語学論
イメージと意味
イメージと意味 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月18日(日)12時56分38秒
この掲示板で私は、「イメージ」という語を使い、「意味」という語を使っていますが、この両者はどういう関係にあるのだろうかとときどき考えます。
私は「イメージ」とは「単語寄り」のものだとしているところがあります。これに対して、「意味」は「文寄り」のものだと考えています。
あらゆる単語ひとつづつに、それぞれ固有の「イメージ」というものがある、とする。すると、辞書というものが成立しうる。
言霊信仰というのを、一つの具体的な語にたましいがあると考えることだとすると、辞書は言霊信仰によって成立するとも言えるのではないか。語のたましいを記述で言い当てることができるという信(仰)がなければ、辞書は成立できないのではないか。
語という体の中に、心のようなもの、あるいはたましいのようなものを想定するのが言霊信仰であるとすれば、辞書を作ることもこの信仰によっているのではないか。記述は「在る」ものについての記述であり、「無い」ものについての記述ではないのだから。
しかし、言霊の正体は「イメージ」ではないか。それはいつでも「抽象されたもの」ではないか。なにかが新しく抽象されるから、一つの語が他のあらゆる語の中に新しく生まれてくるのではないか。抽象された結果を固定するのが、具体的な一つの語ではないか。抽象されたものが結果となるその瞬間をとらえれば、それは「イメージ」そのものではないか。
語にあらかじめたましいがあるのではない。何かが抽象され、他のあらゆる語との間に差異を作るから、語が誕生する。語の誕生とは、いつでも人間の抽象行為(の結果)なのではないか。
あるいは、言霊の正体は「イメージを喚起するもの」ではないか。「イメージ」というものは、生きている人間の中に生きているものであり、辞書の記述がそのまま「イメージ」であるわけではない。記述されたものによって、生きている人間の側に(内に)「イメージ」が喚起されることがあるのは、富士山に登るのに、東の山裾から登っても西の山裾から登っても「同じ」頂上に着くというようなことではないか。たどっている方角が正反対だとしても・・・。
「イメージ」が「単語寄り」のものだというのは、「イメージ」は語(単語)単位で扱うことができるからだというのがその理由になる。
「この単語の意味は・・・」というように、単語を単位として「意味」という語を使うことがある。その「意味」は辞書に記述されている(記述されうる)と考えられている場合が多く、だから「この単語の意味は・・・」という言い方も成り立つし、「辞書で意味を調べなさい」という言い方も成り立つ。
だけど、それは「意味」なんだろうかというのが私の疑問である。
このあたりで、いつも通り、わけがわからなくなってくる。
「イメージ」は変幻しない。一つの語について、人間が「イメージ」することが的はずれであることもあれば、的に当たっていることもある。それはあくまでも人間の側の問題であって、語そのもの、イメージそのものの問題ではない。「イメージ」は変幻しない。どちらの方角から指さしても、富士山の頂上は富士山の頂上としてあり、定位置にある。方角によって形が違って見えることは、この場合、「変幻」ではない。
「変幻」はむしろ「文」だ。たえず変幻するものとして、「文」がある。文法は変幻しないが、「文」は変幻する。変幻しなければ「文」ではないというくらいの本質ではないか。
挨拶文や決まり文句はどうなのか。いつも同じ形で使われるのだから、こういう文は「変幻」しないのではないのか。そうではない。ある具体的な人と人との関係において、ある具体的な朝において、ある具体的な状況において、例えば「おはよう」という挨拶文が言われた場合、やはりそこに「変幻」がある。関係も朝も状況も、絶えず新しく生成されるものだからだ。「文」は新しく生成されるものとの関係において、「文」になるからだ。
こころというものは「変幻」するのだから、「関係」が「同一」であることはありえない。一つの「朝」が他のあらゆる「朝」と「同一」であることはありえない。状況は絶えず「変幻」する。
この「変幻」に対応するのが「文」ではないか。
では、語学における「文」とは何か。
現実の変幻に応ずる「文」の変幻を凍りつかせたもの。
一枚の写真のようなもの。
「変幻」が文の本質だとすれば、語学における「文」は、文のように見えるだけで、実はすでに文ではないのではないか。
本来、「意味」というものは変幻きわまりないものなのではないか。
変なところへ出た。
頭が熱くなってきたので、中断する。