語学論

予習のしかたについて。「切断読み」について。

まつさん
 予習についてちょっと質問があります。レッスンを始めた頃、基本的に予習はしないで復習をするように言われたんですが。

根石
 そうです。始めたばかりの人にはそう言うんです。まつさんはもう予習をしてもらって構わないですよ。

まつさん
 そうですか。

根石
 ええ。自立練習をやっている人たちは予習をやってもらって構わないと思います。ただ、どういう形で予習をしているのか聞きたいのですが。

まつさん
 自立練習でここまでは行きそうだな、と予測をたてて予習をしています。

根石
 ああ、そういうことはどんどんやってください。

まつさん
 通常のレッスンの部分はあえてまっさらな状態で受けようと思うのですが。

根石
 レッスンの部分の予習をやってもらっても全く構わないです。
 ただ、予習で辞書を引く時、英単語と日本語を突き合わただけで安心してしまう、というような練習をしてしまう人が多いですね。そういう人がほとんどだと思います。要するに日本語があると安心してしまうんですね。日本語を見れば意味がわかるから。そうではなくて英単語から意味が出てこなくてはだめなんです。
 辞書をひけばいくつかの日本語の訳語が載っていますよね。

まつさん
 そうですね。

根石
 それを煮詰めて、それに全部共通しているイメージとは何なんだということをやります。
 たとえば home という単語は「ふるさと」とか「家庭」とか「故国」とか…ほかにもいろいろ載っているかと思いますけれど、それらに共通しているのはこんな感じだな、こういうことだな、というのがあるんですよね。いくつか出てくる日本語を見まわして、その中で、こういうことならば、こういうイメージだろう、こんな感じだろう、というのをつかむわけです。その感じを自分の中で失わないようにしながら書き続けるんです。言いながら書くということをやるんです。私の教材の中に出てくる単語は、「言いながら」の部分はレッスンで扱いますので、むしろ自分でやる時には「書きながら思う」というところに力を入れてやってもらいたいです。「こういう感じ、こういうこと」というのを、自分の中に置き続けながら書き続けるのです。

まつさん
 日本語を間に挟まないでということですか。

根石
 ええ、そうです。日本語をにらんで、「こういう感じだろう」という、その感じだけを自分の中で持ち続けて書き続けるんです。
 それが「書きながら思う」ということなんですけれども、予習ではそれをやってもらうのがいいと思いますね。

まつさん
 予習の段階でですね。

根石
 ええ。まつさんの場合は予習をどんどんやってもらって結構です。

まつさん
 はい。わかりました。それともうひとつ質問なんですが。
 自立練習の時には少し速めに読むようにしているんですけれど、それが「回転読み」の完成した状態と言っていいのかどうかわからないんですけども…。

根石
 「回転読み」をどう考えるかということなんですが、その時の自分の限度、「ここまで、これ以上は無理」というところまでいけば、それで「回転読み」の完成形なんですよ。

まつさん
 それはもう、その文章とか人それぞれで違うということですか。

根石
 ええ、人によって違うはずなんですけど…要するに口の動きとしては口はこれ以上は回せない、スピードもこれ以上は無理、はっきりさせるといってもこれ以上ははっきりしない、ここが限度、というところ。これはやればわかるんですけれども、それが完成形です。

まつさん
 はい。

根石
 だから工場で作る製品の完成品というのとは全然違うんです。その時々のその人の限界というか、限度というか、それが実現すればそれで完成形です。
 それと、単に繰り返し読むというのと「回転読み」の違いというのは、文の頭としっぽをくっつけてしまうか、くっつけてしまわないかということだけです。たとえば "Do you like it?" ならば、"do you like it do you like it do you like it do you like it do you like it" というように頭としっぽを完全にくっつけてしまう。これはもう声として扱っているのではなく、完全に音として扱っています。このようなことは生活の中ではお経を唱える時ぐらいしか言語現象としてはないんですけれども、語学だったらOKです。
 人に話す時はとてもこんなことはできるはずがないんですけれども、語学の練習ですから、一向にかまわないのです。そうすると本当に口をいじめるのに具合がいいんです。口の筋肉の動きを鍛えるのために。

まつさん
 はい。

根石
 ところで、小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」を作ってから、これまで掲示板をやりながら考えてきたんですが、「回転読み」は絶対やらなければいけないのか、といったら、絶対やらなければいけないとは思ってないんですね、今は。
 「回転読み」は筋肉を鍛えるというか、いじめるにはやった方がいいとは思います。ですが単に繰り返し読んでいるのでも、本当にそれが熟せば、こなれれば、その先の「切断読み」に入れます。
 だから、
 
 「技法グラウンド」・繰り返し → (「回転読み」) → 「切断読み」
 
 ということが言えます。

 繰り返し読みでも、「回転読み」でも、音を鍛えているのです。口の筋肉を音用に鍛えている。要するに音の練習です。この音の関連が「切断読み」への一つの流れです。
 もう一つの流れは「言いながら書きながら思う」のうちの、特に「書きながら思う」です。こちらは意味・イメージの流れです。
 これも、
 
 「言いながら書きながら思う」 → (「電圧装置」) → 「切断読み」
 
 ということが言えます。
 つまり、意味の流れの練習と音の流れの練習が合流するところからが「切断読み」なんです。
 意味が自分の中に生ずるスピードで読む。だから切断されてしまう、というか、切れてしまう。どんなスピードで自分の中にイメージが流れるか、生じるか、というのは人によって違うのです。
 外在的なスピード、たとえば耳で聞いたCDのスピードに自分を従わせるというのは、自分が決めるスピードではない。他人が決めたスピードなんですね。練習している人にとって。
 自分の中でイメージが生じるスピードに従って音にする、というのが「切断読み」ですから、何が一番優先されているかと言ったら、イメージの流れなんです。そのスピードに音を従わせる。だから、慣れていない人は当然、ブツブツ切れます。それで一向にかまわない。

 音の流れと、意味・イメージの流れの二つが合流して「切断読み」になります。音の方はレッスンでも扱いますし、教材の中で繰り返し繰り返し同じ文が出てきますので、音の方はジワジワと全体的によくなっていく、というようになると思います。けれども、意味・イメージだけは自前で作ってもらう以外どうしようもないんです。

まつさん
 そうですね。

根石
 イメージを代わりに作ってあげるっていうことはできないんですよ。
 
まつさん
 そうですね。
 
根石
 その二つの流れのうち、イメージの流れの方を、つまり「言いながら書きながら思う」ということをしっかりやってもらいたいと思います。そこさえしっかりやってもらえれば、「切断読み」もやってもらっていいと思います。
 「書きながら思う」ことによって作ったイメージが「切断読み」の中ですぐに使える。音の流れの方では、本当にこなれている音がすでにできているのであれば、「切断読み」の切断部分、切れ目がどんどん小さくなっていって、だんだんつながってくる。要するにイメージの流れが速くなれば、音がつながってくる。
 そして普通のスピードで読んでもイメージが流れている、という段階になれば、それはもう使える英語です。「このくらいのスピードを普通使っているよな」というくらいのスピードでイメージが流れるのだったら、それを外へ持ち出しても使えるということですね。
 理屈はそういうことなんです。なかなか実際にやる人があまりいないだけの話で(笑)本当にいないですよ。國弘正雄さんの只管朗読なんて、果たして國弘さんの言っているレベルでやっている人が、どれほどいるものなのかなあと思うんですよ。

(2010年1月8日)


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