語学論

ジャムセッション

ジャムセッション 投稿者:根石吉久 投稿日:2011年 9月30日(金)03時56分16秒

 「ハリマオ」の編集をやろうと思うのだが、頭の中は「ジャムセッション」のことを考えている。
 規約を書き直すということは予定していなかったが、法的言語に何の抵抗感も持たない言葉にむかつき、それまでの規約を、「お願いの部分」と「規約的部分」とに振り分けた。その途中で、「ジャムセッション」について書くことになった。これは瓢箪から駒だった。村田君に感謝すべきなのだろうか。

 この掲示板の読者が、私が素描した「ジャムセッション」というものにどんなイメージを持つのかを知りたいと思っているが、私は私で素描に書き加えるものがあるような気がして書き始めたのである。

 それは「場」である。自分の練習を、あるいは練習結果を「さらす」場である。さらし続ける場である。そこには、練習をさらすことによる「相互性」がある。そのことで、お互いにお互いの語学を確認しあうのである。そのことから、継続させる力をもらうのである。

 「有料過程」は、英語力を「作る」場であり、「レッスン」の形をとる。その過程では、英語力を「作る」だけでなく、そのための方法がコーチから生徒に伝えられる。この過程が終わる頃には、時間の厚みが作るものの感覚も得ているだろう。

 「ジャムセッション」は有料過程を終えた人々の場である。コーチから生徒に伝えるべきものは伝えてあるので、英語力を「作る」ことは各自自分で継続できるようになっているはずだ。英語力を自分で作りながら、獲得した基礎的な技術を使い続けて磨く場だと言ってもいい。

 世の中の英語に関係する機関は英語力を「作る」ことしか射程に入れていない。「作る」ことも確かに大変ではあろうが、いったん作った英語力を「維持する」ことはもっと大変である。さまざまな生活上の理由によって、しばらく練習を放置することで、いったん作った英語力は錆びつく。錆つきの進行は、日本では特別に速い。日本語の「磁場」の磁力は、英語という鉄に対する酸性雨として働く。これはとびきり強力な酸性雨である。

 日本在住の人の英語というものは、作り終われば一丁あがり、というわけにいかない。一度しっかり作ったものでも、放置を続ければぼろぼろに錆びてしまう。

 そこには、「維持する」を主眼とした練習場がなければならない。「作る」ことがいきなり終わるわけではない。「ジャムセッション」においても、「作る」ことは継続される。しかし、それは「建前の終わった家」に対する作業のようなものであり、骨組みへのゆっくりとした肉付けに似たものになるだろう。

 イメージを脱皮させ続ける過程だから、時間を十分にかけるのでいい。途中で英語の「磁場」に入ったときに、「からっぽの電池」に充電が起こるだけの練習の質を維持できればいいのである。この頃には、大量の練習によって少量の新たな力を手に入れるような段階に入っている。

 磁場に入り、種のまま持ち続けたものから芽が出ればいいのである。たてつづけにめまぐるしくイメージがどんどん脱皮を繰り返すというようなことも起こるはずだ。それが「磁場」であり、「磁場」でしか起こらないことだ。それはもう語学ではない。語学力は、語学の外で、生活の場で媒介にされるものに過ぎない。

 「ジャムセッション」はいまだ語学の過程である。この時点では、もっとも奨められるのは英語による読書だろう。比較的易しいものを大量に読むことと、「ジャムセッション」の継続を両立させるのはいい練習方法になる。あるいは、ネットでネイティヴと友だちになって、どんどんチャットの文を書くようなことも。

 「作る」過程は、建前のように作業は少々荒っぽい。その日は大工が本来の大工になる。材木を肩にかつぎ、高い材の上を綱渡りのように歩いたりする。まるで鳶の仕事のようにも見えるが、大工の「大」は本来こういう作業をやれる者についた名前だろう。「細工」に対する「大工」は、構築物の構造がわかる者の意味だっただろう。日本が近代化される前は、設計士などという職業はなかった。設計ができる者を大工と言ったのであり、構造がわからない者は大工ではなかった。(私には大工になろうかと思っていた時期があるが、どうしてならなかったのだろう。途中で語学なんか面白くなってしまったのがいけなかった。その頃は、職人を粗末にするような時代が来ることをまるで予想していなかった。)

 屋根屋が入り、屋根工事までは急がなければならないだろうが、その後の工事は比較的ゆっくりとしたものだ。床の工事、壁塗りなど、それぞれ何日も何日もかけてやる。何ヶ月もかけてやる場合もあるだろう。一軒を仕上げるのに、平気で一年くらいかけていたような気がする。
 建前をやって屋根を載せ、あとはゆっくりと丁寧に作る家づくりは少なくなったが、私が子供の頃はほとんどの家をこういうやり方で建てていた。

 「作る」ことを主眼とした過程と、「維持する」ことを主眼としなければならない過程は区別した方がいい。「作る」過程は「建前」である。作業は一日で終わる。語学では実際には数年、場合によってはもっとかかるかもしれないが、家づくりの暦では「一日分」なのである。

 「建前」の比喩はやはり適当ではないのか。
 昔、使ったことがあるが、「縦走」の比喩がいいかもしれない。

 山を遠くから眺めた場合、山の形を成す線を稜線という。縦走というのは、ほぼこの稜線を歩き続けることである。
 縦走をするために、一度は稜線にまで出なければならない。この過程がきつい。英語で言えば、「作る」過程である。稜線を歩くのは「維持する」過程である。歩くのをやめて降りてしまえばそこで「縦走」も終わる。踏み外して落ちてしまってもそこで終わる。きつさは「作る」過程ほどではないが、事故を避け、あきらめずに歩き続ける(維持する)ことには、登る(作る)作業以上の難しさがある。(この過程は長いから、語学の練習においては「無料」で使えるのが大事なことになる。)

 素読舎の「音作り」から始めてもらって、時間が比較的自由にとれる人が、本当に真剣にやった場合は、3年もやれば相当なことができると思っている。コーチに同じことを言わせないことと、自分でやれることをどんどん自分でやることを組み合わせれば、3年くらいで「イントネーションの自己決定力」が作れる人は多いのではないか。その頃には、音に対する注意は急激に減っているはずである。
 素読舎での練習を始める前の学校英語、受験英語での力なども大きく関係するから、3年というのに絶対性はまるでないが、本気でやればがらりと変わることは確かである。あくまで本気でやっての話だが、「七年目の浮気・音読終了」まで5年くらいみておけばいいのではないか。そのくらいで「ジャムセッション」に入れる人というのはかなりいそうな気がする。
 この途中で、ぽつぽつと「話せる」ようになる人が出る。

 いわゆる「勉強会」みたいなものは、語学の場合はほとんどうまくいかない。

 「練習力」がほぼ釣り合っていないと、「ジャムセッション」にはならない。
 もともと「ジャムセッション」というのは、ジャズ演奏家がやるものである。金がからまない演奏であり、競い合いがそのまま遊びになる。遊びがそのまま練習になる。しかし、技術(練習力)がほぼ同じ者でやらないと、「ジャムセッション」はちっとも面白くないだろう。力に差がありすぎると、コーチと生徒の関係みたいなものが生まれてしまい遊びが壊れてしまう。

 「ジャムセッション」では、一枠30分などという枠もなくなるので、同時に3人4人でやることもできるだろう。時間の都合さえつけられれば、1時間でも2時間でもできるだろう。途中からの飛び入りもできるだろう。自分の都合で、途中で先に抜けることもできる。一回の「ジャムセッション」で先に始めた人たちが一人抜け二人抜けして、飛び入りした人たちが残り、メンバーが全部入れ替わっていたなどということも起こるだろう。

 すでに、コーチと生徒という関係はないが、そこもまた練習の場所であることには変わりない。「ジャムセッション」をする者は、全員が各自コーチであり、同時に生徒である。

 これは、素読舎の「有料過程」と、「磁場体験」との中間にあるものだ。「有料過程」ではまだまだ遊びといえるような気持ちの余裕はないかもしれないが、「ジャムセッション」は遊びになりうる。そうして遊んでいれば、「磁場体験」で神経をやられるようなことを防げるはずである。

 ついに「磁場体験」に至らないこともありうるだろう。それは千差万別であるのが当然だ。「磁場体験」というものは、留学などを除けば、ほとんどすべては生活の都合によるものだからだ。それは語学という領域の「外から強いられるもの」である。

 「七年目の浮気・音読終了」レベルの「ジャムセッション」をやる人たちは、素読舎のコーチができるはずだ。生徒が現れ、コーチが現れることを私は夢見ている。夢のままに終わるのかどうか。夢のままに終わったなら、日本で最初の「維持を主眼とする相互練習の場」は、芽を出す前に枯れたということになるだろう。それは今後の賭けになる。


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