語学論
「言語」と「言葉」
4月26日
私は、子どもの頃鳥のヒナをよく孵(かえ)していて、
目もあかない状態のヒナの、羽の先っぽいついたストローみたいなのを
取るのが楽しくて、むきまくっていた。今考えれば
かわいそうなことをしてしまっていた。ストローみたいなのは
これから羽が生えてくるまでの体温調整だったのかもしれない。
自然に取れるまで待っていなくてはいけなかっただろうにね。
娘が今一生懸命、言葉を覚えている様子がなんだかそれに
重なって見える。
ヒナが目が見えて、羽もだんだんのびはじめてる状態かな~
よく「○○って、こういうことなの?」と聞いてくる。
言葉が聞こえるようになって、聞き取れた言葉を覚え、
どういう意味なのか、どう使うのか、疑問を持ち続け、私に聞いてくる娘は
この言語を身につけて、「社会」(日本語圏)の仲間入りしようとしてるんだよね。
その単純な素朴な野心に、感動してしまう。
このヒナの羽のストローみたいなもの つまり成長の兆し(?)を
むしりとらないように、私は気をつけないと。
そんで、息子の4月最後のレッスン、英語格闘の様子だ。
これが、出ない。できない。まるで、岩山をのぼっている様。
「言語を身につけることって、こんなにも大変なんだ」と
はたからみていて、うるる~~星飛龍馬の姐ですか?
日本語にない音だもんね。eのひっくりかえったやつとか。
これを出すってんだもの、すごいもんだ。
9歳の子たちはがんばってたね。
あらためて、親がやってないことを、子どもにやらすのは酷だなと感じた。
私だって、全ての発音記号、満足に出ないもの。
日本に生まれて、親が日本人の場合ね、
日本語の音の中でまずは育つ。
それは、ヒナの目が見えないのが、見えてきて、ストローが取れて羽が生えてくるまでは
どっぷり母語のなかで母語に埋もれて、母語に守られて
体温が失われないように、母の羽に温められる範囲で
母語の声を聞き、社会に出る準備をすべきなんじゃないか?
素読のほか、素聞というのもあるらしい。
母のおなかの中で聞いていた雑音がそれだね~
(以上、江戸の母さんのブログより引用)
(以下、「大風呂敷」からの引用)
江戸の母さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月11日(日)01時50分45秒
>あらためて、親がやってないことを、子どもにやらすのは酷だなと感じた。
私だって、全ての発音記号、満足に出ないもの。
私は酷なことをやらせているとは思っていません。
「冷凍もの」=「種のまま持たせる」という一線がしっかり引かれています。
子供にとっては「音楽の一種」だと思ってもらえば、正解だと考えています。
素読で扱うのは、「言葉」ではありません。
「言葉」をいったん「言語」にするのが素読です。
「言葉」ではなく、「言語」(冷凍もの=種のまま)だから、害もありませんし、酷でもありません。
そして、英語の「磁場」に交わる時が来れば、交わっていける素地は少しずつできていきます。
江戸の母さんは、「言語」を「言葉」と区別していないと思います。
幼児英会話のように、英語という言語を、日本語の磁場で、「言葉」にしたら、害があります。「言葉」の受け皿がないということほど残酷なことはないと思います。
言語 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月11日(日)05時04分53秒
私の書いた
>あらためて、親がやってないことを、子どもにやらすのは酷だなと感じた。
私だって、全ての発音記号、満足に出ないもの。
これは、そのとき思ったことで、正直な気持ちですが、だからといって
子どもたちがやめるということもなく、淡々とこなしているのは
>子供にとっては「音楽の一種」だと思ってもらえば、正解だと考えています。
根石さんの書かれた上のことを、わかっているからかもしれませんね。
>素読で扱うのは、「言葉」ではありません。
「言葉」をいったん「言語」にするのが素読です。
簡単なようでいて、理解するのは難しいかもです。
「言語」というと、C言語、コンピュータを動かすためのプログラム言語を思い出してしまいました。コンピュータを動かすという目的のためだけの言葉。C言語はずっとC言語のままで言葉にならない。「言葉」になるのは、「人」を介した時、発話された時になるのかなっと。まったく検討はずれかもしれませんが。
あと思い出したのは、根石さんの「死を扱う技術」という言葉も思い出したのですが、これはつながりますか?
私も上記のことを心して、考え続けます。
江戸の母さん 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月12日(月)00時08分38秒
「発話」したら、それは「言葉」か?そうではないと思います。
「言語」は個人を越えてあるもの。私は根石さんの定義をそう受けとりました。私が10分後に死んでも、私がいなくなったこととは関係なく「言語」はあります。
英語のテキストが本屋へ行けばたくさん置いてあります。あるいは英語で書かれた本がたくさんあります。スペイン語やドイツ語、韓国語の本も、本屋にはたくさん置いてあります。ただ眺めていれば、自分には関係ありません。自分とは無関係に、それはあります。
一度、英語を自分のものにしようと思い、語学として英語を自分の中に取り込み始めたらもう自分とは無関係ではありません。けれども、どれだけ激しく声に出して読もうとも、それはまだ「言語」なんだと思います。
では、「会話」になっていればそれは「言葉」なのか。おあいそとか、おためごかしとか、社交辞令とかいうことばがあります。じゃあそれは「言語」と「言葉」に腑わけした時、「言葉」なのかと言ったらそれは違うと思います。「言葉」は、生きて行く中で、切実な気持ちがこめられているものだと思います。「言葉」は、すでに語学の領域ではないのだと思います。
「言葉」は生きていることそのもの。「言語」は死んでいる。「死を扱う技術」とは根石さんが言う意味での「語学」のことだと思います。死んでいるものを一度受け入れ、生きている自分のものにする。
「語学」は、自分の「言葉」を獲得するまでの、長い長い道のりではないか。私はそう考えました。
村田さん 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月12日(月)23時41分19秒
言語と言葉について、わかりやすく書いていただいてありがとうございます。なるほどと思いました。
>「言葉」は、生きて行く中で、切実な気持ちがこめられているものだと思います。「言葉」は、すでに語学の領域ではないのだと思います。
ここのところが、もっとつきつめていけるかなと思いました。前者は”それがないとここをきりぬけていけない”という緊迫状況においてある(存在する)のかなと思いましたが、後者は、まだちょっとぴんとこないのですが、これから、片隅において、考えていきますね。
村田君、江戸の母さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月18日(日)05時01分12秒
「言葉」と「言語」について。
「発話」したら「言葉」なのかという江戸の母さんの疑問に対して、そんな簡単なことじゃねえだろというところまでは同意します。書き言葉はどうなるんだという問題があるからです。
だけど、「言葉」は「切実な気持ちが込められているもの」というのも、そんな簡単なことじゃねえだろと思います。
村田君は、とても「文学的」だと思います。
人間(だけが)持つ何かが「言語」を媒介にして「言葉」を生み出すのだと考えています。「人間が持つ何か」をまだ正確に言った人はいないと思います。チョムスキーは「普遍文法」と言いました。それを言おうとした人は、今のところ、私が知っている限りではチョムスキーだけです。しかし、「普遍文法」という言い方をそのままでは受け取りかねています。
確かに「普遍」であるものがあります。どんな言語の中に生まれてきても、子供はその言語に反応し、媒介にし、「言葉」を生み出します。だけど、その元にあるのは文法なのか。「文法」という日本語単語と、grammar という英単語で言っていることが違うのか。チョムスキーの言う「文法」は実体ではなく、比喩なのか。
(比喩だとしたら、私の「磁場」みたいなもんで、「論」には使えるが「学術論文」には使えない。)
吉本隆明は「指示表出」「自己表出」と言いました。この言い方では、「人間が持つ何か」は、「自己表出」の方が担っているのかもしれません。赤ん坊は何も「指示」しない場合でも、(おしめが濡れて)気持ち悪いとか、腹減ってるんだぞとか、「自己表出」はします。「おしめ」とか「腹減った」という具体的な語による指示は一切欠いて、「表出」はしています。だけど、そのレベルのことだけならうちの猫でもやります。
声の調子や声の張り上げでなく、語によって、あるいは語の組み合わせによって指示するということは人間の内なる何かが言語を媒介にした場合にだけ生じます。その「何か」とは何かです。
私は吉本の「言語にとって美とはなにか」を読めたという気がしたことはありません。
「ハリマオ」で、松岡さんが、「指示表出」と「自己表出」が交わって作るグラデーションと言っていたことを考えます。
吉本において二項だったものに、「グラデーション」が加わって、松岡祥男においては三項になっていると読んだら誤読なのか。
(私の場合日本に生まれたので日本語という)言語は、私が生まれる前から存在した。私はやがて死ぬが、私が死んでも「言語」は存在し続ける。「言語」は、個としての人間の生死を超えている。
言葉を覚えるというのは、人間の内なる何かが「言語」を媒介にしたということです。そこに「言葉」が生まれます。
卵子と精子のどちらがどちらを「媒介」にするのだか知りませんが、いずれにせよ、赤ん坊はすでに卵子でもなければ精子でもない。三項目になる。
「言語」と「人間の内なる何か」のどちらがどちらを媒介にするのだか知りませんが、いずれにせよ、「言葉」は「言語」でもなければ「人間の内なる何か」でもない。三項目になる。
赤ん坊も「言葉」も「外化されている」。
赤ん坊の場合は、母の腹から「出ている」=外化されている。
「言葉」も、「人間の内なる何か」ではなく、他人が聞いたり読んだりできる=外化されている。
「言葉」が生まれることと赤ん坊が生まれることはとてもよく似ている。
「言語」は(あるひとつの)命の生死には関係しない。個々の命の生き死にを越えて存在する。
「言葉」はそれを発する命がある時間を越えない。個々の命が発する。
今のところ、この程度に大雑把なことが言えるだけですが、私にとって、「言語」と「言葉」はまったく別のものです。
語学をやる人のほとんどが陥っている迷妄は、「言葉」でないものを「言葉」だと思っていることです。どれほどありふれた挨拶みたいな文でも、それが「練習の対象」としてのものであり、「机上」の音であったりする場合は、「言葉」ではありません。「言葉」の形をしているが、本質は言語(を内蔵するもの)でしかありません。
「切実な気持ち」があろうがなかろうが、「おためごかし」であろうがなかろうが、「話し言葉」であろうが「書き言葉」であろうが、生きた人間が発し、それに心を動かされる人がいて、そのことによって「関係」が変わったり、「ものごとのありよう」が変わったりするなら、そこにあるのは「言葉」だろうと考えています。語学でどんな文を何百回、何千回言おうと、それによって、現実の「関係」が変わることも、「ものごとのありよう」が変わることも1ミリだってありません。
「言語」は現実を規定したりしますが、現実を動かすことはできません。
「現実」を動かすのは、「言葉」です。
じゃあ、法律の条文はどうなのか。あんなもんが「言葉」と言えるのか。
逆に、憲法9条に「切実な気持ち」はないのか。
「言葉」に、「言葉の言葉」という極北(詩)がある。
「言葉」にはまた、きわめて「言語」寄りの言葉の堕落形態(?)がある。
で、私の関心に引き寄せて言えば、語学で扱っているのは、「言葉のような言語」なのである。「生きているかに見える死体」と言ってもいい。
語学の成果とは、「ミイラが踊り出すようなこと」とは至言である。
自分で言っちゃなんだが。