語学論
『脳の発見』抜粋
『脳の発見』抜粋・1 投稿者:根石吉久 投稿日:2011年 1月15日(土)02時14分50秒
「「快傑ハリマオ」の読者には、松岡祥男さんから送付してもらっている人と、私から直接送付している人がある。私から送付している人の一部には、前回「塾はどこまで行くのか」という素読舎のパンフレットを同封させてもらった。パンフレットを読んでくれた中島暁夫さんが、角田忠信『脳の発見』(大修館書店)という本を蔵書の中から探しだし「読んでみたら」ということで私にプレゼントして下さった。
この本が言っていることをもっとも簡略に言えば、「ポリネシアの人々と日本人の脳の働きだけが世界の中で特殊だ」ということになる。
科学的(医学的)実験を積み重ね結論や推論を導き出しており、各種の実験の過程もきちんと読まなければならないのであろうが、その部分は専門的な用語が多く、読んでもよくわからないことが多い。結局、実験結果だけを拾い読みするような読み方をした。
後に参照して役に立ちそうなものをピックアップしておこうと思った。おそらく、「大風呂敷」の読者の方々にも参考になるものが含まれるはずである。
ちょうど風邪をひきこんで、体がだるく、今日で3日ほど炬燵にばかりあたっている。読んだ本の中から、ピックアップするくらいなら、風邪をひいていてもできると思い、作業にかかることにする。
※印のついている部分は、私の覚え書きやコメントである。
--------------------------
ひとつにはこれまで殆ど注目されなかったことであるが、脳の中には左脳と右脳とに分かれる手前に非常に精緻なスイッチングというメカニズムがあって、それが外来刺激の物理的特性に自動的に応じて左右に振り分けている
(p.8)
--------------------------
聴えに重大な故障がある場合、例えば全聾という生まれつき耳が聴えない人の場合には、喋る方のメカニズムはちゃんと健常に残っていても外来刺激が入らないために言葉が学習できない、正常なループを作ることができないということになる。自分が音声を出して同時に聴くということは、話し言葉によるコミュニケーションの基本になっている。
(p.25)
※「正常なループ」とは、自分が音声を出して、それを自分で聞くというループであり、音読・素読が使っているのもまさにこれと同じものである。
ここで、「話し言葉によるコミュニケーションの基本」と言われれているものは、「最小のループ」とだと言える。コミュニケーションは、自分の言っていることを自分の聴覚で聞くことではなく、自分の言っていることを、相手(他者)が受け取り、相手が言うことを自分が受け取り、受け取ったものに応じて自分が再び話すというのが「通常のループ」だからである。「最小のループ」が壊れていたら、「通常のループ」は形成されないと角田は言っているのである。それはその通りだろう。
語学論から言えば、この「最小のループ」は語学に属するが、「通常のループ」はすでに言語使用であり、語学「以前」、「以後」あるいは「以外」のものである。
『脳の発見』抜粋・2 投稿者:根石吉久 投稿日:2011年 1月15日(土)02時41分0秒
--------------------------
ホルマントとは、肺からの呼気で声帯の振動で生じたパルス波が声道を通り、舌、口唇などの構音器で狭められて共振して、ある周波数を中心として各母音に特徴的なパターンをつくることを言い、これが母音の認識に非常に大きく関係している。短く切った音であっても、こういうホルマントがあることが、左半球優位になる基本的理由であって、フィルターのかけ方によって音の認識に差があらわれる。
(p.38)
※「左脳」「右脳」「左耳」「右耳」の相互関係は、左耳で聞いた情報は右脳で処理され、右耳で聞いた情報は左脳で処理されるのだそうである。「左脳」と「左半球」、「右脳」と「右半球」は同じものを言っているらしい。
「左半球優位になる基本的理由」は、引用部分だけではわからないが、「日本人(ポリネシア人)の脳において」という語を補って読む必要がある。ポリネシアの人々と日本人以外は、母音に応じるのは「右半球」であるというのが角田の実験が明らかにしたことである。ポリネシアの人々と日本人だけが、母音を「左半球」で処理しているという。
--------------------------
一九七一年に現在ハスキンズ研究所長のリーバーマン(A.M Liberman)教授が来日した。彼は日本に来る前に研究所のスタッフから、ある方法を使って母音だけを使った場合には右半球優位という結果が得られていることを、角田に会ったら伝えてくれと言われてきたと言う。(略)私はそれを聞いて非常にびっくりしたと同時に当惑もした。なぜなら、言語の差によって脳の機能差が違うなどということは考えてもいなかったからである。
(p.44)
--------------------------
子音と母音の組合せでできた音節は左半球が優位である。これは日本人でも西欧人でも共通する。(略)検査条件を日本人にやったように厳重にすると、日本人は母音ははっきりと左半球優位、西欧人は右半球優位であるということが明確に証明できる。
(p.47)
--------------------------
日本人と西欧人で得られた母音の優位性の差とは、人種差ではなくて言語の差だということがはっきりした。この場合九歳まで日本語で育ってそれから外国へ行った人の場合には、完全な日本語型であって、二次的に覚えた英語の影響は全く受けないこともわかった。
(p.48)
※音の差というものは、方言にある「訛」を考えれば、同じ日本語の内部にさえあるのだし、あらゆる個別言語はその言語特有の音を持つのだから、言語によって脳の反応が違うとすれば、音によってではなく、シンタックスの違いによるのだろうと考えてきた。
シンタックスの違いで言語をグループ分けすれば、SVOグループとSOVグループに大きく分けられるのではないか、と。
角田の方法は科学的であり、従って計量化できるもの、パターン化できるものしか根拠にしない。科学の方法としては当然である。「音」に関して言えば、「物理的特性」というつかまえ方がそれである。
このあたりまで読んだときに、じゃあシンタックスはどうなるんだ、音には音の構成(音のシンタックス)があるはずだろうという疑念を持ったが、続けて読んでいくうち、角田は音のシンタックスまで考慮に入れていることがはっきりした。
そうなると、「シンタックス以前」、音の物理的特性の段階で、音は左脳に振り分けられたり右脳に振り分けられたりしているという理論に説得され続けることになった。
--------------------------
もう一人の例はペルーから来た二七歳の人で、九歳のときに鹿児島からペルーに渡って、それ以降向こうの学校に行っていたという。スペイン語しか話せないといってもいいくらいなのに、母音の優位性の型は完全な日本語型で、西欧語の影響を受けていない。従って、九歳までの言語環境が決定的に大事であって、それから後は外国語で生活しても影響を受けないことを証明している。
(p.51)
※9歳頃に、脳が一つの言語を決定的に選択するということは、幼児英会話などに浮かれている日本人がよくよく考えなければならないことである。角田の論理を突き詰めれば、脳が二つの言語を選択することは「ない」。何か一つが元になる。こばたま式の言語遊郭に通わせ、その後、小学校1年から3年くらいまで、「英語の磁場」がある学校に通わせれば、日本人の脳は日本に住みながら英語を選択するようになるということである。(角田によれば、脳が一つの言語を選択する場合、家庭の言語ではなく社会の言語になるそうである。)9歳以後も日本語の磁場で生活を続けた場合、9歳頃脳が英語を選択してしまった子供はどうなっていくのか。
パンフレットに掲載したメールにあるように、結局日本には住めなくなるのか、極度に日本が住みにくいところになり、新種のオタクが増えていくのか。そこまで行かなくても、やたらそわそわする人間が増えるのか。
いずれにせよ、九歳以降の子供の負担は並ではないはずだ。
--------------------------
これまでの検査は英語だけでなく、西欧語圏---スペイン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、スエーデン語、ノルウェー語、ハンガリー語、フィンランド語、ギリシア語、イスラエル・アラブ語---を対象にしてきたが、先進国の中では日本語だけが特徴的であった。さらに、朝鮮語、中国語(方言を含む)、東南アジアのベトナム、インドネシア、カンボジア、タミール語を含むインド諸語などを調べてみても東洋の中には左脳優位になる日本語型というのは見出せなかった。
(p.53)
※脳の反応という一点から見れば、日本人は完全なマイノリティであるということである。世界で、ポリネシアの人々と日本人が特殊なのだと言っている。これは、掲示板で東風平さんに指摘されるまで、私が勘違いしていたことである。ただし、角田の説に照らせば、ということである。私は、角田の実験結果が示す限りでは、「ポリネシアの人々と日本人が特殊」という説に説得された。以後、有力な参照事項として、語学論で使うことになるかもしれないと思っている。
『脳の発見』抜粋・3 投稿者:根石吉久 投稿日:2011年 1月15日(土)03時12分57秒
--------------------------
日本語の母音が他の言葉と比べて変わった点を調べてみると、「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」それぞれに意味がある。すなわち、「ア」唖、「イ」胃、意、医.....、「ウ」卯、鵜、「エ」絵、餌、「オ」尾、男、などがあげられる。
(p.53)
※「あ」吾、「い」猪、胃、意、「う」鵜、「え」餌、柄、絵、「お」尾、緒、など、一音だけで独立して意味を成す語を例示する方がいいと思ったが、これは瑕瑾である。
しかし、それよりも、日本語のすべての単音(「ん」を除く)が、伸ばせばことごとく母音に変わってしまうことに注目した方がいいのではないかと思った。「た」を伸ばして「たー」と言い続ければ、「あ」に変わってしまう。つまり、日本語のあらゆる音のベースに母音があるということである。日本語では、子音は母音から切れていない。つまり、乳離れならぬ、母音離れをしていない。
例えば、英語の t 音は伸ばすことができない。tを発音することは瞬時に終わる。子音が子音だけで独立している。日本語はあらゆる音を引き延ばすことができ、そうするとあらゆる音が母音に変わってしまう。「母音優位」ということを言うのであれば、そっちに注目すべきではないのか。
しかし、角田のこれだけの記述でも、角田の中で音のシンタックスが無視されているわけではないことはわかったのである。
--------------------------
日本語には、母音だけの組み合わせからなる有意語が非常に多いことも指摘できる。「いい」、「あい」、「あう」、「あお」、「いいえ」など、いろいろな言葉がある。
(p.53)
--------------------------
母音の意味のある言葉が多い上に、「アカ」のようになるとVCVという、母音・子音・母音と、子音を中にして母音で包むような、ちょうど英語などで、子音があって母音を包むようなCVCという音節とは反対の組合せが多くかつ意味のある大事な言葉がたくさんある。これも日本語の特徴の一つと言えよう。
(p.54)
--------------------------
日本語という言語が特異であることはたしかだが、母音の扱い方で日本語と似ている言語には、ポリネシア語がある。母音が「アイウエオ」の五つであって、単独の母音は有意語であるが、「アア」「アイ」「アウ」「アエ」「アオ」などの母音の組み合せには例外なく意味がある。
(p.54)
--------------------------
ポリネシア語には固有の文字が無いから彼等の示す日本語型の脳の特徴は耳で覚えた話し言葉のなかから生まれたことを示している。
(p.55)
--------------------------
日本語で育った人達の場合には、母音のもっている僅かな周波数の揺らぎに対応するようなスイッチの特性をもって育つけれども、日本人以外の人は、子音の破裂音のようなはっきりとしたFMが加わった場合に、それを言語脳の方に振り分ける、そういうスイッチの特性をもっている。
(p.67)
--------------------------
言語音と言葉でない音を同時に使って競合させると、言語音の方が明らかに言葉でない音よりも三〇dB位優勢であるという原則(言語情報最優先の原則)のあることがわかる。
(p.73)
--------------------------
スイッチ機構には二種類あることがわかる。両半球に分かれる手前にあって音の種類がわからなくても音の物理的特徴によって選別する低位のものと、話し言葉や読書のように意味レベルで働く上位のスイッチである。
(p.75)
※英語という言語のシンタックス(構文)が理解できても、自分で使いこなせるほどにはなかなかならない。英語のシンタックスが日本人の体に根付きにくい、あるいは根付いたものがすぐに剥げ落ちることの理由を角田の理論が言い当てているわけではない。しかし、言語のシンタックスは明らかに「意味レベルで働く上位のスイッチ」に関わる。シンタックスが身体化されていなければ、言語が意味になることはない。意味にならなければ、「意味レベルで働く上位のスイッチ」が動くわけはない。
問題は、日本語と西欧語でシンタックスが異なる場合、それで脳の働く部位が異なるのかどうかである。
ヒントは、引用した部分以外にある。角田は、西欧語の人では論理は左脳(言語脳)で扱われると言っている。言葉はロゴスだという言い方の通りなのである。日本人は、英語のシンタックス(構文・論理構造)を右脳に持ち込んでしまう脳を持っているのではないか。
p.23 に、優位半球(言語脳・左脳)は「分析的」であり、劣位半球(右脳)は、「合成的」であるという対称項目を含む表がある。
シンタックスが日本人の体に根付かないために、日本人が英語を使おうとすると、本来シンタックスを扱うべき脳の部位まで変わってしまうのではないか。仮に西欧型の脳を標準とした場合に、日本人は母音の扱いだけでなく、シンタックスの扱いまでが、脳の働きで「さかさま」になるのではないか。ここに、生活習慣などの言語「外」の要因まで加えると、三重苦になる。日本で作る英語力には、ヘレンケラー並みの「苦」の宿命があることになる。
言葉を使うとき、脳は「合成的」な機能として動かなければならない。しかし、日本人が英語を使おうとすると、脳は「分析的」になる。あるいは、「分析的」であることと「合成的」であることが、めまぐるしく交互に起こる。そして、そのそれぞれが脳の違う部位でなされている。シンタックスが身体化されないから、語順を主導するものがないからである。
素読舎の語学論からすれば、「磁場」だけが作る語学的生理とは、シンタックスの身体化にほぼ等しい。
別の言い方をすれば、日本人の場合は、英語を「理解」する脳と、「使う」脳は、部位が違ってしまうということではないか。
この「上位スイッチ」に関しては、単に音の物理特性に依存するのではないので、韓国人、モンゴル人などにも同様のことが起こるはずである。
『脳の発見』抜粋・4 投稿者:根石吉久 投稿日:2011年 1月15日(土)03時34分44秒
--------------------------
我々の実験でわかったことで重要なことは、日本語型を示す日本人とポリネシア人では、自律神経刺激、嗅覚刺激や、いろいろな情動刺激によって、スイッチが働いて非言語音の優位性が言語半球の方に変わるという特徴である。
(p.75)
--------------------------
脳内の言語音と非言語音の競合実験によっても明らかなように西欧語圏の人々は、持続母音は明らかに非言語半球が優位と結論される。
(p.76)
--------------------------
日本語型の場合、子音-母音の音節、及び持続母音が右耳(言語半球)優位となる。左耳(非言語半球)優位の音は、一〇一〇ヘルツ純音、ホワイトノイズ、及び西洋楽器音である。次に、西欧語型の場合には、言語半球優位の音は、音節単位の音、または言語音に限られる。持続母音ははっきり非言語半球が優位である。楽器の音、一〇一〇ヘルツ純音、ホワイトノイズなどは右半球優位(左耳優位)となる。つまり、日本語型と西欧語型をくらべると、母音だけが方向がはっきり違っているということが明確になった。
(p.80)
--------------------------
日本人にとっては、こおろぎの鳴き声は明らかに言葉や母音と同じように、右耳優位になることがわかったのである。日系二世及び日本人以外の人達は、例外なく全て左耳優位という特徴が得られ、まさかと思うような意外な結果になった。
(p82)
--------------------------
つまり日本語型では、母音や子音+母音だけではなく右耳優位の音の中に、感情音、素人のハミング、虫の音、鳥の声、牛や犬の啼き声、自然界の小川のせせらぎ、風、波、雨の音、もっと驚いたことには、伝統的な邦楽器の音まで言葉と同じように左半球優位であることがわかったのである。
(p.84)
※この引用部分のあるページに、角田が日本人の左脳・右脳、西欧人の左脳・右脳が分担するものを非常に簡潔にまとめたものがある。
西欧人の左脳は「理性的(ロゴス)」なもの、右脳は「自然的・感性的(パトス)」なものを分担するという。
日本人の左脳は「心(理性的・感性的・自然的)」なものを、右脳は「もの」を分担するという。
感性的なものの処理部位が西欧人と日本人ではっきり違う。
ここに英語のシンタックスが本当には日本人には身体化されにくいという語学的観点を加えるなら、語のイメージとシンタックスが合体されて意味となる時に、日本人は脳の別々の部位で、イメージとシンタックスを扱うからだろうという推測が成り立つ。それでは本当の意味では「合体」にならないのではないか。あるいは絶えず、微細な「時差」を生み出してしまうのではないか。
日本人にとって、語学でやっただけの英語のシンタックスは、ついに「もの」である。語のイメージの発生は言語脳(左脳)で行い、その容器(シンタックス)が右脳にあるとき、日本人の脳は右脳左脳(右往左往)する。
語のイメージの継起と、シンタックスの形成は別々のことではない。ネイティヴな話者にとって、これは厳密に同時である。
身体化(内在化)されたシンタックスという型があるから、語はそれにのっとって生起するし、語が生起すれば、シンタックスを外在化させる。
日本人の脳が右脳左脳するとき、同時に起こるべきことが同時に起こらなくなるのだろうと推測される。
角田の実験には、言語のシンタックスという観点はない。「身体化されたシンタックス」というものは、科学的・医学的には計量化もパターン化もできないだろう。それは脳やパルスのようには実在として扱えない。シンタックスという観点をとることができないのは無理もないとも言える。角田は語学屋ではないわけだし、この点は仕方がない。
--------------------------
非日本語で育った人の場合には、あくまでも左脳の分担は理性だけであって、理性以外のものが入り込む余地がない。一方に、理性の左脳があり、他方に自然界の全ての音と感情的な人間の声、それを処理する右脳がある。理性とパトス・自然とが截然と分かれている。
(p.84)
--------------------------
現代はひとつの混乱期にあって、日本の学問が向こうから輸入した翻訳によってインパクトを得て新しいことが始まるのが一般であるから、もともとオリジナルに日本で始めた研究から得られたこのような日本人の特徴を考慮する余裕がない。
(p.90)
※角田はおだやかな人であるから、「余裕がない」としか言わない。しかし、このことは日本の学問の「植民地化」の進行を批判している文として読むことが十分に可能である。
角田は自分では「オリジナルに日本で始められた研究」を継続した人である。この本にそのことに対する自負ははっきり書いている。私はそう読み拍手する。
--------------------------
伝統的な邦楽器音は、日本人にとっては言葉のように右耳優位であって、西欧人や他の東洋人にとっては左耳優位であるという非常におもしろい結果が出た。西洋楽器については日本人も非日本人も左耳優位で差はない。
(p.91)
--------------------------
パトスは左脳ということがもしあるとすると、日本の近代医学が始まってから百数十年たつからその長い歴史の中に誰かが気づいていてもよさそうなものである。聴覚の場合には、私のが最初だとしても、エモーションということに関しては誰かが何かを見つけているだろうと期待して文献を随分探した。専門の精神科医、内科医にも聞いたのだが全く情報が得られなかった。
(p.104)
※「パトスは左脳」というのは、「日本人やポリネシア人の場合に」という語を補って読むべきところである。
--------------------------
『脳の発見』抜粋・5 投稿者:根石吉久 投稿日:2011年 1月15日(土)04時33分20秒
大勢の日本人を調べているうちに、特に大学や研究所のスタッフで知的な職場にいて、特に外国語に依存する度合の強い人や外国語学部の学生は何の負荷もない普通の状態でありながら、言葉の音だけでなく、同時に非言語音もやはり右耳優位であるような片寄った形をしている人が非常に多いことに気がついた。普通の人にはないことで、大学で被験者を集めると正常型が得にくいために異様な感じを受けていた。これはどういうことか。どうも外国語の学習と非常に関係があるのではないか。
(p.106)
--------------------------
話を聞いたり本を読んだり話したり書いたりしているときに、非言語音が変わるというのは、これは日本語の場合でも起る。母国語ではその使っている間だけ起り、使い終われば即座に元の左耳優位に戻る。しかし、外国語の場合には使った後、それがすぐには戻らずに長く影響するのである。
(p.107)
※ここで「非言語音が変わる」という場合の「非言語音」として想定されているのは、一〇一〇ヘルツ純音というものである。また、「非言語音が変わる」とは、音そのものが変わることではなく、脳の処理部位が変わることである。
--------------------------
リンガフォンの非常に理解しやすい英語会話を三〇分間両耳から聴かせておいて、その意味を理解してもらう。聞き終わってから計ってみると、もう言葉の負荷はとれた筈なのに、一〇一〇ヘルツの純音が逆転して全部言語半球の方に移動してしまっている。母音は右耳優位のままで変らない、これがあと数時間続くということが起る。
(p.108)
--------------------------
日本人が外国語を使う場合、左の脳の負担が非常に大きい。つまり、左脳の開発のためには外国語はたいへんすぐれた道具ともなる。しかし、そのために左に片寄ってしまって、未知のものを見つけるような、右脳的なことには向かない頭に知らないうちに歪んでいるのかもしれない。大事なのは両方の使い分けであるが、そのバランスをとることが、知的な日本人にとっては非常に難しいことになる。今後、日本人を使って外国人との脳機能の比較研究をしようとする場合に、日本人を外国で研究することには大きな制約があるということを知るべきである。
(p.111)
※英語をやった人こそ語学論を書くべきだが、英語をやった人に語学論の書ける人はほとんどいない。「未知のものをみつけるような」ことが苦手になっているのである。脳そのものの働きがそうなっていく傾向があるのだと言えると思う。
--------------------------
英語を右の耳から聴かせ、左の耳にビバルディの『四季』の弦楽合奏を聴かせておいて、三〇分間英語に注意を集中させても、刺激を終わった後でも殆ど逆転を示さない。純音は逆転しないで元の左耳優位に止っている。
(p.112)
--------------------------
その同じ『四季』であっても、琴という日本の伝統楽器で演奏した場合にはこれは見事に逆転が起こってしまう。日本では、バックグラウンドミュージックが非常に普及しているが、使われる音楽は西洋の器楽曲に限られている。正月シーズンには日本楽器の音を使うことがあるが、非常に疲れるというクレームが多いという。
(p.113)
--------------------------
日本人の二重言語話者は、日本語と外国語を含めて、両方を同時に学習したという人はまれであって、大部分の人は、ある年齢で全く未知か、又は殆ど関心のなかった第二言語に遭遇するという文化ショックを経験している。
(p.114)
--------------------------
この検査から言えることは、六歳以前の言語環境は優位性の決定に対しては、影響していないということと、情動の局在は聴覚の優位性と平行して発達し八才後半までの言語環境によって日本語型か非日本語型のいずれかに決定されるということである。
(p.118)
※「情動の局在は聴覚の優位性と平行して発達し」というところが何を言っているのか意味がとれない。
脳はいつでもその時点での「磁場」の言語を主言語としようとする。脳はいつでも選択しており、選択したものを主言語としようとしているはずだ。「決定」されるのが九歳頃だというだけのことである。
角田の理論には、五歳以前の幼児英会話教室などで脳が英語を「選択」し、九歳で日本語を「決定」するようなちぐはぐが起こった場合、情緒不安定等の害をもたらす危険についての配慮はまったく見あたらない。「決定」されるのが九歳だというのが医学的に真実だとしても、五歳以前が軽視されていい理由はない。
「決定」の時期だけを見ているから、そちらに配慮がいかないのである。その配慮がない見解が科学的・医学的見解として不用心に受け入れられることの危険は非常に大きいと言わねばならない。
三つ子の魂百まで、という時の三つ子の魂が、安易な外国語漬けによって根こそぎに揺さぶられることはありうることである。これは「人間の破壊」につながる。親が子供の魂を破壊する戦争である。親(国家)が権力によって、子供(民・生活者)の「人間の破壊」をやっている。人間と魂が同じものであるなら。
私は角田のような科学的・医学的な実験結果を持っていない。しかし、断言だけは継続してきた。5歳未満の子供に「幼児英会話教室」のような場所で、生身の外人と話させることを続けると、情緒の不安定な子供になる危険性は大きい、と。
繰り返す。私には科学的・医学的根拠はない。しかし、磁場に渡って語学の達人となった人たち(米原万里、鳥飼久美子など)は、私と同じことを言っている。この人たちに「磁場」という観点はないが、「磁場」で異言語のシンタックスを身体化した時の異様な混乱の感覚がはっきりと身体に刻まれているのだろう。「磁場帰り」という点が私と違う。私は「磁場帰り」ではなく、ただ語学論だけを根拠にそれを言ってきた。その他で二人が私と違うのは、二人とも女であることだろうか。男の達人は私の場合、國弘正雄を思うが、國弘は米原や鳥飼のように警鐘を鳴らすことはない。感覚が鈍いのだと思う。角田も鈍いと思う。医者こそは、とりわけ脳の研究を深めた医者こそは、この警鐘を鳴らさなければならないはずだ。その場合には、科学的根拠も糞もない。鋭敏な危機意識があれば足りる。鈍い人に何を言ってもしょうがないと言えばしょうがないということか。
私の生徒にそわそわして落ち着かない生徒がいる。幼児英会話漬けをやらされたせいだろうと私ははっきりと疑っている。この子の場合は、幼児英会話漬けをやらされ、後に脳が主言語として日本語を選び取った。
『脳の発見』抜粋・6 投稿者:根石吉久 投稿日:2011年 1月15日(土)05時15分27秒
日本で英語教育をやるとしたらやはり九歳以後、日本語型の形が決まって日本語の基礎ができた九歳位から始める方が無理がないかもしれない。ただし、日本語型がいいとか悪いとかという価値観で言っているのではない。どちらを選んでもいいから、中途半端な、臨界期の六歳から八歳の終わり、九歳まで、その間には言語環境を変えない方がいいだろうということを言いたいのである。
(p.119)
※日本人が日本語を主言語として生きる予定であるなら、英語教育は九歳以後ということに異論はない。しかし、「日本語型がいいとか悪いとかという価値観で言っているのではない。」というのは、語学論としてはでたらめきわまりないもの言いである。このあたりで角田が言っていることは、医学の研究というよりは語学論の範囲にあるものだ。
子供が九歳以後、日本の外で生きるのだとすでに決まっているのならともかくである。今の日本で、九歳に至る前にいる子供が、九歳以後、日本の中で生きることになるのか、日本の外で生きることになるのかは、九歳に満たない年齢で決められることではない。決まるとすれば、親の仕事の都合のような、一切子供の理由とは関係ないことによってである。それがほとんどすべてのケースである。
日本語を主言語として生きるようになるのであれば、幼児から触れ続ける言語も、九歳で脳が決定する言語も日本語がいいに決まっている。大学教授よ、あんまりでたらめを言ってもらいたくないものだ。
ここに至って、角田はまともな語学論など持っていないことを露呈してしまっている。いくら専門が違うからといって、大学教授がこの程度の迷妄を垂れ流すのである。日本にはまだ語学論が「ない」と私が言い続けてきた通りなのだ。
何がこの三流をもたらしているのか。生活言語と語学の言語の区別がなされていないことである。
素読舎の「種のまま持たせる」「芽を出させてはいけない」という理論にしか本当の解決はない。
ここで新たに私が自覚したものがある。素読舎のレッスンは、子供の主言語を日本語とし、副言語として英語を持たせようとする親が選ぶべきレッスンなのだということだ。その選択ができることがまともな親というものではないだろうか。幼児英会話に通わせる親は増えている。素読舎にはごく少数の問い合わせが来るだけだ。親がまともでなくなってきているのだ。語学論を馬鹿にしていると、英語周りにいよいよ馬鹿が増えるだろう。
「芽を出させる」のは、英語の「磁場」でなければならない。「芽を出させる」時に、次から次へと芽が出るほどの蓄積を、「種として」、「種のまま」持たせる。それしかない。一切何の害ももたらさない方法は、それしかない。つまり、それが素読の原理である。
学校英語を信用してはならない。それは種の形をしているが芽を出さない。つまり「種として」が成立しない。つまり「しいな」である。それも駄目だ。しかし、それ以上に駄目なのは、生活言語と語学の言語の区別がついていないことなのである。
角田には英語フリークどもの「生の英語」信仰はないが、しかし、生活言語と語学の言語の区別がついていないことによって、世の人々に大きな害を及ぼすことになりかねないことは自覚すべきである。
六歳から九歳までの間、言語環境を変えない方がいいというのは角田の言う通りだ。しかし、それ以前はなおさら言語環境を変えない方がいいのだ。子供の生誕から九歳まで、言語環境は一つがいいと言い切れない者こそ、「中途半端な」者なのである。
--------------------------
低音域の一ヘルツずつの連続的な研究の過程で、四〇ヘルツと六〇ヘルツとその倍数に非常に特徴的な変化を見つけた。四〇と六〇と八〇である。つまり、四〇ヘルツ、六〇ヘルツ、八〇ヘルツは、その周波数に限って左耳優位になり、その一ヘルツ前後の三九、四一、五九、六一、七九、八一ヘルツは右耳優位という逆転現象を一ヘルツ単位で示すというおもしろい現象が見つかってきた。
(p.128)
--------------------------
言葉と関係のない領域だから、これはむしろ生物学的に何か非常に大事な特性をもっているに違いない。日本人も外人も差がないのが特徴的である。
(p.128)
--------------------------
人間の脳の中には、一秒に対応する正確な検知系があると考えざるを得ない。それは生物学で言うような曖昧なものではなくて、社会的な外部時計と同じ精度の時計でなくては説明がつかない。生物学的なものではありえない。なぜなら一秒は人間が恣意的に決めたものだからである。
(p.133)
※私には客観的知識の量が少ないので、もしかしたらとんでもない空振りをするかもしれないが、それを覚悟して言うことにすれば、「社会的な外部時計」なんかに人間の生理における正確な一秒を照合させようというのが錯誤ではないか。
(この本で、一秒というのがどういう意味を担わされているのかが、実は私はわかっていないまま書いている。)
この一秒とは確かに生物学的なものでないかもしれないが、それは生物学がまだ未熟だからであって、一秒は社会においても人間の脳においても「宇宙的なもの」ではないのか。それは、「人間が恣意的に決めたもの」なんかではないはずだ。秒の集合が分であり、分の集合が時間であり、時間の集合が日であり、日の集合が月であり、月の集合が年であるとたどってくれば、そこに宇宙の運行というものが現れる。秒だって、「恣意的なもの」ではなく、宇宙の運行に根拠のある単位なのではないか。科学者がまさかその程度のこともわからなくてモノを言っているとは考えにくいので、「一秒は人間が恣意的に決めたもの」というのがどういうことなのか私には本当のところはわからないのである。
年をなぜ12で割って月にするのか、月をなぜ30で割って日にするのか、なぜ31で割ることもあるのか、日をなぜ24で割って時間にするのか、時間をなぜ60で割って分にするのか。これらの数を「恣意的なもの」と言っているのだろうか。私は最初に断った通り、こういうことには無知なので、これらの「なぜ」に答を出せないが、これらの数字には天体の運行という根拠があるのだろうと思ってきた。地球が太陽の惑星であるという「運命」に根拠があるのだろうと思ってきた。そんなことではないのだろうか。もっと高度なことを言っているのだろうか。どうにもそうは思えないのだが・・・。
引用部分の後で、角田は「これを検証するためには時計を持たない者を調べないとわからない」と書いているが、12とか30とか24とか60いう数が「恣意的なもの」でないなら、時計を持つ者と持た者のどちらを調べても同じ結果がでるはずだ。考えが転倒しているのではないか。一秒という単位が時計に根拠があるのではなく天体の運行に根拠をもつなら、時計なんか持っていようが持っていまいが、人間の生理がそれを検知する機能を持っていることに不思議はない。すごいなとは思うが、不思議はない。私が何かとんでもない勘違いをして、とんちんかんないちゃもんをつけているのだろうか。
--------------------------
現在、生体時計という概念で多くの研究が行われているが、ヒトの脳には生命の誕生以来、連綿と宇宙の運行と同期して働く正確な年輪システムが存在すると結論される。このシステムには人種、性、年齢による差はなく、人間は明らかに天体の運行にくみこまれた宇宙の子であるといえよう。
(p.145)
※このあたりまで来ると、語学論と境を接するものは何もなくなるが、言っていることは十分にありうることだとは思う。こういうふうに考える人がなぜ、一秒は人間が恣意的に決めたものだなどと言うのだろうか。
--------------------------
一九八四年九月一〇日、午後四時から一〇時の間に私を含めて四人の熟練者が言語音は左耳優位、非言語音は右耳優位という、左右が完全に逆転する現象を確認した。これをきっかけとして、毎日連続的にテストを進めるうちに、このような逆転現象が月齢と関係していることがわかってきた。
(p.148)
--------------------------
一九八四年九月二五日以降は月齢以外の別の原因と考えられる不規則に持続する異常な逆転現象のために月齢との関係は観測ができなくなってしまった。一二月八日より常態に戻り、一二月一六日の下弦からは再び月齢に一致した規則的な異常現象が昭和六〇年二月二八日まで続いた。
(p.149)
※このあたりのことは引用しておくだけにする。角田もなぜなのかは「わからない」と書いている。北欧で鳩の帰巣本能が狂ったという事例も書いてある。人間が勝手にロケットやら宇宙船なんかを飛ばすと、どこでどういう影響が出るかなんて、本当はわかってないままやっているんだろうとは思う。パスカルの言ったことだったと思うが、「海に小さな石を一つ放り込むだけで、やがて全ての波の形が変わる。」変わった時の波の形をあらかじめ人間が知ることはできない。
-------------------------
数年前に言語学の指導的立場にいる方に、言語学とは所詮ファッションであって、欧米の新しいことを消化して紹介するのが本道でオリジナルなことを研究すると損をするといわれたことがあった。それがいまでも日本の社会科学に限らず諸科学の姿勢であるのかも知れない。
(p.159)
※「姿勢」とか歯切れの悪い言い方をしているが、基本的に同感である。語学論が「ない」という事態が当然のこととして続いてきたことから類推するのだが、日本の諸科学の多くの部分がオーベーの植民地なのである。
この部分を読んで、かつて広島大学の柳瀬という教授(助教授?)とネット上で喧嘩したことを思い出した。チョムスキーの「生成文法」という考えの基にある「人間における普遍性」、そこを起点としたアメリカ政治への批判というダイナミズムをまったく無視して、ただ言語学的部分だけを頂戴すれば、大学教員をやってられるという態度には、怠惰というものの典型を見る思いがしたことを思い出す。
風邪で喉が痛いが、炬燵があるので、なんとか抜粋はできた。
途中、三流語学論に腹がたったが、面白い本である。
語学を考えるための貴重な知見がある。
「大風呂敷」の読者諸兄が引用データを活用して下されば幸いである。
11/01/15 05:14