語学論

素読舎の小学生用の練習

素読舎の小学生用の練習 投稿者:根石吉久 投稿日:2011年 3月 9日(水)21時54分15秒

 素読舎の小学生用の練習は、日本語の練習の要素が大きいことについて、江戸の母さんが書いておられますので、これにお答えしておきます。

 素読舎の語学論は、英語の学習法について論じてきたものですが、実は、英語という個別言語、日本語という個別言語を突き抜けています。

 例えば、音とイメージの関連を述べる場合、そのこと自体は、英語にも言えることであり、日本語にも言えることです。ヒンドゥー語にもポリネシア語にもドイツ語にもフランス語にも言えることです。この地上のどこに住んでいる人にも言えることです。
 逆に言えば、学習者にとっての音とイメージの前後関係や相互関連をきちんと把握できれば、そのことは日本語の練習にも英語の練習にもその他の言語の練習にも「同時に使える」ということです。
 そして、そのことこそが日本の小学生の練習にとって必要なことなのではないのでしょうか。音とイメージの間のダイナミクスは、言語の練習だけでなく、学校の他の科目にも使えるのです。根底にあるのは、「音」と「イメージ」という普遍性ですから、あらゆるところに静かに影響していきます。

 しかし、子供の中に音に対応するイメージを作り出すなどということは誰にもできることではありません。
 ある具体的な文における一単語の音がどういうイメージを喚起すべきなのか大人がわかっている場合、そのイメージとまったく「同じもの」を子供の中に喚起する方法は「ありません」。
 この場面で、説明というものはまったく無力です。説明してわからせようとすれば、「そのことによって」イメージが「同じもの」では「ない」ものに変わってしまうからです。

 大人が説明して子供が持つようになるイメージ。これは、テスト用の知識に近いものです。
 子供が誰に説明されたわけでもなく自分でつかんだイメージ。これは、判断力の元になるようなものです。

 この二つはすでに違うものです。根底からして違うものです。

 大人が子供に対してやれることは、子供が自分でイメージをつかみに行く場合に、「邪魔になるものを取り除いてやる」ということだけです。
 素読において「すらすら読めるようにする」ということは、「邪魔になるものを取り除いてやる」をしているのです。

 逆に言うと、「すらすら読めない」ということが「邪魔になるもの」そのものなのだということになります。

 「すらすら読めない」からイメージがつかめないという場合が音とイメージの間には多くあります。非常に多くの場面にこれがあります。算数の文章問題が解けない子供にとって何が問題なのか。蓋をあけてみたら、最大の原因が、「すらすら読める」レベルを獲得してないからだったというような事例はごろごろしているはずです。「すらすら読める」レベルにしてやったら、子供が面白がって文章問題をやるようになったなんてこともいくらでも起こり得ることでしょう。邪魔が取り除かれることで、思考そのものが動き出すのです。
(ついでですので言っておきますが、「どんぐり」とやらの糸山とやらいう人が、このような言葉とイメージの関係とか、読みのレベルを獲得することで「邪魔を取り除く」ことに言及しえていないならば、「視考力」も糞もないのです。文章が読みとれ、抽象すべきものと捨象すべきものがわからなければ、「視考力」はその初動を得られないからです。)

 素読舎で英語の練習をしていたら、他の科目が伸びたというような現象の鍵もこのあたりにあると考えています。

 ある難しい漢字について、「私はこの漢字は読みは知らないけど、どういうことなのかはわかる」という場合があります。それについては、そういう場合があっても構わないというくらいな位置づけが正しい。もしあらゆる漢字が全部「読みは知らないけどわかる」ものであった場合、その人の日本語能力というものは偏ったものになります。例えば、この掲示板に何か書こうとしても、漢字変換ができないというような具合にです。

 漢字変換というような例を出しましたので、これで考えてみれば、漢字変換ができない場合に、「邪魔を取り除く」には、その漢字の読みがわかるようにする。音に応じてひらがなが書けるようにするというだけのことです。

 漢字変換などという局所的なことではなく、広く日本人の子供から「邪魔を取り除く」作用があるものという観点から見れば、もっとも汎用性があるのは、子供にとって難度を含む文を「すらすら読めるようにする」という練習です。

 例えば、学校の音読というものがあります。これは「すらすら読めるようにする」を実際に実現しているかどうかから考えると、実現しているとは言えません。宿題で何回読んだかなどを問題にして、自己申告させ済ませているだけで、「すらすら読めるようにする」まで、子供の「繰り返しにつきあう」ことはしません。何十人もの子供を相手にそんなことができるわけがないというのが言い訳であり、実際にもそれは無理です。

 私がレッスンで、小学生に日本語の文を読ませてみても、学校が子供に必要なことをやらせていないことがはっきりわかります。それが多くの割合を占めます。
 語彙が抽象的になる場合、日本語の(読み書き用の)シンタックスが身体化されていないと読み書きの障害になっていきます。読み書き用のシンタックスの身体化を学校はまともにやっていないのです。これは、生徒の個々に対して、「繰り返しそのものにつきあう」ことでしか養うことができません。「身体化」そのものに自分で面白みを見つけることのできる子供は別ですが、近頃増えている「数学頭」の子供(すぐに近道を探し楽をしたがる頭)は、言葉の身体化を喜ばない傾向があります。日本の子供の学力低下の真の原因は、社会のいろんな場面がコンピュータ化され、システム化され、その反映として子供の頭の動きが「数学頭=コンピュータ頭」になっている傾向のせいではないかと私は疑っています。学校の授業時間数を増やすかどうかなど、本当は何の関係もないことだろうと。

 素読舎のレッスンで、「現在進行形:am(are, is)+ 現在分詞」などという日本語を小学生が読まされた場合、こんなものにイメージを持つことは「最初は」できません。できなくて当たり前であり、それでいいのです。
 しかし、
 I am playing baseball.
 などという具体的な文を「すらすら読める」ようにする練習と、「現在進行形:am(are, is)+ 現在分詞」を「すらすら読める」ようにする練習は、小学生でもできます。最初は口うつしで言えばいいのですから、小学校の低学年にでもできます。(できますが、「スカイプでレッスン」の性質上、回線の品質確保などの問題が生じた時に子供が対処できないのでやりたくないだけです。)そのことによって、子供が自分でイメージをつかもうとするときの「邪魔を取り除く」わけです。
 I am playing baseball.
 には、「am(are, is)+ 現在分詞」という約束事が含まれているだけでなく、他にいくつもの文法事項が含まれています。
 am は主語が I の場合に限るとか、playing は play という原形に ing がついたものだとか、動詞には原形というものがあるとか、どれが主語であり、どれが動詞であり、どれが目的語であるとか。こんな簡単な文にも多数の文法事項が含まれています。
 「すらすら読めるようにする」というのは、そのそれぞれの文法事項についての文を「すらすら読めるようにする」ということです。
 そうすることで、子供が自分でわかろうとする時のために「邪魔を取り除いておく」のです。いつ本気でわかろうとするのかは子供にまかされています。

 日本語の文についても、英語の文についても、「すらすら読めるようにする」という同じ練習が行われます。
 その場合に、英語の音として後で困るようなものを排除するということも伴います。これもまた「邪魔を取り除く」です。(これがやれる塾はほとんどありません。)

 素読舎のレッスンを始めたばかりの子供はひたすら混乱します。何のことやらちっともわからないという状態になります。それでいいのです。この状態を持続していないと、一挙にみんなわかってくるということが起こらないのです。

 抽象レベルを備えたものを理解する場合には、そういうところを必ず通ります。素読舎を使わない場合(多くの場合)、それをやみくもにやるだけです。そして多くの子供が途中で放棄するということが起こります。それが実態です。

 以上書いたところは、果たして日本語の練習なのでしょうか、英語の練習なのでしょうか。日本語の練習でもあり、英語の練習でもあると言うのがより正確なところなのではないでしょうか。
 それよりもむしろ、音とイメージとを連関させるための練習なのだというべきではないでしょうか。しかし、そう言ってしまえば、これは、日本語の練習でもなければ、英語の練習でもないとも言えます。あくまでも、音とイメージの練習なのだと。
 それがもっとも正確な言い方だと思います。

 音とイメージの連関というように、日本語やら英語やらの個別言語のレベルを突き抜けたレベルで考え、そこから方法を組み立てているのは、私が見る限りでは素読舎しかありません。
 英語の練習でも、この「突き抜けた」レベルで行うしかないのです。個別言語にとらわれたあらゆる方法は、駄目だと考えています。
 これは、「やみくもにやって効果をあげる人」の中に起こっていることを言語化しただけのものなのです。しかし、それが言語化されなければ、方法というものにはなりません。言語化される前のものは、もうこの娑婆にいくらでも転がっています。

 素読舎の方法は、時に娑婆的には「とんでもない効果」をもたらすことがあります。
 高校1年からこの方法で始めた生徒が、長野南高校から名古屋大学に合格したということがありました。長野南高校がどういう高校であるかは、長野県の長野市に近いあたりの人にしかイメージできないでしょうが、この生徒が名古屋大学に受かったと友達に言ったとき、「それなに?」という反応しかなかったそうです。ほとんどの生徒が、美容師関係とか調理師関係とかの各種学校に進むので、長野南高校の生徒には、名古屋大学などというのはこの世に「ないも同然」のしろものだったということです。

 通常の進学指導などでこういうことは起こりません。
 日本語を突き抜け、英語を突き抜け、音とイメージの相互作用という抽象のレベルで激しく混乱するということを避けずに練習を続けたから、このことが起こったのです。

 誰もがそんなことをしなければならないのか。
 そんなことはありません。
 しかし、学校はいずれそれを要求してきます。学校は「邪魔を取り除く」ということをやらずに、抽象レベルだけは要求してきます。「落ちこぼれ」というものは、「学校が作り出しているもの」です。ほとんど泥棒行為に等しいものです。

 「邪魔を取り除く」ということをやらないのであれば、学校が本当に作っているのは「落ちこぼれ」だけです。本当の実力をつけた生徒は、学校なんかアテにしなかった人たちだと私は思っています。

 素読舎は学校という「よからぬもの」にどう対処すべきかを提唱しているのだと考えてもらってもかまいません。

 単なる「やみくも」だけやって、中途半端に抽象レベルに「さらわれ」、現実対応能力を失ったような大学出がうじゃうじゃいます。学校(制度)に「してやられた」人達なのです。中間テストや期末テストに「飼われた」人たちです。
 言われたことしかできないとか、自分で仕事を作ることができないとか、同じことをするのでも、「自分の仕事にする」ことができないとか。

 大人が子供に対してしてやれることは、「邪魔を取り除く」ということだけです。
 それをしっかりやらないで、学校制度の中で点をとることなんかに本気になるから、現実対応能力のない大学出なんかの一丁あがりになるのだと考えています。

 私はひそかに疑っています。現実対応能力がない人というのは、言葉とイメージが現実に対応できるまでに一致していない人なのではないか。テストだの受験だのに「さらわれて」、言葉とイメージの一致を「奪われた」人なのではないか。つまり、文学がわからない人なのではないか。
 「正解する」ことに価値を見る人(点に価値を見る人)とは、「仮にそうするだけのこと」であることがわからなくなった人のことではないか。制度がやらせるものに真実性はないということが見えなくなった人のことではないか。「正解」とは制度的なトリックだということが見えなくなった人のことではないか。「正解」が置かれるのは、世界から切れた舞台の上であるにすぎないことがわからなくなっているのではないか。そんな知識は、この世に生きるときの「媒介項の一つ」にすぎないということが見えなくなっているのではないか。

 言葉に制度が与えるイメージしか対応させることができないこと。これは、作ることでも産出することでもない。そのことに一生懸命になって、自分がイメージをつかみ、世界を新しくすることを「奪われた」人達。

 語学論は、大学出のぼんくらどもを照らし出すこともできるのだと書いていて気づいた。キーワードは「イメージ」だろう。

(略)


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