語学論

「幼児英会話=遊郭」論    掲示板「大風呂敷」の過去ログから

   根石吉久


  かなり酒がまわりましたので、最後の記事にします 投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 5月 2日(土)01時43分6秒

 遊郭は、思考や思想から始めません。感覚から始めるのです。思考や思想から始めると、「野暮」だとされて笑われるのです。
 遊郭では、いきなり男の逸物に触ることもOKです。とろかしておいてからしっかり握るのもOKです。なにしろ、とにかく、感覚から始めるのです。語学の正反対が遊郭なのだと考えて間違いないと思っています。
 こばたま塾は、「英語で体験」だか、「英語で体感」だか、「英語で体操」だか知らないが、とにかく、やっていることのすべてに、「体」があるのです。そして、「語学論」としての身体論のかけらもないのです。つまり、「身(み)=実(じつ)」がないのです。うつろだし、底なしの闇です。

 私のこの嗅覚が狂っているとは、いまだ思いません。

 柴田さんが、「音作り」から始める。私も「音づくり」から始める。
 英語磁場においてなら、「声」であるべきものを「音」にして、客体にしてしまう。つまり、「苗」ではなく、「種」にしてしまう。それは、日本語磁場で英語をやるのである限り、絶対に必要なことです。

 語学というのは、「客体化=「種」化=冷凍」で始まって、理路を通り、理解し、最後に感覚化する行為です。それで、普通の語学です。とりわけ、SVOシンタックスとSOVシンタックスの間では。

 遊郭は生な体を感覚できる場所だ。私の年代では、遊郭の実物は知りませんが、私にはこばたまと違って理論があるので、遊郭が生な体(感覚)を金で買う場所だという、その感覚はわかるのです。

 遊郭に「いつづけ」ることはできる(こばたま塾にずっと通わせることはできる)。金に困らない商家のボンボンなら。しかし、金に困らない商家のボンボンであろうと、娑婆は遊郭から娑婆に帰ってきたボンボンに、正気になれよと言う。ボンボンが正気になれずに、遊郭で習った感覚のまま娑婆に生きれば、娑婆はまともに相手にしてられないからはじく。そうなれば、ボンボンは遊郭へ逃げ込むようになり、でかい金を使い、親の身上を食いつぶす。つまり、娑婆に立っていた商売一つをつぶすのです。(別に構いませんが。滅びたければ!)

 一般的には、これは、遊郭が悪いのではなく、世間知らずのボンボンが悪いのです。
 ボンボンがその後、どういう末路をたどるのか、それは私はわかりません。

 落語家が遊郭で修行する。それは、虚実のあわいを生きる。あるいは、虚と実を行き来する。それが、言葉の芸に不可欠だからそうする。
 あるいは、一般人(娑婆を生きる人)が遊郭に行ったり帰ってきたりする。落語家ほど忙しくもないが、虚と実の間の行き来であるには違いない。
 郭言葉(男をとろかす感覚の言葉)と娑婆の言葉(ゼニカネの心配をしたりする理路の言葉)との間の行き来、つまり虚と実の間の行き来をやれるのは、落語家の才能が必要とまでは言わないまでも、普通の大人である必要があります。

 先日書いたように、子供というのは虚も実も区別がありません。現実もおとぎ話も区別できません。理路はまだできておらず、従って虚も実も同じものです。いや、実しかない。正真正銘の「野暮」しかないのです。だからあんなにも子供というのは可愛いのです。
 「野暮」しか持たない=実しかない子供に、日本語磁場における英語という虚をもたせる。しかも、感覚を通路に使って、注射するように体に入れる。犯罪だ。国家が罰しないだけだ。人倫からすれば、あるいは語学論からすれば、犯罪である。なぜならその感覚が根を張るための場がないから。

 2~4歳の子供に英語を「やらせる」のに、「感覚」から? 「体」から!
 ふざけるんじゃねえ。
 どこまで、無神経・無思想なんだ。こばたまは、頭が悪すぎる。

 というような骨子の遊郭論=こばたま塾論を構想しています。

    § § §

磁場 vs. 教室 対 素読舎 投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 6月 2日(火)02時24分27秒

 いわゆる英会話教室、現今では、親子だましの幼児英語教室でもまったく同じだが、「磁場」ではないものを「磁場」であるかのようにいつわることがまだ続いている。
 そのキョーシツに、ガイジンがいても、そこは「磁場」にならない。
 ガイジンは、「磁場」ではなく、「磁力」にしかすぎない。ガイジンは日本語「磁場」では、「個人幻想」を発するだけだ。それを自覚できないガイジンなら、お馬鹿であるから、語学的マスターベーションしかできない。

 磁場を欠いた磁力。それが日本に在住する英語ネイティヴ(ガイジン)である。存在としては、ゲンダイシジンみたいだが・・・。稲川方人みたいだが・・・。

 磁力にしかすぎない者を相手に「磁場」を形成する能力は、4歳くらいまでの幼児だけが持っている。この能力は4歳までの子供なら、どんな言語の磁場に生まれた子供でも、普遍的に持っている。そして、4歳までの子供「だけ」が持っている。
 この天与の能力(普遍文法?)を使って商売の道具にすることは犯罪だ。子供をおもちゃにする権利が誰にあるというのか。こばたま塾は、「遊郭」だ。子供をおもちゃにする「遊郭」なのである。
 いいか。2~4歳の子供をこばたま遊郭に引きずり込めば、「日本語を覚えるのと同じように英語を覚える」。それは、こばたま遊郭(=塾)の方法のせいではないのだ。それを可能にしているのは、ただただ4歳までの子供の「全的な受動性」があるからなのであり、それ以外の何が原因でも理由でもない。4歳までの子供は、全的な受動性がそのまま能動性なのである。
 大人になる過程で人が間違いなく失うものがそこにある。どんな言語磁場においてでも、人が必ず失わなければならないものを、それほどの黄金を、商売の道具にするのか。なぜそこにそれがあるのか、なぜそれが必ず失われるのかを考えることがないのか。

 こばたま塾の存在が犯罪でなくて何なのか。国家が罰しないだけだ。今後、それをだんだんはっきりさせてやる。
 「磁場」のない場所で、英語を種のままに持たせるのではなく、種に水(ガイジンの磁力)を与えて芽を出させてしまう。英語の苗なんてものが枯れるに決まっている日本語の「磁場」で、英語の芽を出させてしまう?

 誰もこれまで、これを犯罪だと言わなかっただけだ。

 ガイジンは何をどうしたって「磁場」ではない。
 「磁場」を欠いて、「磁力」だけ発する「個」にすぎない。
 こばたま(=やりて婆)は、何も知らない子供を相手に、「磁場?」を作る。
 「対幻想」だけで言語を生きる幼児を相手に、大人の魂胆が混じったものを与えて「磁場?」を作る。

 それは「母語」の時代なのだ。つかのまであるが、ほんの5年ほどの間であるが、子供の黄金時代がそこにあるのだ。なぜ、黄金を銀や銅にするのか。母だけが太い根であればいいわずか5年ほどの時間なのだ。なぜそこに罅を入れるのか。
 母だけが全世界であり、父は付録のようなものでいい時期が絶対に必要なのだ。
 5歳を過ぎれば、付録の父が実は本体(であるときがある)と子供はわかり始める。
 その5歳に至る以前に、子供に「磁力」を与えて、ガイジンと「磁場?」を作らせる?
 ガイジンを使って、対幻想の場を作れば、ヨソノクニの共同幻想を注射することになる。
 日本在住の父というものは、もうどこにもいないというのか。
 アホとしか言いようがないが、こばたま(幼児英語教室)はそれをやったのだ。

 5歳未満を相手にするあらゆる幼児英語教室は存在自体が犯罪である。
 5歳を過ぎた子供相手でも、「生きた英語?」を元にする英語教室はその存在が犯罪である。それを日本コッカのモンブカガクショーが手がけようとしている。昔から言い続けてきたことだが、モンブカガクショーは馬鹿の集合である。

 なぜ、これらをギロチンにかけることがないのか。
 明らかな犯罪であるのに。
 神も仏も糞もない。神に対する犯罪でもなければ、仏に対する犯罪でもない。もちろん、国家や社会に対する犯罪でもない。こばたま(幼児英語教室)が犯している犯罪は、ただただ「子供」と「言葉」に対する犯罪なのである。黄金を銀や銅やに鋳造する。贋金づくりである。こばたまども(幼児英語教室ども)は、贋金を日本円と取引しているのである。まことにグローバルなことではある。それほどに世界はただれているのだ。
 こばたま塾を使った子供が、後年、問題行動を起こすようなことがあった場合、その根にこばたま塾があったせいかもしれないと、誰もが疑わなくてはいけない。こばたま塾でない場合もあるかもしれない。しかし、全的受動性=能動性を商売の道具に使ったあらゆる教育機関は疑いを持って見るべきである。見られるべきである。人々は、こばたまから目を離してはならない。

 素読舎は、「磁場」でもなければ、「教室」でもない。
 娑婆で、とことん、徹頭徹尾、すかんぴんに、一から十まで、理解されない。こばたま塾が生きられるような娑婆であるなら、素読舎が理解される必要は、まことに心底、目の黒いうちは、ない。

 塾というものがどこにあるか。あれらが塾であるならば、素読舎は塾でさえない。

(この文章は、「快傑ハリマオ3号」からの転載です。)


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