべきことだろう。(実際に山の地形をそんなふうにしたら乱開発だが、語学はある局面で乱開発である。)
その後、妙義山が標高はそのままに、アルプスの相似形になることがあるとすれば、それは「語学外」=「生活過程」においてだろう。それは、「磁場内」でのことだろう。
その場合でも、里山が「アルプスになった」のだと考えない方がいい。里山が「アルプスの相似形になった」だけであり、標高の違いはそのままなのだ。(そうでなければ、アメリカで英語で生活する日本人がなんで日本語への郷愁のようなものをしばしば語るのかわけがわからない。標高自体が違うから、「郷愁」が出てくるのだ。私はケネディ空港の売店で、日本語のイントネーションがおかしくなったほどに英語に漬かって仕事をしている日本人が日本語への郷愁を語るのにつきあったことがある。)
語学では、強弱の落差が内部感覚としてよく育てばいい。単に耳で聞いてではなく、自分の口を動かして、自分の口の動きの感覚として「落差」が育てばそれでいい。
そこに「黙音」と造語した根拠がある。
want to なら前の単語の最後の音と、次の単語の初めの音が「同じ」だから、「黙音」になる。これが基本だ。舌の位置が「同じ」か「同等」(t、d、l、n)のぶつかりあいの場合も、前の音が「黙音」になる。
could put の場合は、d と p では舌の位置や唇の使い方が違うが、「子音と子音のぶつかりあい」によって、d の音が「黙音化」する。その結果、「弱形」になる。
「黙音」と「弱形」は、人間の口の筋肉の生理からすれば、根は同じものだ。どちらも「いいにくいから」というところから生まれてくる現象に過ぎない。
「弱形」は、体は蛙の形をしているが、まだ尻尾がついているような状態の音のことだ。尻尾の部分が「弱形」になる。大きい尻尾の場合も小さい尻尾の場合もある。尻尾がなくなれば、「黙音」である。
grandmother の d と m のぶつかり合いで、d がまったく消失し、舌の位置さえ「上の歯茎の裏」を失って発音する英語ネイティヴはいるはずである。この場合、「小さな尻尾」もない。小川さんの言い方を借りれば、「レコード盤の音跳び」になる。
「黙音」は「音跳び」ではない。
ネイティヴでさえさぼるものを、俺たちがなんでさぼっていけないのかと言われるかもしれない。しかし、さぼらない方が楽だからさぼらない方がいい。
ここでも、問題は「磁場」なのだ。
英語の「磁場」に生きているのなら、個々の語を個々の語として扱うのでいい。法則性など問題にしなくていい。「言語磁場に生まれて育てば、その言語をしゃべれるようになる」「文法なんか知らなくても言葉はしゃべれるようになる」と、文法に関して言われていることが、そのまま音に関しても真実なのだ。あくまでも「磁場」においては。
語学では、 grandmother の d を、「舌の位置は確保して、音は黙る」でやっておいた方がいい。そこに「子音と子音のぶつかりあい」の法則が働いているのを(ぶつかりあったから「消失」したのだということを)、体感として(内部感覚として)育てておいた方がいい。それが育てば、「音と音のぶつかりあい」が感覚になる。
法則が感覚になれば、あらゆる場面で応用がきく。つまり、省力になる。つまり、楽なのだ。
レッスンでは、まずは「つなげる」を言い続ける。
つなげるのが楽になってきたら、「はっきり」を課す。
「つなげる」と「はっきり」を両立させることを課す。
このあたりで、「音づくり」の半分くらいまでの到達度である。
このあたりから、「音づくり」の後半が始まる。
このあたりで、コーチの指示がきつくなる。
このあたりで、レッスンをやめてしまう生徒が多い。
ほぼ半分はやめる。
その話をゆうべ、小川さんと村田君に話した。
「縁なき衆生」と考えるのがいいのかどうか。
「音づくり」の「後半の前半」は、「つなげる」と「はっきり」が相互に邪魔しあう。「もっとつなげる」と指示し、「もっとはっきり」と指示し、「両立させろ」と言うと、麻酔が切れかかったときのような「痺れ」が生じる。
「後半の後半」では、「はっきり言うからつながる」という現象が現れる。つまり、「意味が動くからつながる」という現象が生じる。片っ端から初出の文で、いきなり「意味が動くからつながる=いきなりイントネーションが独り立ちする」レベルになれば、練習者としては自立を果たした者としていいが、私自身がそのレベルには届いていない。つまり、「自在」というものに届いていない。そんな話を小川さんと村田君にした。
ここは日本語の「磁場」だから、賽の河原で子供が石を積んでも、鬼が来て崩してしまうと同じことが起こる。小川さんはいつかはこれが終わることがあると考えているようだが、語学はいつまでたっても賽の河原で石を積むような行為だろう。日本在住のままの人の中に育ち始めた英語にとっては、「日本人の自然環境=日本語」がそのまま鬼に変じるのだ。
それでいいと思っている。私の仕事は、「達者な英語つかい」になることではない。語学論は、語学に内在する「関係」を明らかにすることなのだ。「余計な神経症」「余計な劣等感」を払拭できれば、仕事の半分の意味はある。残りは、生徒の力をつけることだが、レッスンを継続して、生徒が自分で語学論を持ち、「認識」を持たなければ、日本在住の英語なんぞは片っ端から死ぬ。
昨日レッスンをやめてしまった生徒も、「音づくり」の後半にさしかかったところだった。「音づくり」では一番大事な「つなげる」と「はっきり」の両立をようやく課すことができるようになったところでやめてしまった。ここを抜ければ「無駄金」ではなくなるが、ここでやめたらこれまでの金は「無駄金」になるという「絶妙のタイミング」というのが、「音づくり」のちょうど中間にある。
厳しく言わないでいれば、生徒はレッスンを継続するだろう。
だらだらと「ならいごと」として、「絵をならってます」「カラオケをならってます」と同等のこととして続けるだろう。
語学としては、「無駄金」を使わせ続けることになる。
素読舎のレッスンは「無駄金」を使わせるのを嫌うレッスンである。
仕方がない。昔からそうだったのだから。
ようやく厳しく指示できるレベルに育ったと思えば、生徒がやめてしまう。やはり「縁なき衆生」と考えるしかないのか。
そんなことも村田君と小川さんに話した。
縁なき衆生 投稿者:小川 投稿日:2011年 5月29日(日)12時48分49秒
黙音、気配の音で、今ふと "Sound of Silence" という歌を思い出しました。"People talking without speaking. People hearing without listening." という歌詞でしたね。
今日、久々に根石さんのご投稿を読んで、ああ、私の言葉は軽いなぁと思いました。しゃべっちゃあいるけど、意味のあることを語ってはいない。毎回レッスンの後に大事なポイントを聞かせて頂いているのに、わざわざメモまで取っているのに、その実まともに聴けてはいない。ここ十数年来、年がら年中、四六時中、同じ事を口を酸っぱくして言い続けて来てはるんやなぁ、私は馬鹿か、と思いました。ふと「馬鹿論」を読み返してみたくなりました。
>小川さんはいつかはこれが終わることがあると考えているようだが、語学はいつまでたっても賽の河原で石を積むような行為だろう。
そんなことはないです。私も終わることがあるだろうなどとは思っていないです。一生お勉強だと思います。決して終わりは来ないでしょうが、決して徒労だけには終わらないだろうとは思っています。語学論を持たねば空しいことですが...
>ようやく厳しく指示できるレベルに育ったと思えば、生徒がやめてしまう。やはり「縁なき衆生」と考えるしかないのか。
いっそのこと素読舎の生徒募集に「生半可な気持ちで申し込まないで下さい」とか「覚悟がいります」とでも書き添えますか? 冗談ではなく。以前はチラシに「練習は決して甘やかしません。だから馬鹿は早めにやめます。」という文言を書いておられたそうですが、あらかじめフリークやらカルチャー婆ぁを門前払いする生徒募集の方法もあるように思いました。
中途半端に辞めて行く人が増えると、中途半端な理解で素読舎について語る人が増えるということでもあり、それは素読舎にとっていいことではないですね。
今までは窓口を広げることも大切だろうと思って来たのですが、私も生徒募集についての考え方を変えた方がいいようです。
永劫回帰(根石氏の馬鹿論) 投稿者:小川 投稿日:2011年 5月29日(日)12時58分34秒
私には本当にわからない。
人々は結果しか見たがらないのだ。
成績という結果、高校・大学への合格・不合格という結果、英語がペラペラしゃべれるという結果。
結果しか見たがらないというのは、見ようとしなければ、過程などというものは見えないからだ。だけど、英語をものにする途上において、過程とは意識の変容過程以外のものではない。意識の変容過程が語学のすべてなのだ。
意識の変容過程そのものには、ちょっくら到達地点というものがない。意識の変容過程は、無意識を意識的に育てることだから、多くの人々の死角になっている。多くの人がわかってくれない。
あるレベルに達するということがある。英検の級のようなものを考えればわかりやすい。それに合格するレベルというものが外在する。合格すれば、そのレベルに達したと外から保証される。
しかし、語学の本質からすれば、英検3級に合格することは、英検3級の練習のレベルが獲得されたことであり、英検2級に合格することは英検2級の練習のレベルが獲得されたことなのだ。
あくまで、獲得されたものは、「練習のレベル」であって、安心できる結果だと考えないのがいい。
合格をひとつの結果と見るならば、確かにそれは一つの結果と見えるが、内在的な語学の視点からは、「練習レベル」の獲得であり、「練習レベル」の獲得であるかぎり、それは過程にある。
どこまでいっても、過程だけがある。それが語学だと言えば、おじけづく人がいるのかもしれない。しかし、私が生きてみた限りでは、語学とはそういうものだ。
過程だけがあるという意味では、語学は生きるということに非常によく似ている。あるいは、語学を生きるということがある。ひりひりする傷を持つこと。幼児が転んで膝に持つ赤い面積。
練習が厳しければ、多くの人がその練習をやめる。
やむをえない事情をかかえてやめてしまう人もいる。それは仕方がないと思う。しかし、多くの人達は、やむを得ない事情のためにやめてしまうのではない。単に練習が厳しいからやめてしまうのだ。単に大変だからやめてしまうのだ。ここに馬鹿の一種類がある。
その場合の結果ははっきり出る。英語が使えないというはっきりとした結果が出る。
あるいは、英語を勉強することを、ピアノを習うだとか、習字を習うとかいう習い事の一つだと考えている人もいる。技芸のひとつと考えれば、そう考えられないことはないが、語学が他の技芸とはっきり違うのは、濃密なイメージそのものを意識にはっきりと浮かべることが要求されることだ。絶えず、無数にイメージを産出する過程こそが語学の過程だ。意識的に無意識を作る作業が、語学ほどに激しく凝縮される場は他にあまりない。これに匹敵するのは詩作くらいのものではないか。
詩作と違うのは、語学は「からっぽの電池」を無数に作るということだ。語学では、「からっぽの電池」はあとから急激に充電される。「からっぽ」を恐れる人は、語学をやらないがいい。さっさとアメリカやイギリスに行くがいい。
決して他人の目に見えない。どれほど濃密にイメージを産出しても、それは自分の意識に触知できるだけだ。語学の本当の過程が決して他人の目に見えないという意味では、語学は実に実に地味な作業なのだ。
「英語が話せればいいわね」というアコガレが、簡単に挫折するのは、この語学の地味な性格のせいかもしれない。あれま、こんなに地味なことだとは知らなかったわ、というわけだ。派手なものに目が行きやすい時代には、語学こそは地味なものの価値を明らかにする試金石かもしれないのだ。夜の価値。
ペラペラ英語を映すテレビの映像が、つまり結果だけを見せる映像が、人々を語学からどれほど遠ざけているか。
楽しくちょっとやるだけで英語がしゃべれますというような、人だましの言いぐさが商売人たちから繰り出される。嘘をつけと、そのたびに思う。聞き流しているだけで、英語のヒアリングができるようになる教材やら、3週間でペラペラしゃべれるようになる本やらが世の中にはあふれていて、楽しくちょっとやって英語をドウニカシタイと思う人たちからお金をまきあげる。
英会話用のインプット専用教室というのをやってきて、十年一日の如き練習を続ける人が多くいるのにも気づいた。市民社会の住人たちだ。語学をやるんなら、ひとたびはあらゆる社会から切れて、自分一人にならなければならない。語学で行われることは絶対にネイティヴな言語の獲得ではなく、たった一人の人間の意識の変容、「架空のオペラ」なのだ。そして、「架空のオペラ」を演じる練習レベルそのものをあげていかないとどうにもなりはしないのだが、多くの人が同じレベルの練習を続ける。それだと、英語が使えるようになるのに、300年から400年くらいかかりますよ、500年生きるつもりなら、それを続けていてもらってもいいけれども、と私が言うと生徒さんたちは笑う。笑っていないのは、私一人なのだ。本当にこれは冗談じゃないのだ。いくら語学が過程そのものだからといって、300年も400年もやっていられるわけではない。
だから、生徒がのんきに300年計画や400年計画をやっているのを見ると、こちらがアセル。時に、きつく言う。あるいは怒る。すると生徒は教室に来なくなる。こちらからお断りすることもある。それでも、通い続けたやつの英語は、モノになる。そいつらが、何年も後になって、素読舎は厳しい塾だからよかったと言ってくれる。その一言だけが、なぐさめだった。
信学会や英会話教室は、300年計画だろうが、400年計画だろうが、怒りはしないのだろう。やつらは金が一番大事だから、おだてて放っておく。
私は親切なのだろうか。300年かかることが目に見えていることをごまかすことができない。300年かかる。つまり、その人が生きている間に実りというほどのものは何も生じないとはっきりしているのに、口をぬぐっていることができない。口をぬぐってお金をもらい続けることの苦痛に耐えることがいつもいつもできなかった。多分、親切だったのだ。生徒に無駄な金を極力使わせないようにした。
おそらく、それが俺がこの土地で嫌われてきたことの根元なのだ。本当に親切にすると嫌われる。簡単に楽しくちょっとやれば英語がものになると思うような馬鹿は来るな。それを言い、どなりつけてきた素読舎の塾長の馬鹿は、とびきりのものだ。筋金入りかもしれない。
山登りに縦走というのがある。麓から登り始めて、林の中を歩く。うすぐらい道がどこまでも続くように感じられる。しかし、いつのまにか高い木がなくなり、見晴らしがきくようになってくる。
やがて頂上に着くが、そこからが縦走の始まりなのだ。
山脈の峰から峰を伝って歩くこと。これが「使える英語」と言われているレベルのものだ。その英語だって、なおも峰から峰へ歩き続ける。語学は過程そのものだが、別に言い直せば、歩くことをやめれば、語学は死んでしまうのだ。日本人の英語はとりわけそうだ。
語学の本当につらい過程は、麓から最初の峰まで出る過程だ。この過程で非常に多くの人が降りていく。一度、最初の峰まで出てしまえば、後はそれほどつらいことではないのだが、なにしろ見晴らしはきかないし、うすぐらい林の中の道ばかり続くように感じられるから、多くの人がこの過程で語学をやめる。
めくら千人めあき千人という言い方があるが、実際のところはめくら千人にめあき十人くらいのものではないだろうか。信学会はめくら千人を相手にしているかもしれないが、素読舎は、めあき十人を相手にしてきたのだ。だから素読舎の塾長は、およそ商売人の風上にもおけない。馬鹿もここに極まるか。
めくら千人の方々は、成績や合格や、つまりは結果だけを追いかけさせる進学塾や、風邪みたいに英語がウツルという幻想を売る英会話学校やらにお通いになる。だまされるやつらにもまやかしはある。
日本の学校育ちの英語が使いものにならないことは、今や世界的に有名なことだ。進学塾の英語もご同様だ。これらは英語をあくまで知識的に扱う。そんなことでどうにもなりはしない。徹底した音づくりの過程を踏まえなければ、使えない英語ばかりが往生できずにさまようのだ。
一人の受験生が英語一科目にどれほどのエネルギーを注ぐかを考えてみれば、そしてその結果、使えない英語をつかまされていることを考えてみれば、それが全国規模のことであることを思うならば、日本人はばかでかい損をし続けているのだ。日本人の馬鹿!馬鹿!馬鹿!馬鹿!
「音づくり」ひとつがどれほど大変なことか、人々はなかなかわかってくれない。「音づくり」ひとつのなかに、どれほどのことがあるのか、わかってもらえない。「音づくり」ひとつで、へとへとになりながら塾をやってきたのだ。それは一つの天地なのだ。それなのに、「音づくり」に関しては、学校も信学会もまるでめくらだ。驚くべきことに、ほとんどの英会話学校もこれに関してめくらだ。
昔の塾生が社会人になり、英語の練習を継続するために素読舎に戻って来はじめた。30代と20代の人たちが、また素読舎を使ってくれる。こいつらをこそ塾生と呼びたいと思う。彼らは、会社の仕事で疲れた体を、また素読舎に運んできてくれる。「この練習は面白い」と言ってくれるやつがいると、この仕事をやってきてよかったのだとやっと思うことができる。
昔、素読舎を使ったやつは、他の社会人の人たちと比べると、進み具合がまるで違う。英語の中にまだ酵母が生きている。しゃべらせれば、下手くそながらすぐにしゃべるやつもいる。受験英語の中に酵母を混ぜておいてよかったと、その時にやっと思うことができる。
世の中には、受験英語が終われば死んでしまう英語ばかりだが、それはいったい何のためなのだ。信学会さんよ、中学校さんよ、高等学校さんよ、一度くらいははっきりとそれに答えてほしい。