語学論
村田君 投稿者:根石吉久 投稿日:2009年11月30日(月)07時27分17秒
>17.
>「回転読み」の最大の敵は空念仏的繰り返し。
>
>18.
>「回転読み」の完成形と空念仏的繰り返しは酷似する。気を抜いて「回転読み」をやれば、空念仏的繰り返しに簡単におちいる。
>これは僕なんかもとても気をつけなければいけないところだと思いました。
「回転読み」でも、「技法グラウンド」でも、普通の「繰り返し」でも、繰り返しが持つ陥穽は常にあります。空念仏的繰り返しを破るのは、イメージの確かさだけです。それを確保する方法が、「切断読み」であり、その下準備としての「言いながら書きながら思う」です。
それらすべての練習が、「イントネーションの自己決定力」に向かっているのだという話をK夫妻のレッスンの時に録音することができました。私にとっては重要なファイルです。「文全体の音の一連の型」と「イントネーションの自己決定力」の間にあるもの、その脈絡をしゃべれたように思っています。
これまで、「回転読み」のことばかり書いてきたような気がしますが、ようやく最近になって「切断読み」に力点を置けるようになりました。
「切断読み」のことをもっと書きたいと思っていますが、どうにも時間が割り出せません。今回も、「幼児英会話」関連の方に話をもっていくしかありません。
「空念仏的繰り返し」を破るのは、日本の机上ではイメージの強度があるだけで、しかもそれを保証するのは意識の強度だけです。イメージの深度は、意識の強度によって決まります。この場合、すべてが自分の手柄です。個の手柄です。
英語「磁場」では、「環境」の作用で、イメージの強度が意識の外部から保証(強制)されます。イメージの深度は、「環境」によっています。語学から見れば、そこに自分の手柄というものはありません。環境によって決定づけられたイメージというものが、自分の手柄になることはありません。「起点」が違います。
「ぺらぺら」が自分の手柄であるなら、日本人が日本で日本語をしゃべることは、(子供の)自分の手柄であるはずです。そんなことがあるはずがない。知恵熱(言語獲得能力)の手柄ではあっても、「自分」なんてものの手柄であるわけがない。「自分」なんてものは、言語獲得の後にできるものなのですから。
2歳、3歳の日本人の子供が日本語をしゃべり始めたところをつかまえて、それをその子の手柄にする人がどこにいるでしょう。子供が生まれる前から「磁場」はあり、「言語」は存在しています。語に触れて、子供はイメージを持ちますが、イメージの流れる順番は言語に規定されます。語(イメージ)が流れ、その順番がどう語を変化させるかによって、個別言語の文法とシンタックスを獲得していきます。主体は言語そのものにあります。最初に、イメージを持つ時、そこに個の(心の)手柄が点としてありますが、イメージが複数流れつづけて文法やシンタックスが形成される過程では、主体は個ではなく、言語そのものです。言語そのものがもたらすものだから、人々は2、3歳の子供が言葉をしゃべり始めたときに、それを子供の個の手柄だなどとは言わないのです。民衆は言語学者どもよりちゃんと本質を見ているということです。
ここにおいて、私はチョムスキーの「生得文法」という考えに鋭く対立したくなります。やはり、子供の言語習得能力は「生得『能力』」であり、「普遍『文法』」や「生得『文法』」などというものは存在しないと言わざるを得ません。文法は、どこまで行っても、個別言語からもたらされるもので、「普遍『文法』」などと言い出した時点から、お化けを相手にしていることになります。もっとも、私にはチョムスキーを原文で読んだり、言語学に深入りするような時間の余裕がどこにもありませんので、基本的なところで誤読しているのかもしれませんが・・・。
幼児英会話信者という者は、2、3歳の幼児の言語獲得「能力」をアテにしているのです。2、3歳で英語のシンタックスを幼児に注入した場合、ぺらぺらと英語をしゃべる馬鹿ができるかもしれません。2、3歳で注入し、その後もガイジンに触れさせ続け、「磁場」に渡らせれば、一丁あがりだと思います。しかし、そんな者が帰ってきて、日本語だけ使う日本人にお説教めいたことを言い始めた時から、私は蹴飛ばしてやろうと思います。というか、そのテの者に、例えばこの掲示板に少し語学論を書かせてみれば、その無惨さは人の目に見えることでしょう。まあ、その頃は私は生きてはいないでしょうけれど・・・。
日常の磁場が日本語で形成されていても、幼児英語教室という「強制収容所」にいる時間が長ければ、英語のシンタックスが体内に形成されてしまうでしょう。それが、日本語のシンタックスを弱体化しないはずはありません。
私は単にののしるために「馬鹿」と言っているのではありません。日本語のシンタックスが弱体化されてしまった者のことを、科学的に「馬鹿」だと言っているのです。
語学の絶壁は、こんな馬鹿量産所とまったく別のところにあります。
馬鹿な親がやりたければやるがいいのだ。できるものは、無惨でしょう。
意識に発し意識に帰る過程(語学)と、「環境」だのみという信仰(幼児英会話)とはまったく違うのです。吉本隆明の用語で言えば、「自己幻想」、「対幻想」が「共同幻想」と「逆立する」というくらいに異なります。まったく位相が異なります。
子供英会話で得られるものも、気楽な留学で得られるものも、深度は浅く、その英語は「環境」的です。「環境」によって決定づけられています。
理想的な日本人の英語環境は、「空念仏的繰り返し」におちいる寸前の文に、「磁場」(「環境」)がイメージを注入し、「擦れ合う」こと、摩擦熱を出し続けることの繰り返しにあると思います。それは子供がやることではない。子供は日本語ひとつでもそれをやらなければならない存在です。また、英語フリークも「擦れ合うこと」「摩擦熱」までを含めて自覚的に語学をやることはないでしょう。
本来は、語学が「磁場」を使い込むべきなのです。多くの「磁場帰り」は、「磁場」に左右されて帰ってくるだけです。「磁場帰り」の英語は、日本の机上で作った英語にくらべて「ぺらぺら」です。しかし、それは、「磁場」という環境に左右されてできた「ぺらぺら」です。「ぺらぺら」というのは、「左右されている・支配されている」という意味です。イメージの強度という基底そのものが、「磁場頼み」ですから、それは「左右されている・支配されている」なのです。強制され注入されたものですから、言うなれば、強制収容所にみずから望んで入って、その後に出てきたような意識の出来なのです。
私が「俺は日本語ぺらぺらだぜ」と言えば、私の家族は笑うでしょうが、それは私の日本語が環境に左右されるだけではないと家族が知っているからでしょう。「ぺらぺら」以外の場面を生きていることを知っているからでしょう。口ごもり、苦渋にまみれる言語も生きるのだと知っているからでしょう。「ぺらぺら」は馬鹿にやらせておくに限るのです。
「ぺらぺら」に憧れる時点で、なんというか人々はもうすでに「してやられている」のです。
幼児英会話に子供を通わせる親をさして、もうずいぶん昔になりますが、私が最初に発した言葉は、「馬鹿」でした。それは今も変わりません。そして、「馬鹿」に何を言っても駄目だというくらいに、日本は病んでしまいました。と言いますか、親がそれだけ馬鹿なのだから、子供が馬鹿になることに何の不思議があるかというだけのことかも知れません。