語学論

「つなげる」という問題

「つなげる」という問題 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 6月29日(火)04時05分10秒

 1万行までの「つなげる」と、1万行を越えてからの「つなげる」は違うのだということを今日、村田君に言いました。
 何が違うかというと、1万行を越えた生徒に言う「つなげる」は、1万行を扱う間に生徒の体感としてできている音の実質を踏まえたうえで要求する「つなげる」なのだから、ということです。

 1万行程度を扱えば、生徒の体感として「つなげる」は実感されています。それなのに改めて「一段とつなげる」という言い方をして、新しいことを要求するのはなぜなのか。

 一番わかりやすい説明は、リスニングのためだというものです。
 私もひとまず今のところはそういう説明をしています。
 机上の練習でなく、実際に英語を使う場面なら、いくらぶつ切れに切れてしゃべっても何の問題もない。ぶつ切れの原因は、「考えながらしゃべる」ということにあるからです。考えながらしゃべれば、誰だって、ぶつ切れになります。しかし、よく考えてしゃべっていても、途中で、相手が突然怒り出し、土砂降りの早口でしゃべり出したと仮定してみていただきたい。この場面では、しゃべりのスピードはすべて相手が決めるものです。
 意識しようとしまいと、考えながらしゃべる時、しゃべりのスピードは自分が決めています。しかし、相手がいきなり怒り出し、突如早口になったというわかりやすい例を持ち出すまでもなく、本来、「聴き取り」においては、しゃべりのスピードは他人が決めるものです。相手が勝手に決めるものです。自分が決められるものではありません。

 つまり、相手に応じるために、「もっとつなげる」も「もう一段とつなげる」も必要だということです。

 しかし、「つなげる」が必要な本当の理由はそれに尽きるものなのだろうかと考えています。

 日本人が普通に暮らしている場合、普段の言語は日本語だけです。
 そういう日本人が英語を勉強して、いくら個々の音の質がよくても、「つなげる」ということにポイントを絞らなかったら、教室での優等生ができるだけです。使える英語には至りません。
 なぜなのか。

 「つなげる」にポイントを絞らないで、個々の音をていねいに発音するだけのレベルにとどまった場合は、頭が「英文を組み立てること」から抜け出せないからです。

 「組み立てる」ことをやるのはしゃらくさい余力です。そんなしゃらくさい余力を持っていて、本当に考えることなんてできるのか。本当に考える力というのは、語学力とは別のものですが、もしある一人が考える力があったとしても、「組み立てる」なんてことに余力を残しておいたら、その人に異言語で考える余地はない。異言語というのはそういうもののことです。

 勢力図を念頭に置いてものを言うなら、SOV磁場においてSVO言語を聴き取りしゃべるという行為は、「組み立てる」ことを脱ぎ捨てる行為のことです。なかなかうまくいかないにせよ、めざす方向に向いている矢印はそういう矢印です。

 この矢印を否定できない間は、机上の練習における「つなげる」も否定できないのです。「つなげる」ことによって獲られるものが、磁場の強制力より弱いにせよ、「つなげる」ことを少しでも否定したなら、学習者から手も足ももぎとることになります。私の語学論においては、「つなげる」こそが、最重要な突破口です。それが「日本にいてやれること」を有効にする鍵です。

 吉さんがコーチをやる枠で私が、「最近、口の筋肉の動く範囲を広げろとか、音の粒をはっきりさせろということを生徒に言っているんだ」と言ったところ、吉さんが「そっちの方がいいと思います」と言ったので、「そっちの方がいいとかいう問題ではない」と強い口調になりました。
 まったくそういう問題ではない。
 吉さんの「しゃべり」は、英語磁場において本格的に立ち上がったものだと推測していますが、それは、「磁場に無意識をいじられたこと」によって立ち上がっています。それがいいとか悪いとか言いたいのではない。それはそういうもんだと言いたいだけです。そしてさらに、日本には英語磁場はないのだというきわめて単純なことが、どれほどわかってもらえないのかということです。頭でなら誰にでもわかる。しかし、方法的にわかる人はほとんどいません。とりわけ、磁場帰りの人には、日本語だけで生きる人たちの「語学」がわからなくなるのです。逆説めきますが、英語ネイティヴや磁場帰りの人ほど、語学のコーチや先生に向かない人たちはない。

 音をはっきりとていねいに言うことの方が、「つなげる」ことより大事だなどということは金輪際ない。練習の前後関係において、「はっきりとていねいに」が、「つなげる」に先立つということが言えるだけです。そして、1万行という量をていねいに扱うことで、素読舎は先立つべきものを先立たせています。

 文を「組み立てる」しゃらくさい余力をなくす練習でしか、(英語磁場を欠いた場所では)本当に「組み立てる」(=考える)ことなんか起こりっこないということが磁場帰りの人にはわからなくなるのです。「磁場」が無意識を動かしたことを意識化できないからです。これは、吉さんに限ったことではありません。磁場帰りはみんなそうなんです。
 磁場帰り(と英語ネイティヴ)は、自分がぺらぺらやれるとか、英語がよく聞き取れるとかいうことを看板にしています。そういうのを看板にするならするで結構だが、生徒がぺらぺらやれるようにするとか、生徒が英語をよく聞き取れるようにするとかが本当のポイントじゃないんかい。いつもそう思います。
 「生徒が」しゃべるようになること、「生徒が」英語が聞き取れるようになること。この最重要のポイントを外したら、自分がぺらぺらやれるとか、自分が英語が聞き取れるとかいうことには、何の意味もない。少なくとも、コーチやら教師やらをやる場面においては、何の意味もない。
 それは、英会話学校の英語ネイティヴのセンセーたちが見事に立証したことです。私の語学論では最初に結論の出ていたことであるにせよ、何の意味もないことを立証したことについては、ごくろうさんを言い、そんなくだらないことを立証させた生徒たちにもごくろうさんを言いたい。もちろん、大いなる皮肉としてです。

 吉さんは、フレーズや文を「一つの単語を扱うように扱う」やり方を提示しています。今日のレッスンでも、「一つの単語を扱うように」という指示を出していました。生徒(キリピー)は、素直に従っていて、問題の文をクリアしていました。しかし、キリピーは、私の「あいうえおフォニックス」や、個々の音の扱い方や、音のぶつかり合いの処理の仕方を私がさんざんに指示した生徒です。その生徒だから、「一つの単語を扱うように」という言い方が有効だったのだと考えています。
 簡単に言えば、私のコーチで1万行を越えた生徒になら、吉さんの言い方は有効かもしれないということです。それが有効になるための、1万行という実質があるのだということです。
 異論があるなら、素読舎での練習を始めたばかりの人に「一つの単語を扱うように」という指示を出してみて下さい。「もっとつなげる」より、もっとずっとうまくいかないはずですから。

 きちがい沙汰のように「つなげる」のでいい。
 それを欠いたら、「磁場」を欠いた場所で、無意識が随伴することはありえない。
 「ありえない」と断言するほどに大事なポイントだと思います。

 村田君も吉さんも、先生臭さが抜けないところが気になっています。
 この点では、小川さんにはあんまり先生臭さがありません。
 先生臭さというのは、優等生臭さと言ってもいいと思っています。
 こういう言い方をすると、どなたもこなたも気を悪くするかもしれませんが、私のことに限ってものを言うなら、私は絶対に先生ではありません。じいさんになってきたので、センセイなんぞと言われても、虫酸が走ることはなくなってきましたが、昔は虫酸が走って走ってしょうがなかったのです。冗談じゃねえや、俺は職人だ、気持ちの悪いこと言わねえでくれ、と。
 虫酸が走ることはなくなっても、気持ち悪いという職人の感覚は今でもしっかりとあります。(村田君も吉さんも、「先生」と呼ばれることにあまり抵抗のない人じゃないかと思っています。)

 例えば、屋根屋が、屋根の上で弟子から「先生」なんて呼ばれたら、弟子を蹴飛ばして屋根から転げ落とすとか、自分が平衡を失って、転げ落ちてしまうとかするだろうと思います。職人というものはそういうもんだと思っています。
 およそ「先生」なんかというものとは違うのです。冗談じゃねえ。英語をいじって「先生」だと? きたならしい。

 ええと、話はどうなっていたんだ?
 ていねいな発音、口をはっきりと動かすこと、音の粒をくっきりさせること、それらは全部大事だが、そんなことより、「つなげる」の方が何倍も大事なんだということだ。

 私ら職人は、「教室の優等生」なんか作っているんじゃない。
 おままごとをやっているんじゃない。



根石さんへ 「つながる」に対してお返事 投稿者:吉 投稿日:2010年 6月30日(水)06時23分39秒

根石さん、ありがとうございます。  プリントアウトしていますので、
今後も思い出すたびに丁寧に読み返します。

イライラさせているのは、よく分かっております。
私の人間的にゆるいところに、根石さんのイライラの本当の原因があるのじゃないかと思っています。
そういうゆるさが「おままごと」と言わせるのではないかと想像いたしました。

磁場帰りでもありますが、しかし、根石さんの方法を嗅ぎつけ素読舎まで辿りつきました。
「つなげる」に関しては、僕の中で深い理解が訪れるまでお待ちいただけないでしょうか。
先日もお願いしましたが、再度お願いいたします。

前回の、、、「吉さんは1万行まで人を育てたことがないから、、」という一言で、
もう答えがでているのだということです。 これを言われたら言い返せません。
私の中に、ゼロからの人を育てる経験値を地道に増やしていくしかないということだと思います。

根石さんはとりあえずの目安として1万行と言いますが、
これも大勢の生徒さんを育ててきた結果、根石さんが感じた行数であるわけです。
この1万行というおおよその行数も、私が自分の感覚で辿りついた(納得した)行数でないと、
とうてい使い物にならない目安(知識)です。

そうでなかれば、行数をただ上滑り、空回りをおこすことになるでしょう。

1万行を超えたあたりの生徒さんの変化を、根石さんにどんなに詳しく教えてもらっても、
この大風呂敷でどんなに活字になったものを拾って理解したような気になっても、
それは遠くに飾ってある絵を眺めている状態と、なんら変わりはないということです。
やはりこれは経験からでしか到底言い切ることはできないと思っています。

> 吉さんの「しゃべり」は、英語磁場において本格的に立ち上がったものだと推測していますが、それは、
>「磁場に無意識をいじられたこと」によって立ち上がっています。
> それがいいとか悪いとか言いたいのではない。それはそういうもんだと言いたいだけです。

そうです。 それだけのもんです。
しかし、私はこの日本で根石さんの方法に出会えて成長を続けることができました。
根石さんから一時離れていた間も「英語は辞めずにいた」
その結果の音を現在保持しているということは付け加えさせて頂きたい。

今の私は、自分の音読用の音に加え、初心者向けや、
中級者向けのコーチ用の音を個別に練習もします。
そこにはハッキリとした「意識」があるということを、お伝えしたく思います。
今の私の音読は、辞書の発音記号を規範にした「語学的な音なんだ」ってことです。

> そしてさらに、日本には英語磁場はないのだというきわめて単純なことが、
> どれほどわかってもらえないのかということです。
> 頭でなら誰にでもわかる。しかし、方法的にわかる人はほとんどいません。
> とりわけ、磁場帰りの人には。
> 日本語だけで生きる人たちの「語学」がわからなくなるのです。
> 逆説めきますが、英語ネイティヴや磁場帰りの人ほど、
> 語学のコーチや先生に向かない人たちはない。

根石さんに「磁場帰りはわかるまい」「磁場帰りにはコーチに向かない」と言われ続けてきます。
正直、またかよ、、という気持ちでゲンナリすることもありますが、
こう思われるのは根石さんの気持ちですから、かまわないです。
否定しません。 しかし、僕の気持ちを書かせていただけるなら、
文の最後に、「吉さんならいつかわかってくれると思います」と書いていただけると気持ちが救われます。

「磁場帰りにはわかるめえ」を繰り返し言われていると、本当に自分では(磁場帰りでは)
素読舎のコーチはダメなのだろうという想いが摩り込まれていきます。

私はホトホト弱ってしまうのです。
これは本当にガックリで、前にも書いたことがありますが、
村田さんや小川さんを何度かうらやましいと思うことがあります。
私の学習歴は(留学した経験などは)、
残念ながらキャンセルすることができないのですね。

>  ていねいな発音、口をはっきりと動かすこと、音の粒をくっきりさせること、
> それらは全部大事だが、そんなことより、
> 「つなげる」の方が何倍も大事なんだということだ。

はい、わかりました。
しかし、まだまだ僕の中の深いところで落ちた理解ではありません。

独学での修身を覚悟で(コーチ失格を覚悟で)書きますが、
「つなげた音」への導き方も様々なんじゃないかと思っているところもあるのです。

Good morning を 例えで書きます。(リズム感をカタカナで表記しやすいので、、)
Good morning. を 「タッタ・タータッタ」のリズム感で読んでいる人に向って、
「もっとつなげて、、」という指示だけで良いのかどうか考えます。
「もっとつなげろ、、」と指示された生徒さんは、「タッタ・タータッタ」を縮めて読むだけで、
(速く読むだけで、、)「タッタ・タータッタ」のリズム感が崩壊をはじめることはありませんし、
もしも崩壊にいたったとしても、そうとうのエネルギーを使います。

つなげた音の Good morning. のリズム感は、「タッ・タータン」ですね。
僕はこのリズム感をゆっくりでも最初に教えてしまっても良いのではないかとボンヤリと考えたりもします。
「タッ・タータン」のリズム感だと、テンポを速くしても遅くしても「つながっている」のです。

わかりやすくGood morningを例にして書きましたが、
文章が持つつながったリズム感を、ゆっくりハッキリと意識してもらえれば、
テンポがゆっくりでもはやくても「つながり」のあるリズム感をキープすることはできると思うのです。

「タ・タ・タ・タ・タ」のリズム感を持っている人に、
つなげろと言っても、、「タタタタタ」にはなるのですが、
本来の英語が持つリズム感は、「タカ・タッ・ターン」だったりします。
このリズム感は、テンポを速くしても遅くしても「タカ・タッ・ターン」です。

あの時「そっちの方が良い」と僕が言ったのは、ゆっくりハッキリと口を動かして「つなげる」という指導を、
指されて根石さんが言っていると思ったからです。
最初にゆっくりハッキリ意識させて「つなげて」、、そのリズム感とフレーズ感を保ったまま、
段々とスピードを上げていくのが良いのではないかと丁度考えていたのです。

また、ゆっくりハッキリとつなげたリズム感は、
早い時期から指導できてしまう気もいたします。
ここで、根石さんの言う「言い難いまま言いぬけろ」(だったっけかな?)と、
僕の気持ちがぶつかるのです。

この辺りのことは、生徒さんの音のクセをマネして、どういう風に指導していいのか、
自分なりに検証中であります。

しかし、まだまだ自分の考えを語りぬける経験値が圧倒的に少ないのです。
ここで「吉さんは1万行まで人を育てたことがないから、、」という一言に立ち戻ってしまいますが、、。

はるか先を歩んでいる根石さんが言っていることですから、「きっとそうなんだろうな~」とは思います。
しかし、まだ自分の中で深く理解し納得していないものを「はい、わかりました」ということはできないのです。

「根石さんが言っていたことはこのことか~、、」と、そういう言葉が自然に僕の口からもれるのは、
10年とか20年後になるかもしれません。 なんと言っても経験が必要ですから、、。
もしかしたら、根石さんが亡くなった後で、僕の中で深い理解がおきるかもしれません。
もしかしたら、僕が明日交通事故にあって死んじゃうこともあるかもしれません。
理想としては、できればお互いが生きている間に、理解を共有したいものです。

素読の根底には、「相手の理解するタイミングを尊重する」という考えが流れているはず。
辛抱強く一緒に考え、ヒントを与え続けていただけませんでしょうか。
どうかイライラせず、私の中で理解が起こるのを待ってください。
できれば磁場帰りはダメだという一言で片付けずに、、どうしたら私が理解にいたるのか、
一緒に考えていただけると嬉しく思います。 よろしくお願いいたします。
これが今の私が書ける精一杯です。

投稿は悩んだのですが、恥を覚悟で、新鮮なうちに投稿することにいたします。
生ものらしいのであたったらごめんなさい。
出社しないと遅刻ギリギリ時間なので、、ポチ (← 投稿ボタンを押す音)



吉さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 6月30日(水)12時50分53秒

 麦刈りの最中ですので、なるべく簡単に書きます。言葉の足らないところがありましたら、後で訂正します。酒は入っておりませんが、寝起きです。

>根石さんはとりあえずの目安として1万行と言いますが、
これも大勢の生徒さんを育ててきた結果、根石さんが感じた行数であるわけです。
この1万行というおおよその行数も、私が自分の感覚で辿りついた(納得した)行数でないと、
とうてい使い物にならない目安(知識)です。

 「1万行」という語にとらわれる必要はありません。

>素読の根底には、「相手の理解するタイミングを尊重する」という考えが流れているはず。

 私の言いたいこともこれです。

>「もっとつなげろ、、」と指示された生徒さんは、「タッタ・タータッタ」を縮めて読むだけで、

 「縮めて読むだけ」の状態を抜け出すために、「縮めて読むだけ」という口の動きが必要なんだと言っているのです。だから、1万行までの間は、「縮めて読むだけ」だっていいと言っているのです。
 その間に、「基礎となる口の動き」がようやくできてくるのです。
 (吉さんの奥さんに起こったことと同じです。奥さんのそれまでの英語体験にはなかった現象が現象していたはずです。)

>つなげた音の Good morning. のリズム感は、「タッ・タータン」ですね。

 Good morning. なら、吉さんのやり方でうまく行くでしょう。2語だからです。私がイントネーションの自己決定力に関して、語数というものにずっとこだわってきたのは、4、5語くらいまでは、「口の動き」ができていない多くの人にも簡単に「うつる」が、7、8語から10語を越えたとたんに急にできなくなる現象がはっきりとあるからです。

>僕はこのリズム感をゆっくりでも最初に教えてしまっても良いのではないかとボンヤリと考えたりもします。

 例えば、15語を扱う人でイントネーションがうまくいかない人に、「もっとつなげろ」を「使わない」方法でやってみてください。生徒は混乱するだけです。あるいは、「お教室の優等生」ができるだけです。
 逆に「もっとつなげろ」を使い、基礎としての「口の動き」(筋肉の強度)ができている人に(1万行を越えた生徒に)、「リズムとして示せば」、すんなりできてしまったりします。

 吉さんの方法は、音楽的なセンスのある人向け、優等生向け、あるいは英語フリーク向けです。
 私の方法は、万人向けです。(ただし、方向性をつかんでも「自分で」歩き出そうとしない人は「見込みがありません」。これはしかし、実は語学の問題ではありません。)

 「基礎としての口の動き」というものがある。それは、「もっとつなげろ」→「もう一段とつなげろ」→「口の動く範囲を大きく使え」→「口の動きに力を入れろ」という順で指示し、それらが全部備わった口の動きのことです。それを実現する過程においては、個々の音を扱い、連音処理(音のぶつかりあいの処理)などを行うことは吉さんがご承知の通りです。
 個々の音の扱いや、連音処理は吉さんはよくご存知ですが、私がここで「基礎としての口の動き」と言っているものが、いまだつかめないのだろうと推測しています。

 お経みたいにだらだらつながっていたってかまいやしない。それが「基礎」になる。日本語だけで生きている日本人には、その形でしか「基礎」は作れない。

 「基礎」ができた人に、私はCDを使えと指示します。その段階の人は、まるで短期間にCD音(複製音声)を見事に媒介にします。高校の頃に、かたさんの音に実現しました。その後、大学に入って、かたさんはその音を崩してしまいましたが・・・。

 「基礎としての口の動き」ができていない人に、いくら「CDを使え」と言っても、「真似して言え」と言っても、「単語一つを扱うように」と言っても無駄です。生徒の口の動きが「こちら岸」のものであり、CDやコーチの口の動きが「向こう岸」のものであるということが現象するだけです。

 「最初に教える」方法があるなら、教えて下さい。そんなものはありません。だから、「真似して言え」が跋扈しているのです。もし、「最初に教える」方法があるとしたら、吉さんが自分で作る以外にありません。語数別分類を使い、同じ語数の中をいくつものパターンに分類することになるのかもしれません。

 リズム感を「教える」のではありません。Good morning.の d が「弱形」になるまでの「口の動き」(筋肉の強さとしなやかさ)を「作る」だけです。
 「教える」のではなく、「作る」のです。

 「弱形」は単なる弱い音ではない。強い筋肉の動きが「拍としてだけ使う」弱い音のことです。
 例えば「弱形」について、吉さんは、弱い音だから誰でも簡単に出せると言っていることになると思っています。私はそうじゃないと言っているのです。

 「1万行」までの間に、生徒の口の動きがひきしまってくるという過程があります。新しい筋肉(あたらしい口の動き)ができてくると、ようやく動きに無駄がなくなってきて、音がひきしまってきます。そういう矢印が最初に生まれるのが、「1万行」をやったあたりということです。「もう一段とつなげろ」は、生まれた矢印に強度を備えるためです。
 これに関しては、生徒さんたちが体感を持っているはずですから、生徒さんたちに発言して欲しいと思います。私が言うより、ずっとはっきりするかもしれません。

>素読の根底には、「相手の理解するタイミングを尊重する」という考えが流れているはず。

 素読はその「タイミング」が生じるように、絶えず準備する(作る)のです。
 単なるお題目(教える)ではありません。
 「初心者を相手に1万行の面倒をみないとわからないよ」と言っているのもその意味でです。

 吉さんは、「磁場における自然なイントネーション」を相手に指示するにはいいコーチでしょう。しかし、それを「生徒に実現する」には、自分が「自然なイントネーション」を持っていたって駄目なんです。
 それでいいなら、英語ネイティヴは一人の例外もなく、いい教師であるはずですが、英会話学校の英語ネイティヴが役立たずだということは歴史が証明してきたことです。

 生徒の側に、「基礎としての口の動き=筋肉の強度としなやかさ」が備わらなければ、教師側の「自然なイントネーション」は無駄になるのです。

 「つなげろ」「もう一段とつなげろ」という指示以外に、「基礎」としての口の動きは作りようがないと私は確信しています。
 これは私の方法の根幹です。



根石さんへ お礼  投稿者:吉 投稿日:2010年 6月30日(水)22時40分26秒

根石さん 丁寧なお返事ありがとうございました。
読ませていただき、胸の内にすがすがしい爽快感が広がります。
私の今の精神は、非常に穏やかで心地よい状態です。

> 麦刈りの最中ですので、なるべく簡単に書きます。

お忙しい中ありがとうございました。
みごとなものを読ませていただいたと感謝しております。
これだけの補足をしていただいて、やっと私の中に浸透してきました。

> 個々の音の扱いや、連音処理は吉さんはよくご存知ですが、

はい、、リエイゾン、イリージョン、アッシミレイションなどは、
知識として習得していますし、また自分でもそういう音の練習を学生の頃した時期があります、、

> 私がここで「基礎としての口の動き」と言っているものが、
> いまだつかめないのだろうと推測しています。

まったくその通りだと思います。 教えるのがよほど難しい生徒さんに当たらないと
まずそこのところがなかなか理解できないのだと思います。

> リズム感を「教える」のではありません。

たしかにそうなのですが、
英語のもつフレーズ感を感じてもらうためにリズムを使うことはできると思います。
フレーズ感の違いを「感じてもらう」「認識してもらう」ということです。

> 「初心者を相手に1万行の面倒をみないとわからないよ」と
> 言っているのもその意味でです。

はい、、しかし、初心者であっても音取りのセンスのある人ない人さまざまで、
1人や2人の面倒をみただけじゃ、わからないとも思います。
その意味で、長い目でみてやってくれ(待ってくれ)とお願いしています。

何にしてもありがとうございました。
根石さんには書くことに相当のエネルギーを割いていただきましたが、
思い切って書いて良かったです。 大きな収穫でした。

本職の仕事で片付けなければいけないことがありますので、
今夜はここでいったん失礼いたします。
もやもやの晴れた気分です。



吉さん、根石さん 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月 1日(木)02時15分55秒

<略>
吉さんの御陰で、私自身、今まで薄らぼんやりとしか理解出来ていなかった「語数分類の意義」「つなげるということ」「なぜ1万行なのか」などについて、理解を深める機会を得ました。ありがとうございます。




根石さんへ かわの君との対話 投稿者:吉 投稿日:2010年 7月 1日(木)23時06分20秒

<< かわの君との対話 >>

会社にかわの君(仮名)という友人がおります。
部署や仕事内容を超えたお付き合いをさせていただいております。
読んでいる本や雑誌などの趣味が近く、セミナーなどの勉強会にもたまに一緒にでかけます。
先月は、彼に誘われて今野華都子さんという人の講演会を一緒に聞きに行きました。
週に1度、ランチ休みの時間を潰して勉強会を2人で続けていたこともあります。
留学経験なしのまま(日本在住のまま)努力され、米国公認会計士の資格まで取得されている人です。
少林寺拳法の有段者で、最近は合気道もはじめられました。
まったくの同い年なのですが、彼から学べることは多く、
お互い良い意味で刺激しあえる仲だと思っています。
こういう人を尚友(*)と呼ぶのだろうと思います。

この彼は社内でただ1人、私が素読舎とつながりがあることを知っている人物です。
最近の根石さんとの大風呂敷でのやりとりを(「つなげる」という問題関連の記事を)
プリントアウトして彼に読んでもらいました。

かわの君:「読ませていただきましたよ~。 いや~、根石さんって厳しいお方ですね~。
そして、吉さんもよく書きましたね。
「ごめんなさい精進します」の一言ですませることもできるのに、偉いですよ。」

吉:「あれだけの文章を書くのにどんだけのエネルギーを根石さんが使ったかわかるからね。
さすがに無視はできないよ。 おかげで良い文章を読ませてもらったし、、。」

かわの君:「根石さんの言葉は厳しいので、読んでいる当事者には、
内容の核心がうまく伝わらないこともあるんじゃないかと思いました。」

吉:「そうなんだよ。 当事者だと、感情にブロックされて、
根石さんの書く内容をうまく読めなくなることがあるんだよね~。」
根石さん、すぐに「磁場帰りはダメだ」って言うし、、、(大笑)」

かわの君:「根石さんが、ネイティブや帰国子女がダメだっていうのはわかります。」

吉:「俺もわかるけど、あんまりダメダメを連呼して欲しくないんだよね。
オレの磁場帰りという過去はどうしようもなかんべ、、。」

かわの君:「吉さんは、根石さんがなぜネイティブや帰国子女が
コーチに向かないと言われるのか、やっぱりわかっているのですね?」

吉: 「わかってるよ~。 だから、生徒さんの音をわざと真似て練習し、
生徒さんのどこに困難さがあるか疑似体験しようとがんばってんじゃん。
それをふたこと目には、磁場帰りにゃわからんとやられると非常に苦しい。
ネイティブが英語のコーチに向かないってのは、ようするにあれなんだよ、、
かわの君が以前話してくれた数学者のガロアと同じことだね。」

かわの君:「あ~、あの話ですか、、、いや、、まったく同じ問題だと思いますよ。
数学者のガロアは感覚で理解しちゃているんで、
「なんで君たちにはコレがわかんないんだ?」って怒った話しですね。
他の人には、きちんと1-10まで順序だてて証明と展開を見せてもらえないと
到底理解できない難問なのに、あのガロアは「なんでこれがわからないんだ!」と言って、
黒板消しを投げつけたそうですよ。(笑)」

吉: 「野球では巨人の長島さんかな。
長島さんも感覚でプレーできちゃう人だったから、
他の選手が、バットの振り方のことで長島さんにアドバイスを求めても、
「そんなのボールが来たら当てればいい」っていったらしい、、、(大笑)

感覚でプレーできるバッターってすごいけど、
「ボールがきたらバットで当てればいいんだよ」ってアドバイスじゃ、
アドバイスになってないもんね。 教わっているほうは困るよね~。

「は~~(ため息)、オレの英語は向こうに渡って感覚で獲得した音だから、
他人には教えられないってことか、、。 かわの君、やっぱオレには無理だと思う?」

かわの君:「吉さんなら大丈夫だと思いますよ。
根石さんが書いてくれないから僕がいいますけど、、、(笑)

ようするに教えるのがメチャクチャ難しい生徒さんを相手して、
どうしてダメなんだろう、この教え方のどこがダメなんだろう、、と、
そうやって考え悩み、その生徒さんと一緒に成長させてもらうことで、
吉さんの中に刻まれていくものがありますから、、。

まさか吉さんは、「なんでわかんねーんだ」って言って
ガロアみたいに黒板消し投げつけないでしょ?(笑)」

吉:「ありがと、、。 なんか元気がでてきたよ。 持つべきものは友だね。
これからも仲良くしてね。 うぅっ、、(涙)。」

かわの君: 「応援してますよ。
「俺ならできる」を3回唱えて、えいっ!と飛び込んじゃってください。」


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(*) 尚友(しょうゆう):
この言葉は、私が今読んでいる森信三(のぶぞう)という人が書いた本にでてきます。
これは友を尚ぶ(たつとぶ)という意味だそうです。

・・・引用・・・
この言葉は読書と並べて、古来「読書、尚友」というふうに使われている言葉であります。
<中略>・・・友と親しむと言わないで、とくに友を尚ぶ(たつとぶ)と言ったところに、
深い味わいがあると思うのです。 <中略>、、、(友を尚ぶというのは)
すなわちその友人が、道の上からは、自分より一歩ないし数歩をすすめており、
したがって自分は、その友において大いに尊敬すべきものを認めるという時、
初めて友を尚ぶ(たつとぶ)となるわけです。

森信三 「修身教授録」10講より、、(p69) 致知出版



月並みないい方ですが... 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月 2日(金)00時16分37秒

吉さん

根石さんから期待されてはるんですよ。私、そう思います。磁場帰りでありながら、磨けば光る玉のような、英語講師としての素質を持っておられると見抜いておられるんだと思います。

素読舎は私のやり直し英語の場です。まだまだコーチ見習い未満です。人から上級者とか言われても、所詮は学習者なので、いっぱい間違いをしますね。やっぱり吉さんもそうなんですね。だから律儀に辞書で調べる、きちんと回転読みをする、そういう初心者と同じ地道な作業が必要なんだなぁと思います。

心ではそう思ってはいても、私なんかついずぼらすることもあるんですが、吉さんは学ぶことに対して謙虚です。偉いなぁ、見習わんとあかんなぁ、といつも思っています。

根石さんにけちょんけちょんに言われて、ご自分の尊敬される方の著書をけなされ、心をズタズタにされて、一旦は大風呂敷を離れられた。それでも「素読」は王道だと思い、悔し涙をぐっと呑込み戻って来られたのは吉さんだけではないでしょうか。「素読による語学学習は正しいかもしれない、でもあんなにクソミソに言われとうはない」と離れて行った人もいると思います。

でも吉さんは違った。自分の気持ちは二の次、正論に対しては謙虚に頭を下げられる、そこんとこがすごい。



吉さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月 2日(金)02時33分20秒

 疲れているせいか、昼間やたらに眠り、夜になって眠れなくなりましたので、書く時間ができました。

>吉:「そうなんだよ。 当事者だと、感情にブロックされて、
根石さんの書く内容をうまく読めなくなることがあるんだよね~。」
根石さん、すぐに「磁場帰りはダメだ」って言うし、、、(大笑)」

 以下、「磁場帰り」については、吉さん個人のことを言おうとするのではなく、「磁場帰り」全般についての言としてお読み下さい。串刺しにしてものを言いますので、もちろん吉さんについて当てはまるところもあるでしょうが、それは論というものの本性によるものです。
 「磁場帰りはダメ」について。こと語学、語学論という領域に一歩入った場合は、ダメなことが多いです。吉さんの尚友の少林寺拳法を借りて言えば、スキだらけなことが多いです。
 自分のスキルが、半分(以上?)が磁場によって無意識まで動かされたことからできているのであるという自覚がなく、自分の能力であるかのような顔をする人が多い。私がそれに対する強い嫌悪を持つのは、その顔が日本の社会で上等品として通用するからです。そのことが、日本語だけで生活して語学をやる人々に対して文化的な抑圧として作用しているからです。
 以前、2チャンネルにちょっと出入りしていた時、「日本で英語を勉強することの馬鹿らしさは、帰国子女」という舌足らずな言い方を読みました。日本で英語なんかいくらやっても、帰国子女並みのしゃべりには絶対にならない、ということを言っている文です。語学という領野全域を語りえているものではないので、私は反論しましたが、スキルというものにだけ目を向けた場合は、この舌足らずな言い方がものの見事に言い当てているものがあります。日本語だけ使う生活を続けながら、五十年六十年語学をやった東大教授も、「しゃべる・聞く」のスキルに関してなら、英語しか使わない(英語ネイティヴの)子供に劣るのです。
 「磁場帰り」が文化的抑圧作用に転ずるのは、「磁場によって無意識まで動かされた」ことに対する無自覚のせいです。

 以下は吉さん個人についてです。
 吉さんは、「磁場帰り」の人々の中では、「磁場帰り」とは何なのかについて自覚しようとしておられる方です。あるいは、日本語だけを使う生活の中で、語学を継続することとはどういうことなのかという疑問を持っている方です。これがなかったら、私は議論を噛み合わせようと思うことはないでしょう。

 吉さんは、日本にいて日本語を(多分)主言語として暮らしていると思います。日本にいて、英語をやっているのだから、私や私の生徒さんたちと同じように語学をやっているんだと考えるかもしれませんが、そうではありません。

 「英語磁場」に無意識を動かされてスキルを獲得した人は、「日本語磁場」にいて英語をやるときに、無意識をあてにできます。つまり、自分がいる「磁場」ではない、別の「磁場」が作ったものをあてにできます。日本語だけで生活している人がどう逆立ちしてもあてにできないものがあります。
 そのことによって、日本語だけで生活して、語学として英語をやっている人のことがわからなくなるのです。

 で、言いたいことは、そこが吉さんの出発点だということです。純然たる語学というものをわからなくしてしまう「磁場」体験があること。そこから改めて、語学というものに迫ること。それはこの掲示板だけに限れば、吉さんでなければできないことです。

 以下、再度「つなげる問題」です。

 キリピーと千代の枠で吉さんにコーチをやってもらっていて、「口の筋肉の動く範囲を普段より大きく使え」と生徒に言っていると私が言ったとき、「そっちの方がいい」と吉さんが言い、私が冗談じゃねえと思ったことについて。
 「そっちの方がいい」というのは、「つなげろ」よりいいということだと私は受け止めました。そして、冗談じゃねえと思ったので、「そっちの方がいいなんてことはない」と言いました。

 正確にとか、ていねいにとか、口の筋肉の動く範囲を大きくだとか、そういうことが、1ミリでも「つなげる」よりも「いい」なんてことはない。
 順序があるだけだ。
 「1万行」未満の生徒になら、正確さやていねいさを上位に置いて指示を出すことはある。「1万行」を越えた生徒になら、「もう一段とつなげろ」が必要になる。そういう順序があるだけだ。
 千代やキリピーの現在には、「もう一段とつなげろ」が必要なのであり、それが上位にきていい。そういう段階なのだ。

 それを無限定に、正確さやていねいさを「つなげる」よりも上位に置こうとしていると私は受け止めました。これは、素読舎の方法の根幹に触れるものです。

 正確さやていねいさや、もっと言ってしまえば、「磁場くささ」の方が、「つなげる」よりも、1ミリでも重要だなどということはない。
 私の言いたいことはそれに尽きています。

 これは、小学校低学年生を相手にしているとわかりますが、口の筋肉の表層だけを使ってものの見事にコピーする生徒が、一年以上私のレッスンを続けると、とても下手になります。口の筋肉の表層だけでなく、もう少し深いところまで筋肉が動くようになるときにこれが起こります。

 また、1万行を越えた生徒に、「もう一段とつなげろ」という指示を出すと、生徒が歯医者で歯を抜くときに麻酔注射をされた後のように、一種、「麻痺したような口の動き」になることがあります。これは、新しい口の筋肉ができてきたときに起こります。新しい筋肉ができてきているのだが、まだそれが弱くてうまく動かない。かといって、表層だけ使う使い方は、「もう一段と」によって禁じられる。そのことによって麻痺感覚のようなものが生じます。

 「ベタ読み」の価値を低くみつもり、正確さやていねいさの方を上位に置いたら、決して、これらの現象に出会うことはできないでしょう。



根石さんへ お礼 投稿者:吉 投稿日:2010年 7月 2日(金)22時01分11秒

根石さん ありがとうございました。
自分の中に立ち上がってくる
違和感としっかりと対峙しようと思います。
この「違和感」が、磁場がらみの何かなのだと思います。

私の歩んでいる道につづく人達のために、
この「違和感」を明らかにしていきたいと思います。

高見に登るための足場を築けた想いです。
道は示していただきました。
あとは実践を通して自分の肚(はら)に落としていくだけです。
気持ちはかぎりなく穏やかで、心が騒ぐことはありません。



「つなげる」ことに関して感じていること(最後にincreaseについても少し) 投稿者:Piggy 投稿日:2010年 7月 3日(土)06時24分37秒

まだ「つなげる」ことについては試行錯誤の段階ですが、「もっとつなげてください」と言われてから今までのことを書いてみます。

私がはじめて「もっとつなげてください」と根石さんから言われたのは、「So I brought you some Japanese apple pears.」という文でした。最初に思ったのは、どうやったらこれ以上つなげられるのだろう、ということでした。私はこれを単語ごとにぶつぶつと切って読んだわけではありませんでしたから。

よくわからなかったので、私はとりあえず、音読の練習をする時にできるだけはやく読んでみることにしました。そうするとしばしばつっかかり、つっかかるとがっかりして自分を責めるので、音読の練習が楽しくなくなりました。それと、私は日本語にはない英語の発音の一つ一つを口にするのを楽しむところがあったのですが、その楽しみがあまり感じられなくなりました。

でもそのうちに、復習の範囲であっても文ごとに回転読みをしてみることにしました。今までは、復習の範囲では音読はするけれども回転読みはしていなかったのです。そして回転しながらスピードを上げていくことで、「もっとつなげる」とはどういうことか、感覚がわかってきました。そうなるとやっていることは同じでも、気持ちの上では「スピードが上がった」のではなくて、「もっとつながった」という感覚になってきた気がします。そして「もっとつなげ」た上で、英語特有の発音を楽しむこともできるようになりました。もっとも楽しむことができるようになったのは、この一週間くらいのことですが。

「もっとつなげてください」と言われたのが、多分4、5回前のレッスンの時、そしてその後のレッスンではもう「もっとつなげてください」とは言われなかったのですが、昨日「一段とつなげてください」と言われたときには、心地よい疾走感でつなげることができました。

この間に感じたことを三つ書きます。長い文章になると、文の構造理解が口が動くのに間に合わないと、文を「もっとつなげて」あるいは「一段とつなげて」読むことはとてもむずかしいし、意味をとるのが口が動くのに間に合わない場合も、無理とはいいませんがかなりむずかしいことがわかりました(「空念仏」も可能ではありますが)。だから、つなげる練習をすることで、文の構造理解、意味の把握のスピードも上がってきたように思います。最近英語のオーディオブックを聴いていて、文章単位で理解することが以前よりもずっとできるようになったと思いました。

もう一つは、「もっとつなげ」ようとすると、それまではうまく読めていたのに、口がすべってうまく言えない文章があるのですが、その一部は「口がすべっている」のではなく、「自分では思いもよらないつなげ方をしている」、「今までの自分ならしなかったような、あいまいな(弱い)発音の連続になっている」、ということに気づきました。そしてこのあいまいさ、このつなげ方で、もしかしてよいのではないか、と思えてきました。一方で、口がすべっている文の中には、本当にすべっていて、口の動きに力を入れることで解決できそうなものもありました。でもまだどうしもすべってしまう文章もあります。

三つ目は、昨日久しぶりに一瞬般若を注意されて、「一段とつなげ」た上で一瞬般若に気をつけることで、「口の動きに力を入れる」感覚がわかったような気がした、ということです。「もっとつなげてください」と言われて以降、一瞬般若を注意されたのはこれがはじめてで、このタイミングだったのでわかったのだと思いました。そのあと今度はあいまいな(弱い)母音をもっと口を狭くするようにいわれて、これも「もっとつなげてください」以降はじめてで、昨日はつなげた上での口の動きを再確認できたように思いました。根石さんが、生徒に言う順序、タイミングが重要だとおっしゃるのはこういうことかもしれない、と思いました。この三つが「つなげる」に関して、今まで感じたことです。

<略>



Piggyさん 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月 3日(土)07時11分17秒

ゆうべの素読舎会議でのこと。

「つなげる」「もっとつなげる」についていろいろ質問している中で、コーチは自分の英語がうまくなる為に自立練習をやってるんではない、生徒の英語をうまくするためにやってるんだから、と根石さんが言われました。そして「自分で自立練習をやってて、突然口の筋肉が麻痺したようになったって経験ない?」と聞かれた私が、「う~ん、どうかなぁ、唇がしびれたりしますけど」とあいまいな返事をすると、村田さんが「あれ、口がおかしくなって動かなくなったって言ってたことありましたよ」と、私のかわりに答えて下さいました。

私はコーチ見習いのつもりで自立練習をやっていたはずでしたが、事実は自分の為にやってるだけだったんだと反省しました。自立練習の中での自分の変化を客観的に観察していなかったんです。

「つなげる」「もっとつなげる」とうのを体感して、それがどういう感じなのか、どのくらいの激しさで、どのくらいの期間で、どういう結果が出るのか、そういうことをきちんと観察しないでいては、コーチなど出来ようはずがありません。

私もこのままだと英語フリークと変わりないじゃないか...こんな調子では語学論を持つことができない。

Piggyさんに「つなげる」「もっとつなげる」の体験談を読ませて頂いて、なぜ「つなげる」「もっとつなげる」が必要なのかが具体的にわかりました。ありがとうございます。私も「つなげる」「もっとつなげる」が自分自身に起こす変化を見届け、逐一報告したいと思います。

<略>



小川さん(そして先ほどの投稿の修正も少し) 投稿者:Piggy 投稿日:2010年 7月 3日(土)12時38分56秒

小川さんにとって、「つなげる」「もっとつなげる」で起きる変化は、私の場合とはまた違うのかもしれないと想像しています。たとえば、私はももこさんとペアなのですが、ももこさんにとっての変化の感覚は私の場合と違うところもあるのではないかと思っています。ももこさんはもともと、つなげることに私よりもたけていらっしゃると感じていますから。小川さんと私とでは英語の実力がまったく違いますが、それぞれの変化の感覚をこうして掲示板でお話できそうなのは、おもしろいですね。

回転読み三昧をしていらっしゃる頃でしょうか。私は回転読みの楽しさを、スランプを経て再確認しました。音読よりもずっと楽しいです。私は音読を(1) 到達度をはかる指標として、(2) 話の筋を追う楽しみのために、(3) 空念仏でないことを自分で確認するために使っていこうと思いました。(3) は、次々に文章を目で追って読んでいく音読の方が、回転読みよりも、「空念仏」のままでつなげていくのはむずかしいと私は感じているからです。回転読みは身体を使っているという感覚がすること(別に踊りながら読んでいるわけではないのですが)、疾走感の気持ちよさ、時々切断読みをまぜてみたりする変化の楽しさが好きです。疲れるので私はなかなか長くはできませんが。

<略>

ここからは先ほどの投稿の修正です。
「私がはじめて『もっとつなげてください』と根石さんから言われたのは、『So I brought you some Japanese apple pears.』という文でした。」と書いたのは間違いで、同じ日に2回言われたうちの2度目がこの文章でした。最初の時は首をひねりながらもなんとかこなして、2度目で途方にくれたので、この文章をよく覚えていたのでした。何でもない小さなことなのかもしれませんが、修正します。

それから書き忘れましたが、ももこさんや村田さんが会議室の内容を書いてくださったことと、根石さんと吉さんのやりとりは、とても参考になりました。



つなげる、もっとつなげる 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月 3日(土)15時53分46秒

Piggyさん

私も心がけて客観的な報告をするようにしますね。有意義な報告をするためにも、一日も早くコーチとして立つためにも、イメージ核受肉教材にもっと熱心に取り組みたいと思います。

有言実行やぞ!

と自分にはっぱかけておきます。



「ベタ読み」は肯定しなければならない。 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月 5日(月)11時58分44秒

「優等生っぽさ」が抜けない生徒に根石さんが言ったこと

「村田君は『ベタ読み』はわかるかい?」と聞かれ、よくはわかっていませんと私は答えました。
 「ベタ読み」は、ひとつひとつの単語の発音を起こして、ただつなげるだけの読み方。英語ネイティヴの「自然」なイントネーションを備えていない読み方。そう根石さんは説明してくれました(根石さん、違っていたら訂正してください)。
 そして、日本在住の日本人は「ベタ読み」を一度肯定しなければいけないのだ、と強く言われました。「ベタ読み」を肯定しなければ、CDの音を媒介にすることさえできない。「ベタ読み」を肯定し、筋肉を備えていけば、CDの音を媒介にすることもできる。
 ところが「磁場」から帰って来た人は、「ベタ読み」を否定する。NHKのラジオ講座の講師も、軒並みそうだ。「ベタ読み」をとっぱらって、まるで体中の血を全部抜いて、すべて交換しようとする。それは日本人の大切な何かを、否定することだ。
 「ベタ読み」を肯定しなかったら、最初からネイティヴの音声を真似しろと言っているのと同じことだ。ただネイティヴの音声を真似するように言うだけだったら、素読舎のある理由がない。

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 上の話を聞いている時、語学についての甘さをいやというほどつきつけられました。
私にとって、大切だと思ったことを書きとめておきます。

「言語」と「言葉」をわけて考えること。
「言語」は客観であり、そこにあるのは「音」。たとえ200年経って、今いる人が死に絶えても、「言語」は残る。
では「言葉」は何か?優等生くささが抜けない人は、「言語」が客観だというのなら「言葉」は主観だ、と思うところです。
違うんだ、「言葉」は生きることそのものであって、だからこそ、そこにあるのは「声」。
根石さんは、徹底的に腑わけしています。
語学論はここから始まらなくてはだめなんだと思いました。



「べた読み」の極端なもの 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月 6日(火)00時39分5秒

 今日、キリピーのレッスンをやっていて、吉さんが「違和感」と書いていたことを思い出し、たまたま参観してくれていた小川さんと、それについて話しました。吉さんが「違和感」と言っていたのは、このことだなというのがわかった気がしたのでした。吉さんは「磁場がらみの」とも書いていましたが、これは「磁場がらみ」による違和感とは違うと思ったので書きます。

 キリピーの読みは「べた読み」の極端なものです。

It's better than seeing this gorgeous body splattered all over the place.

この文の all over the place の all と over the place の間で切れるのを直した後、「べた読み」の極端なものが完成しました。つながってはいるのだが、this gorgeous body がひとかたまりの音に感じられない。単語三つをそれぞれ別々に読んでいる感じが抜けない。
 小川さんが、思い切ってゆっくり読んだらどうかと言われました。
 必要なのは「切断読み」だなと私が言いました。
 レッスンの最後で、「切断読み」を私が実演しました。そしたら、小川さんが、ゆっくり読んだらどうかと言ったのは、まさにその読み方だと言われました。

 「回転読み」を一つの極としますと、もうひとつの極に「切断読み」があります。

 「回転読み」では、連続性が問題にされますが、「切断読み」では、連続性と速度は無視されます。「切断読み」で問題にされるのは、意味が生じているかどうかです。音の動きを意味が生じる動きと一致させることです。
 小川さんは「思い切ってゆっくり」と言ってくださったのですが、「ゆっくり」であるかどうかではなく、意味が動くかどうかがポイントです。
 意味をひとまず除外して、音だけを完成させることはできます。その場合に、「べた読み」の極端なものができる場合は、それをいったん作り、その後それを脱ぎ捨てる。
 「べた読み」だけでなく、「べた読み」の極端なものも肯定する。いったんはそれを作り、その後にそれを脱ぎ捨てるというまわりくどいことが、日本人がやる英語の場合は肯定されなければならない。外在的な指示では直らないのです。

 吉さんが、「ひとつの単語のように音を扱う」と言っていたこともどういうことかわかったように思いました。キリピーの場合、「・・・でひとつだ」という指示の出し方で、数えきれずやってきたのですが、極端なベタ読みはいまだ解決しません。一つの文で解決しても、別の文ですぐにまた起こります。
 それは、ほとんどが10語を越える長さの文で起こります。

 今日は、all over the place は時間がかからず直りましたが、this gorgeous body は「ひとつの単語のように音を扱う」要領でいくらやっても解決しませんでした。どうしても三つの単語をひとつずつ読んでいる感じが残りました。
 「this gorgeous body でひとつだ」、とキリピーに何度か言いましたが、解決しませんでした。

 これは、外在的な(他人による)指示では解決しない本質を持つものなのだということです。
 キリピーが意味を生じさせ、自分で「this gorgeous body でひとつ」だとつかむ、それでひとつだと「感じる」ことが鍵です。内在的に実現させないと実現しない音というものがあるのだということだと考えました。

 「ゆっくり」でも「ひとつの単語のように扱う」でも解決しないのです。
 これが解決しない生徒は、キリピーを含め、私の生徒さんでは二人います。

 キリピーの問題の解決は「切断読み」だなあ、とキリピーに言いました。

 キリピーが「切断読み」のコツをつかむまでは、レッスンで「ベタ読み」の極端なものは肯定され続けます。
 脱ぎ捨てる時は、自分で脱ぎ捨てるしかない。



つなげる、もっとつなげる 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月 6日(火)00時45分3秒

今日は6:30あたりからほとんどずっと根石さんのレッスン風景を傍聴させて頂きました。ありがとうございました。

感想として書くべきことは沢山あって、どれから書き始めたら良いのか迷っているのですが、レッスンを通じて一貫していたのは、やはり「つなげる、もっとつなげる」ということでした。

もっとも印象に残ったのはキリピーさんとちよさんの練習でした。「つなげる」練習の激しさに圧倒されました。

このクラスで問題になったのはキリピーさんがなかなかなめらかにつなげられないことでした。脚の裏を全部地面につけて走っているような感じがあります。あるいは下駄履きで走っているような感じです。これはキリピーさんだけの問題ではなく、私が一緒に自立練習をしているYoshieさんにも部分的に起こっている現象でした。多分、どなたも多かれ少なかれご経験があると思います。

根石さんが「もっと繋げて」「the gorgeous bodyで一つの意味の固まりなんだから、これは繋がってないとだめだ」と指摘される度に、何度も何度も挑戦される様子には頭が下がりました。このスタッカートな読み方が起こるのは、音を一つ一つ律儀に発音することにとらわれすぎて、ひとつひとつの単語の持つ強弱のリズムが疎かになっているせいではないかと思いました。つまり"splattered all over the place" の ttやらdをきちんと読んでしまわれることが問題ではないかと思ったのです。

私は単語単語の強弱をきちんと押さえて読めば滑らかさとリズムが体得できるのではないかと思ったのです。キリピーさんの孤軍奮闘振りに、差し出がましいとは思ったのですが、「ゆ~っくり一語一語をスローモーションのようにつなげて読んでみたらどうでしょう」とつい口出ししてしまいました。

話が飛びますが、エリック・クラプトンは豪速でブルースギターを弾きますが、あまりにもなめらかに手が動くので、ゆっくりと弾いているようにしか見えないというので、「スローハンド」というあだ名がついています。ふとおもいだしました。脱線しました。すみません。

話を元にもどして....根石さんは「それは切断読みに近い」とおっしゃいました。切断読みを実際に根石さんにやって見せてもらうと、なるほど、私のスローモーション読みと似ていました。しかし私のは「音を丁寧に読む」というだけの作業ですが、切断読みは意味をイメージしながら読むというところが違います。意味が捉えられるというレベルまで上がれば、キリピーさんの読みのなめらかさは確保出来るので、今の状態のままでいいのではないかと思っているとおっしゃっています。

村田さんがベタ読みについて書かれていました。私も机上の練習では、感情移入しないで「素読み」「ベタ読み」するのがいいと思います。イントネーションやら文章のリズムは、その場の心情や状況によっても変わって来ると思うのです。だからコーチが教えられることではない。

根石さんは「つなげる」ことが確保できると、CD教材を媒介にして英語をものにする為の体力がつくという主旨のこともおっしゃっていました。「つなげる、もっとつなげる」練習の中の七転八倒は、独り立ちする為の試練のような気がしました。つなげられるようになったセンテンスは、実際の会話の海に投げ入れられて波乗りを覚えるようになるんだろうと思います。

話があちこちに飛びますが、見学の後、私はどうしてなめらかさを確保できるようになったんだろうかと考えています。もちろん「それなり」のなめらかさではありますが。

今日は本当に勉強になりました。また考えさせられることも多かったです。キリピーさんのことを引き合いに出してしまいましたが、同じことは私にも起こります。

この「つなげる」「もっとつなげる」は語学をする上で良く考えるべき問題だと思いました。




小川さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月 6日(火)00時55分43秒

同じ頃、同じ問題を考えていて下さったのですね。
ありがとうございます。
キリピーに「大風呂敷」を読むように言っておきます。
英語で意味を生じさせようという者が、「大風呂敷」の記事くらい読みこなせないでどうするんだとも。




巴里子さんの問題 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月 6日(火)01時08分5秒

 巴里子さんの読みは、「ベタ読み」とは違うと感じてきましたが、もしかしたら「ベタ読み」なのかもしれないと、ついさっき考えました。
 意味が生じない読みの音ということでは、キリピーと共通しています。
 「ベタ読み」なら私はイラつかないのですが、なぜだか巴里子さんの読みを聞いているとイラつきます。

 「自分からつかみに行く・行かない」という言い方を吉さんはしていたと思いますが、私のイラつきもそれに関連したものです。
 練習の「質」を自分で変えていくという動きがない、あるいはその動きが弱い。それが巴里子さんの問題です。

 多分、あきらめが強すぎるのです。
 私は、お金をもらってレッスンをしています。
 あきらめが強いと、お金をもらうかいがありません。

 巴里子さん、私のレッスンを続けている間は、あきらめるのをあきらめて下さい。



小川さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月 6日(火)01時31分7秒

>話が飛びますが、エリック・クラプトンは豪速でブルースギターを弾きますが、あまりにもなめらかに手が動くので、ゆっくりと弾いているようにしか見えないというので、「スローハンド」というあだ名がついています。ふとおもいだしました。脱線しました。すみません。

 私の用語では、「ネイティヴの口の動き」ということになります。
 ネイティヴ言語の言葉では、お金がもらえないだけで、ネイティヴはあらかた自然にプロ並みになっちゃうのです。というか、自然なのです。
 私が言っているのは、語学では不自然でいいということです。
 だけど、何度でも脱ぎ捨てていくものがあるということです。

 何度でも脱ぎ捨てていくことを「自然に」やっちゃうやつがプロになるんでしょうか。
 その後に、その過程を「思い出す」と語学論になると考えています。
 それは、「磁場帰り」の人が無意識の領域に起こったことを「思い出す」ことと似ています。違うことなのですが、労力においては似ています。



根石さん、村田さん 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月 6日(火)01時42分6秒

村田さんのコーチと根石さんの突っ込みをもっとじっくり見学していたかったのですが、猫は騒ぐわ、夫は帰宅するわ、息子はグズるわ、で...お茶を飲んで戻って来たら、根石さんも投稿されていて、また夜更かしになってしまいました。

クラプトンは天才ギタリストだそうですから、ギターネイティブですわね。

自分の学習過程を思い出すことは大切だと思います。磁場なし女でも「喉元すぎれば熱さ忘れる」で、はて学習過程がどうだったか、忘れてしまっていることも多いです。磁場帰りも磁場なしも、それぞれに自分の学習過程を掘り起こさないとあきませんねんね。



続「つなげる、もっとつなげる」 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月 6日(火)19時13分32秒

ゆうべのキリピーさんとちよさんのレッスンに刺激を受けたので、今日の自立練習では、村田さんも私もいつもより気合いを入れて「つなげる、もっとつなげる」ことに集中しました。一文を読む回数がいつもよりずっと多くなったので行数はあまり稼げませんでした。

今日練習した部分の中に、"The words are on the tip of my tongue, but I don't quite know how to put what I want to say." という22語文があります。この文を回転させている最中に「ベタ読み」から「切断読み」へ移行する過程が必要なわけが腑に落ちた瞬間がありました。

この文の単語はどれも簡単だし、on the tip of my tongue, I don't know, how to put, what I want to say は口慣れたフレーズばかりですからスムーズに回転出来そうでした。

語をつなげることだけに集中して読んでいると回転速度が増し、普段しゃべるスピードの倍速くらいにはなっていたと思います。そしてその最中に、頭が回転について行ってないことに気がつきました。音の空回りです。文字が亡骸のように横たわっていて、音だけが空回りし、イメージやら意味やらが置いてけぼりになってしまうのです。置いてけぼりになってしまったイメージやら意味を取り戻して、あるいは獲得して、豪速で回転する音に乗せてやらねばなりません。

ああそうか、「つなげる、もっとつなげる」ことが出来た状態になれば、切断読みで意味やイメージを獲得する作業が必要になるのだなと初めて実感しました。

意味の塊毎に滑らかにつながった英文が、意味やらイメージを乗せて豪速で回転するとどうなるか。回転スピード以下の英語は問題なく聞き取れるようになるはずです。英語は英語のままで理解するということも出来るようになるはずです。

私が今Yoshieさんと二人で勉強しているNHKラジオ「入門ビジネス英語」のモデルダイアローグのスピードは1分間に約170語(170wpm)です。ネイティブの話す速度よりかなり遅い感じを受けます。けれど学習者がこれくらいのスピードで話せれば上等だと思います。個人差はあれ、ネイティブ・スピーカーはおそらく200~300wpmくらいのスピードでしゃべるんではないでしょうか。「つなげる、もっとつなげる」で極限までスピードを上げた場合、おそらく私達でも200wpmくらいにはなると思います。簡単な文なら300wpmくらいで回転させていると思います。

つまり「つなげる、もっとつなげる」を極限まで練習した後に切断読みをすると、理屈の上ではネイテイブのしゃべることは全部聞き取れるということなります。背景知識や語彙力も聴解度を大きく左右しますからもちろん一概には言えません。しかしイメージ核受肉教材は語彙を増やし語感を養うということも狙って作られています。

聞き取れなければ会話が出来ません。リスニングとスピーキングは一体なので、この点においても素読舎の学習法が有効だということになります。

ただし、たらたらとお茶を濁す程度にやっていては、どもなりませんね。(これは私自身にも言い聞かせておきます)



小川さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月 6日(火)22時20分47秒

>ああそうか、「つなげる、もっとつなげる」ことが出来た状態になれば、切断読みで意味やイメージを獲得する作業が必要になるのだなと初めて実感しました。

 その作業が必要になるだけでなく、それをやるのが楽になるはずです。

>意味の塊毎に滑らかにつながった英文が、意味やらイメージを乗せて豪速で回転するとどうなるか。回転スピード以下の英語は問題なく聞き取れるようになるはずです。英語は英語のままで理解するということも出来るようになるはずです。

 そうです。それがなければ、私も生徒をとまどわせるようなことをやる必要がないのです。

>ただし、たらたらとお茶を濁す程度にやっていては、どもなりませんね。(これは私自身にも言い聞かせておきます)

 実は私も耳が痛い。



小川さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月 6日(火)22時40分57秒

>文字が亡骸のように横たわっていて

これは詩です。
文字もうれしがるかもしれない。
文字として死ねた、と。



巴里子さん 投稿者:そよ 投稿日:2010年 7月 9日(金)12時25分16秒

巴里子さんが落ちこんだと仰る根石さんのコメントは、私には巴里子さんへの励まし、叱咤激励に聞こえました。
「自分からつかみに行」ってほしい。練習の「質」を自分から意識して変えて欲しい。あきらめないでレッスンして欲しい。私も巴里子さんことを絶対あきらめないから、と。

ですので、今晩のレッスンは是非参加いただきたいです。
心よりお待ちしております。

※ボイストレックって何でしょう?



巴里子さん、そよさん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月 9日(金)22時06分0秒

>巴里子さんが落ちこんだと仰る根石さんのコメントは、私には巴里子さんへの励まし、叱咤激励に聞こえました。

 それ以外の何でもありません。
 巴里子さんには、「つなげる」「もっとつなげる」「もう一段とつなげる」の矢印を自分で持ってもらいたい。私がそれぞれを言う生徒さんのレベルは違いますが、同じ一つの矢印です。

 ボイストレックというのが何なのか私も知りませんが、そういうものにお金を使うより、今は、矢印を「自分で」持つようになるかどうかが肝心なことです。

 早くレッスンに復帰されることを願っております。
 私が要求しているものの実質を備えてから、ボイストレックでも何でも好きなように使ってもらうといいと思います。
 逃げたら終わりだとお考えいただいていいと思います。



吉さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月24日(土)16時21分12秒

 前回の千代・キリピーの枠で、指示を「動きの中に置く」という場面を作り、キリピーの音を変えました。それについて何か書いて下さるのを期待しておりました。「つなげる」問題に対する重要なヒントになるだろうと思い、私は吉さんのコーチに割り込み、「動きの中に置く」を実際にやってみたのでした。次の枠の時間帯に食い込み、次の枠の生徒さんには迷惑をかけてしまいました。

 吉さんのコーチは、おとなしすぎるし、行儀がよすぎると感じてきました。
 指示を「動きの中に置く」ためには、「動き」がなければなりません。
 「動き」がなければ、それを作り出さなければなりません。

 正しく、行儀のいいモデルを与えるだけでは、「動き」を作り出すことができません。
 どんなにいい指示も、どんなにいいモデルも、生徒の「動きの中に置く」のでなければ、生徒の側に何も結果が生じない場合が多々あります。生徒の「動き」が前提なのです。

 その観点から見れば、少しくらい乱れていようが行儀が悪かろうが、もっと言えば間違っていようが、「つなげる」「もっとつなげる」「もう一段とつなげる」という指示が絶対に必要だということです。
 たとえ変な「動き」が生じてきても、とにかく「動き」を作り、その「動きの中」に指示を置く、あるいはモデルとしての読みを置くのです。

 「強く」だとか、「はっきり」だとか、「口を大きく使う」だとかが意味を持つのは、「動きの中」に置かれた場合だけだということが多々あるのです。
 「動きの中に置く」のでなければ、指示は単なる正しいお題目になってしまうことが多々あるのです。

 個々の音の扱いと同時進行で、「つなげる」が先行すべきだというところが、私の方法の眼目です。それによって、「正確に」や「力を入れる」のための基体を作るのです。基体がないところで、お題目を言うのだけは避けたいと思っています。

 「つなげる」に先行しているものが実はあり、「つながる」です。
 「技法グラウンド」で練習すれば、ある程度は自然に「つながる」のです。教材の行数で言えば、3千行~5千行くらいでしょうか。その時点では、「つながる」が「つなげる」に先行しています。

 「つながる」を「つなげる」に持ち込む。「つながる」ものを壊さずに「もっとつなげる」、「もう一段とつなげる」という動的な練習に移行させなければなりません。1万行くらいをめどに、「もう一段とつなげる」への移行があります。

 なぜそうしなければならないかというと、ここが肝心なところですので、よく耳を傾けていただきたいのですが、日本語を主言語として英語を練習する人には英語の「磁場がない」からです。もう聞き飽きたとお思いでしょうか。
 英語の磁場を欠く場所で、「つながる」だけをあてにしていたら、あるいは「正確に」や「正しく」だけをあてにしていたら、初心者や中級者が英語をしゃべり出すまでに、数百年は必要になります。これは冗談を言っているのではありません。実際に数百年必要になります。

 「正しく」とか「はっきりと」を、「つなげる」ということより上位に置いていいのは、初心者が「技法グラウンド」を開始した当初だけです。その期間は、自然に「つながる」のを待っている期間でもあります。

 「つながる」文が増えたら、準備運動が終わったのですから、「つなげる」を上位におかなければ、「動き」が作り出せません。その「動き」が作り出せないと、本当は「はっきりと」とか「力を入れる」とか「口を広く使う」というようなことが意味を成さないのです。
 日本では英語の「磁場」は作用しないということが、吉さんは本当には納得できていないのではないでしょうか。そこが盲点になっていると思います。

 音の方では、最近ホームページをのぞいた中津遼子という人もそうです。この人は「一足飛び」が可能だと思っている人です。この「一足」が、数百年という時間になることがよくわかっていない人です。この人の中には、「つなげる」問題は存在しません。私が、素読舎の教材で、2、3万行やった人なら使うのもいいだろうという位置づけをするのも、中津がすっとばしているものを指さしたいからです。

 俺の磁場帰りはいまさらどうにもならないことなのに、「磁場帰りは駄目」と繰り返し言われるとめげるというような意味のことを言われておりましたが、私はそんなことを言った覚えがないので、濡れ衣を着せられたと思っております。
 「磁場帰り」だろうが「日本在住」だろうが、日本では英語の「磁場」は作用しないということを本当に腹におさめなければ「駄目」だとは言った覚えがあります。それを腹におさめるときに、「磁場帰り」は不利だとは思います。なぜなら、「磁場帰り」は磁場が「作用した後の人」だからです。作用してしまった後なので、「終始一貫して作用しない場」にいる人のことがわからなくなるのです。ここでは、一切のハウツウのレベルのもの言いは無効になると思います。新しい地平を切り開くことができるのは、語学論のレベルのもの言いだけです。

 「つなげる」を軽々しく扱ってもらいたくないと思います。

 「つなげる」と「はっきりと」が崩れる。「はっきりと」言うと「つなげる」が崩れる。「つなげる」と「はっきりと」の間には戦闘状態があります。「つなげてはっきりと」が成立したときが、戦闘状態が終結したときです。
 どちらか一方を上位に置いたら、語学的戦闘状態を避けることになります。つまり、いつまでたっても「できない」だけが残ります。

 「正しく」や「はっきりと」の方が、「つなげる」よりも「いい」と言われたとき、私ははっきりと違うと思ったのでした。千代やキリピーが今必要としているのは、そんなことではないのです。

 「つなげる」という一語に込められた私の方法は、切れば血が出るものです。それだけは言っておきたいと思います。



「つなげる」ことこそ原動力 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月25日(日)01時39分46秒

根石さんのレッスンに触発されて最近感じたことです。

「つなげる」のはろくろを回して陶器を作るのに似ているんじゃないか。
これは下手な比喩ですが、そんな気がしました。
ろくろを回さなければ、陶器は作れませんから。

「つなげる」ことが、原動力なんだと思います。
「つなげ」て「もっとつなげ」て、筋肉が麻痺して動かなくなってから勝負が始まる。
口がもう動かなくても、それでも口を動かそうという気持ちを持った時に、「個々の音」と「音全体の一連の型」のぶつかりあいをリアルに感じることができるんじゃないか。自分を振り返ってみるとそう思います。それが前へ進むための突破口。余裕があるうちは、それを感じることができない。それこそ、自分と戦うこと。
ピッコロさんが、「戦う言語」と言っていたんですが、こういう意味で言っていたんじゃないかと思いました。



根石さん 投稿者:吉 投稿日:2010年 7月25日(日)08時30分19秒

根石さん 村田さん

おはようございます。
書き込みの投稿もできず、会議室にも不参加の状態がつづいてすみません。
どうも調子があがらずに薬も飲んでいるのですが、この薬がやたらと眠気を誘うのです。
実は先週の手合わせやレッスンもヘタレだったのです。
レッスンに影響があるので、今は夕食後に薬をとらずに就寝直前に薬を取っています。
もうしばらくこの状態がつづきそうです。 すみません。

もっと早くこのことをお伝えすれば良かったのですが、調子の悪さに加え、
本業での問題を抱え、何かを書くというエネルギーが心の奥から湧き起こってこないのです。
すみません。

根石さんありがとうございました。
今日こそは何か書かねばとこちらに参りましたら、根石さんからドカンと大きな記事がきておりました。
また先に書かれてしまったと思いましたが、そんな分けですのでごめんなさい。
根石さんが私に向けて書いてくださった文章は、きちんと糧にいたします。
根石さんが書かれた事は、僕が今獲得中のことで、僕の中でドカンとデッカイ理解が落ちるまでは、
しばらくお待ちいただきたい。 今はとにかく書けない状態なのです。

> 私は吉さんのコーチに割り込み、「動きの中に置く」を実際にやってみたのでした。
> 次の枠の時間帯に食い込み、次の枠の生徒さんには迷惑をかけてしまいました。

この件については大変申し訳ございませんでした。 お許しください。

> 「つなげる」を軽々しく扱ってもらいたくないと思います。

すみません。 やはり、ここの理解が深く掘り起こされなければ駄目なのだと強く思っております。
しかし、これは根石さんをはじめとする「他人から教えてもらった理解」では、
全然使いものにならないのです。 ここはやはり自分で悩まないとダメだと思うのです。
自分でここの理解をつかまないと全然ダメなのです。

最近は、指導の難しい大人の初心者さんを相手に一緒に1万行以上を超えていかないと、
こりゃ駄目かな~と自分で考えることもあります。

根石さんの中の「つなげる」のイメージが非常に色濃く鮮明で具体的であるのです。
その具体的なイメージを見ろと言われても中々難しいのです。

私は音楽をやっていたので、指揮者のイメージの話をいたします。
指揮者は自分の頭の中に鮮明で強烈な曲のイメージを持っています。
そのイメージをタクトに(指揮棒に)乗せて
オーケストラから自分のイメージに近づけた音を(演奏を)引き出します。
それが指揮者の技というものです。

本振りの指揮者がいる一方で、(演奏会でステージに立つ指揮者の他に)
下振り(したぶり)をする指揮者が(稽古用指揮者が)います。
これは常任指揮者がお休みの間、
下ぶりでオーケストラの音をそろえておく指揮者のことです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「お前はわしの作った音楽を壊した!」

松本の振った演奏が、中澤はまったく気に入らなかった。

「謝れ! 土下座して謝れ!」


リトルドッグプレス 「ブラバン・キッズ」 石川高子著 160ページ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この下振りの指揮者は、常任指揮者の作ってきた音楽を壊してはいけないのです。
しかしこれが難しい、指揮者本人が指揮を振ってもなかなか団員に伝わらないものが(イメージが)、
下振り指揮者を通して伝わる方が奇跡と言えましょう。

素読舎のコーチをやるということは、根石さんのもつ強烈なイメージと同化させるということです。
僕の頭の中で根石さんが見て感じているイメージと同じものが見えていないかぎり、
僕は根石さんを苛立たせ続けることはわかっているのです。

しかし、これはなかなか難しい。
これはある意味、自分のイメージを、根石さんの生き様に共感させ同化させるようなものなのです。
大げさなと感じるかもしれませんが、根石さんの語学論を理解するということはそういうことだと思っています。

今の僕の中の考えですが、(1万行までを育てたことがないクセにと言われればそれまでですが)
1万行までをあつかう間に下のような音は、文章や書き言葉で説明しても良いのではないかというものです。
そして、これらの音は高速のスピードの中でつかんでもらうよりも、ゆっくりした音の流れの中で整え、
それから徐々に「つなげろ、もう一段つなげろ」に持っていくのが良いのではないかとぼんやりと考えているのです。
一度身体にしみ込んでしまった音やアクセントやリズム感を整えるのはなかなか大変なことなのではないかと、
そのような考えも持ち合わせております。 自分の中にあるこのあたりの考えの違いを壊さないかぎり、
根石さんのもつ「つながる」というイメージに近づけないと思うのです。

○ リエイゾン (音のつながり):
stand up (スタンド アップ) → standup (スタンダっプ)
an apple (アン アップル) → anapple (アナップル)
get off (ゲット オフ) → getoff 又は geloff (ゲトぉフ・ゲロぉフ)
come in (カム イン) → comin (カミン)

○ 黙音 エリジョン (前の単語が上の歯で終わる音 tdln・th、
次の単語の始めがtdln・thで始まる音の時、一番目の最後の音が後ろの音に飲みこまれる)

hard time → har(d)time ハー・タイム(d) は 舌先を上の歯の裏につけるだけ、、
good day → goo(d)day  グッ・デー (d)は 舌先を上の歯の裏につけるだけ、
これらは素読舎の生徒さんであれば知って体得できる知識ですね。

このパターンにはまらない音もありますので、
それはその時その時にアドバイスして矯正してしまう形で良いと思います。

take care → ta(k)care テイ・ケア
big dog → bi(g)dog  ビ・ドッグ
big は、ビッグというカタカナが日本語の中にあふれているので、
bigu・dog と、gの後ろに「ぅ」という母音を入れてやる人が多いのだと思います。

next chance → nex(t) chance ネクス・チャンス
この場合のnext の「t」も黙音なのですが、ここを nexto chance と読む人もいます。
やはりカタカナのネクストの影響だと思っています。

今までは「この二つの単語を一語のように扱って、nexchanceと読みます」と指導していましたが、
根石さんのおかげで、「next の (t)は 舌先を上の歯の裏につけるだけです」という指示に変えることができました。
そこに音の本質があるのだということです。  これはすごい有効です。

○ 音の同化 would you (ウッド・ユー)が、woul dyou (ウッ・デュー)になるなど、、。
「ウッジュー」「ディッジュー」など、これらの音を「おまんジュー」のジューだと思っている人が多いと思います。
実は僕も長い間そうでした。
これは 「舌先を上の歯の裏につけておいてから youと発音すれば、
舌が離れる時にdやtの音が混ざってしまう」という、そういう質の音です。
これらの音を扱うのは、中級レベル以上で良いと思っています。
初心者には難しい音と考えておりますので、最初は「おまんジュー」のジューで良いと考えております。

want you (ウォント・ユー)が、wan tyou (ウォン・チュー)
found you  → foun dyou (ファウン・デュー)
meet you → mee tyou (ミー・チュー)

これらの「チュー」もネズミの鳴く「チュー」の音で読む人がおりますが、
本来は、舌先が上の歯の裏にぴったりくっついていて準備されていて読むtyouの音。
くりかえしになりますが、これらもしばらく放っておいて問題のない音だと考えております。
他にやるべきことがなくなってから最後の方で扱っていい音だと思っているからです。

○ リエイゾン (音のつながり):
○ 黙音 エリジョン (前の単語が上の歯で終わる音 tdln・th、
○ 音の同化 would you (ウッド・ユー)が、woul dyou (ウッ・デュー)

これらの音の指導は、
ゆっくりなテンポの中で行われるのが良いのではないかという考えがありました。
このことは根石さんにも伝えました。

根石さんは、口の感覚をマヒさせてからポンと伝えた方が、
生徒さんがつかめちゃうとおっしゃいます。
キリピーさんの指導で確かにその変化を見せていただきました。
そうなのだろうと思います。

しかし、僕にはまだ「ああ、そうなのだ」と心の底から言うことができないのです。
実際の指導の中でそれらの理解を落としていってないと理由もありますが、
ゆっくりなリズム感の中でバランスを整える指導法も有効だと思っているところが
あるからだと思います。



吉さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月25日(日)15時16分27秒

 体の調子がよくないときは、休んで下さい。私も掲示板にずっとごぶさたすることがよくあります。(百姓仕事が忙しくてごぶさたになることもありますが・・・)

 前回の千代・キリピーの枠でやってみたことは、素読舎の方法のうち肝にあたるものだという思いがあったので、それについては何か書いてくれるだろうと期待してしまったのでした。急がせてしまったようで申し訳ありません。

○ リエイゾン (音のつながり):
○ 黙音 エリジョン (前の単語が上の歯で終わる音 tdln・th、
○ 音の同化 would you (ウッド・ユー)が、woul dyou (ウッ・デュー)

 これらをゆっくりした動きの中で扱うのは構わないと思います。特に集中してそれをやるのが、教材の最初から3千行くらいまでの間です。今は、そういう場所をやっている生徒さん(小学生を除く)がいませんが、新しい生徒さんがレッスンを始めた場合は、いきなりそれをやります。私はとりわけゆっくりとした動きでやるわけではありませんが、3千行くらいまでの間は「つなげる」という指示はほとんど出しませんので、自然に比較的ゆっくりした動きの中で扱うことになります。この時期は、「つなげる」でなく「つながる」でいい時期です。その時期に「音のぶつかりあいの処理」はほとんど扱ってしまいます。
 私が時々言う言い方で言いますと、「初めの数ヶ月は劇的に音が変わりますので、生徒さんに感動してもらうことができます」です。レッスン開始後数ヶ月というのが「3千行くらいまでの間」に相当するとお考え下さい。その後に、「だけど、その後はしばらく同じことの繰り返しが続きますので、飽きるかもしれません」と続くのですが、その後に続く問題はひとまず脇に置いておきます。

 レッスンでいきなりやるのは、「技法グラウンド」です。「コーチが一度読んだものを生徒が5回以上繰り返す」です。これを始めるとすぐに、

○ リエイゾン (音のつながり):
○ 黙音 エリジョン (前の単語が上の歯で終わる音 tdln・th、
○ 音の同化 would you (ウッド・ユー)が、woul dyou (ウッ・デュー)

 を扱わないわけにはいきません。これらがすぐに問題になるのは、こちらが「つなげる」と指示を出さなくても、こちらの読みが「つながる」読みだからです。生徒が「つながる」読みをしようとするとすぐに出てくる問題がこれらの問題です。
 これらに問題があった場合に、これらを扱わなかったという生徒は素読舎のレッスンには一人もいません。どの生徒でも必ず扱っています。
 want to に出てくる二つの t をどちらもはっきり発音してしまうので、前の単語の最後にある t は「黙った音に変わる」「舌の先は上の歯の歯茎の裏に一度つけるだけ」のような指示を出し、モデル音をこちらが出しますと、ほとんどの場合その場で直ります。
 ですが、次に cut two が出てくると、また t を二度別々に発音したりします。そのたびに直しますが、生徒はまだ個別場面から離れる余裕がないから、それでひとまずはいいのです。

 would like も eat noodle も「似たようなもんだ」という感覚が抽象されるまでに、あくまでも平均値ですが、1年以上かかります。

 「舌の位置が(ほぼ)同じ音はぶつかりあうので、言いにくい。だから、舌を一度つけただけで二つとも言ってしまう。そうすると、前の音(後の音)が黙った音に変わる」というふうに解析すると長ったらしくなりますが、個々の場面で何度も「黙った音」を扱っているうちに、同じ法則が適応できる場面に適応していく生徒もいるし、いつまでも個々の場面だけにとどまってしまう生徒もいます。ですから、感覚が抽象されるまでの平均値は、あくまでも平均値です。

 ていねいにゆっくりやるのは、最初の3千行くらいまで。その後も、減りはするものの問題は出てきますのでそのたびに扱います。しかし、指示は手短になります。

 この初期の扱いを「ゆっくり」やるのは構わないのですが、ここでも生徒は「動き」の中で感覚を抽象するのだということは見落としてはならないことです。「動き」の絶対量を確保し「慣れ」を作ることでしか、感覚を抽象することはできません。合宿でもやれば別でしょうが、週1回30分という枠では、「だいぶよくなったな」というところに出るのに、平均値で1年以上かかるということです。これが素読舎が、実質部分において「生徒の繰り返しにつきあう」ということの実質部分です。

 で、ここで鳥瞰図を作りたいのですが、

○ リエイゾン (音のつながり):
○ 黙音 エリジョン (前の単語が上の歯で終わる音 tdln・th、
○ 音の同化 would you (ウッド・ユー)が、woul dyou (ウッ・デュー)

 は、私の「音づくり」の全体においては、ごく一部分でしかないということです。

 「つながる」→「つなげる」→「もっとつなげる」→「もう一段とつなげる」→「口の動きに力を入れる」→「口を大きめに使う」

 という一連の流れの中のどこにも、リエイゾンやエリジョンが出てこないのですが、実はレッスンではしょっちゅう扱っています。つまり、「音づくり」全体の中では、リエイゾンやエリジョンの処理は、「つながる」→「つなげる」→「もっとつなげる」→「もう一段とつなげる」の中に含まれてしまっているのです。

 ほとんどの学校はこういう練習をやりません。学校のカリキュラムにリエイゾンやエリジョンの解決が出てこないのと、素読舎の「つなげるの強化」にリエイゾンやエリジョンの解決が出てこないのは、根本的に違う理由によります。
 学校はやっていないから出てこないのです。方法的にすっからかんだから出てこないのです。素読舎は「そんなのやるのは当然だろ」であり、「音づくり」全体におけるごく一部分だから出てこないのです。

 キリピーが合算で何万行やったのか、正確なところは知りませんが、多分2万数千行くらいじゃないかと思っています。小川さんが見事に言い当てたように、キリピーの問題は「下駄ばき走法」です。また、吉さんが見えていないのは仕方ありませんが、この「下駄ばき」がキリピーの初期には、とてつもないものだったのです。(らくださんが、長野南高校が何であるか見えていなかったようなものです。)
 今は、女の人が女の下駄を履いて小走りに走っているみたいな感じですが、キリピーの初期は、3歳くらいの幼児が大人用の下駄をはいているみたいで、ガッタガタだったのです。もし、吉さんが初期のキリピーの「下駄履き」を聞かれ、その後に今のキリピーの「下駄履き」を聞けば、「おお、こんなに変わるもんなのか」と驚かれるに違いないのですが、「下駄履き」はいまだになおりません。そろそろスニーカーに履き替えてもいいなとは思うのですが、キリピーは今のところ下駄じゃないと駄目なのです。その場合、私は「下駄履き」を大きく肯定します。先日は、「下駄の歯もそのうちに減ってくるわ」という言い方をしました。

 リエイゾンやエリジョンの処理法を指示してその場で直る場合は、そうするのがいい。それをやるときはゆっくりめにやるのもいい。吉さんはそのことを言っているのだと思います。しかし、それをやっても、キリピーはすぐにまた別の文で「下駄履き」で走ります。

 ここのところに、本質的な問題が露呈しているのだと思います。

 つまり、意味と文法の問題です。
 私は以前からずっと、キリピーが文法を媒介にし、構文を把握し、意味をとるようになるのを待ち続けています。テキストの「レッスンで扱わない部分」を自分で扱うことを待ち続けています。キリピーは「言いながら書きながら思う」をやるべきなのです。
 そこが解決しないと、「固まりを固まりとして読む」ということは本当には成立しません。つまり、「下駄履き走法」は、「もうどうにも止まらない」から抜け出すことができません。「固まりを固まりとして」ということは、「意味の固まりとして」ということですから。

 これは待つしかないのです。それを待つ方法が、「つながる」→「つなげる」→「もっとつなげる」→「もう一段とつなげる」です。
 リエイゾンやエリジョンをいくらやっても、文法を媒介するのには役に立ちませんが、たとえ「下駄履き」であっても、「もっとつなげる」や「もう一段とつなげる」は、文法の媒介に役に立ちます。
 読みがつながっていない文の理解は、「パズルを解くような」と言われているものです。それは「部品」の「組み立て」です。そうじゃない。それをやり、それを捨て、「イメージ」の「統合」にならないと駄目なんだ。「つながる」→「つなげる」→「もっとつなげる」→「もう一段とつなげる」をやりながら、私がずっと待っているのは、「イメージの統合」を待っているのです。その準備として「下駄履き走法」だって役にたつのです。

 イメージが「統合され意味になる」ということが起これば、「下駄履き走法」は直ると思っています。キリピーはそういう段階なのです。初期3千行の問題とは腑分けしなければなりません。

 「イメージ」という(意識における)具体物が、「イデア」という抽象物に変わるのを待っていると言っても同じです。つまりは、キリピーは「切断読み前夜」なのです。

 この時期においても、リエイゾンやエリジョンを処理するのは大切なことですが、それはやはり外科手術に過ぎない。本質には触れない。問題は本当は(語学の)心身のバランスであり、文法を媒介にするための「血の元気さ」です。「つながる」→「つなげる」→「もっとつなげる」→「もう一段とつなげる」は、血管のつまりを除いて、元気な血が流れるのを待っているのです。いくら血が元気になっても、血管がなければ、これまたしょうがないですから。

 長くなりすぎるので、ちょっと中断します。



吉さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月25日(日)15時29分28秒

 非常に煮詰めた言い方をしてしまいますが、吉さんは「教える」ということをやっているのだと思います。私が「行儀がよすぎる」と感じるのはそのことだろうと思います。
 私の自覚では、私は「教える」ということはやりません。
 私がやっているのは、生徒の体の動きを「作り出す」ということです。
 その動きの中に、指示を「置く」ということです。
 「教える」ということによく似ているように見えますが、別のことだと考えています。

 本当の先生は、生徒の「体の動き」だと思います。



根石さんへ 投稿者:吉 投稿日:2010年 7月26日(月)23時10分15秒

根石さん ありがとうございます。

> 体の調子がよくないときは、休んで下さい。私も掲示板にずっとごぶさたすることがよくあります。

はい、ありがとうございます。 私もこちらの事情を簡単にでもお伝えするべきでした。

> 前回の千代・キリピーの枠でやってみたことは、素読舎の方法のうち肝にあたるものだという思いが
> あったので、それについては何か書いてくれるだろうと期待してしまったのでした。
> 急がせてしまったようで申し訳ありません。

先週、ここで何か書くのが良いのだろうと思ってはいたのです。
根石さんも期待しているだろうとは、気付いておりました。
キリピーさんの音、本当によくなりましたし、、。
しかし、調子が下がってしまって、週末には書こうと思っていたのですが、すみませんでした。

精力的に投稿をしていた数年前は、
睡眠時間が3-4時間でもまったく問題がなく、平日の夜でもアイデアがあふれてくると
布団から起きだして書けるほどでしたんですけどね。
今は、気持が疲れてしまって、平日の夜に文章を書くのがとても大変です。

会議室に参加できなかったり、以前ほど精力的に書けていないことがとても気になってもおりました。
私は、どちらかというと真面目な性格なので、実は会議室を「休む」ということも
気持の上ではめちゃくちゃ負担にはなってしまうのです。
今は気持ちの負担になるので、なるべく約束事を作らないようにしております。
週末も全面休養にあてている状態です。 ご理解ください。

> 吉さんが見えていないのは仕方ありませんが、この「下駄ばき」がキリピーの初期には、
> とてつもないものだったのです。(らくださんが、長野南高校が何であるか見えていなかったようなものです。)

そうなのですね。 今回もまた詳しく書いてくださってありがとうございました。
私は根石さんが育ててきた生徒さんの経緯と状態を知らないので、
途中から指導に入るととても難しいと感じることがあります。
これは注意して良いのか? そういう段階ではないのか?と、いちいち考えることで(躊躇することで)、
ワンテンポ、アドバイスが遅れることがあります。

しかしおかげ様で自分の「コーチの耳」が鍛えられていることが、自分でもよくわかります。
特に、キリピーさんと千代さんの組に混ぜてもらってから、
生徒さんの音を聞く耳がずいぶん変わったな~とハッキリ感じます。

> 本当の先生は、生徒の「体の動き」だと思います。

はい、その通りだと思います。
生徒さんが自分で自分に教えるということだと思います。
自分ではそこにポイントを置いてやっているつもりです。
そうなのだと思っているのですが、、、しかし、

> 私がやっているのは、生徒の体の動きを「作り出す」ということです。
> その動きの中に、指示を「置く」ということです。

ありがとうございます。 この一文が「芯」であり「核」なのだと思います。
ここの理解が自分の中で無意識に、、自分の気持ちから自然とあふれでてくるようになることが、
僕には必要なのだと感じております。 頭で理解しているようでは全然使えないのです。
そして、それは自分の中でドカンと落とすしかありません。
方向性は見せていただきました。 あとは実践の中で自分の中に理解を落としていくしかありません。
レッスン中に、また、書き込みで、根石さんの「糸の張った状態」という言葉を何度か読み聞きしましたが、
今日のレッスンでおっしゃていることがスッとつかめた気がいたします。



吉さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月27日(火)00時17分57秒

>私は、どちらかというと真面目な性格なので、実は会議室を「休む」ということも気持の上ではめちゃくちゃ負担にはなってしまうのです。

 これはねえ、全然気にしないで下さい。
 今は、ほとんど飲み屋状態です。
 飲み屋での話を、村田君がテープ起こししたりすると、えらくまあ、ちゃんとしゃべっているかのように見えるのです。
 ときどき、ろれつが回らないのですが、テープ起こししたものは、村田君の創作だと思ってもらってもいいくらいなもんです。
 時々、俺、こんなことしゃべってたんだっけというようなものを読むことができ、楽しいです。
 酒飲んでくっちゃべろうかという気分の時にご参加下さい。
 馬鹿話も、大まじめに語学論をやるのもどちらも歓迎するお部屋です。



吉さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月27日(火)00時25分4秒

>私は根石さんが育ててきた生徒さんの経緯と状態を知らないので、
途中から指導に入るととても難しいと感じることがあります。
これは注意して良いのか? そういう段階ではないのか?と、いちいち考えることで(躊躇することで)、
ワンテンポ、アドバイスが遅れることがあります。

 キリピーと千代の枠では、言いたいことをどしどし言ってもらっていいです。あやつらは耐性ができています。時々泣きますが・・・。



根石さんへ 投稿者:吉 投稿日:2010年 7月28日(水)06時54分24秒

> あやつらは耐性ができています。時々泣きますが・・・

いやいや、、最初はビックリして僕の方が泣きそうになりました。 (笑)
「ピンと糸の張った状態」・・・ここを感じとれることがポイントなのだと、
強く思い始めています。 今なら変われる気がいたします。

<略>


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